平和ボケとは戦いや兵隊はかっこいい事と思い
戦争に賛成する事だと思う
始まって人●しが合法になってから目が覚める
あと、正義の為に戦うとか正義は必ず勝つと思う思考
↑より抜粋
江戸時代の日本の国家目標は「戦争撲滅」であった。
ところが明治はそれを180度しかも
早急に改めねばならないということになったので
鴻雪爪(おおとりせっそう)は戦国時代の
「僧兵、あるいは一向衆」の近代的復活を目指した。
これは平たく言えば「仏教改革」だが、その一方で明治新政府は
「神道改革」として天皇を「現人神」に祀り上げ国民を絶対的に服従させる
「国家神道」を構築した、というのがこれまでの常識であった。
「国家神道」という用語自体は昭和20年以前には存在しなかった。
これはもともとアメリカ軍の用語であり、その日本語訳だからだ。
しかし、戦前にこの言葉が日本に存在しなかったからと言って
そう呼ばれたものの実体が無かったとは言えない。
戦前「国体」と呼ばれていたものと同じだと考えることもできるからだ。
まさに、そう考えたのが宗教学者村上重良で、その著者「国家神道」は
このような考えを戦後常識として定着させた。
ところが、この考えに真っ向から異を唱えたのが
新田均皇學館大学教授である。
新田は、その著者
「現人神、国家神道という幻想ー絶対神と呼び出したのは誰か」
において、明治以来の「国史」つまり国定教科書を精査し
「現人神」という用語が明治でも大正でも無く
太平洋戦争開戦の年である昭和16年になって
初めて教科書に登場することを確認した。
もし、大日本帝国が
「天皇を現人神とする国家神道を国民に強制し
その結果国民が侵略戦争に駆り立てられていった」とするなら
遅くとも日清あるいは日露戦争のころから
青少年に対する洗脳教育が始まっているはずなのに
そのキーワード「現人神」は
大日本帝国の最晩年にしか登場しないのである。
ならば、学校教育以外の場でそのような洗脳が行なわれたのか?
それは効果の面でも費用の面でも大変考えにくいことだ。
日本は国民が毎日曜日に教会に行くキリスト教国では無いのだから。
日清、日露のころにもそんな「国家神道」など無かった。
教育勅語(ちょくご)については「それ以後」の世代であり
「国家神道実在説」の論者が言うように
教育勅語も国民を戦争に駆り立てる「国家神道」の一環であり
明治国家が当初から国民を「国家神道」で強化しようとしていたのなら
当然その影響を受けるはずなのに天皇という言葉はまるで登場しない。
やはり、「国家神道つまり現人神を絶対神とする宗教」は
日露戦争のころにも存在しなかったのだ、と新田は主張している。
ただ、ここまでは納得しても新田の最終結論である
「注入すべきイデオロギーが存在しなかったのだから
イデオロギー注入装置が存在するはずがない。
この短い物言いで国家神道実在論への批判は尽きてしまう」
を率直に受け入れる人は少ないだろう。
たとえば逆に「明治大正には存在しなくても
現人神が教科書に登場する昭和16年ごろには
「国家神道」は成立していたのではないか」
などという疑問が浮かぶであろうからだ。
もちろん新田はこの著書でそうした疑問にも丁寧に答えているのだが
その論証の検討の前にもう少し予備知識というか「補助線」にあたる
宗教史を見ておく必要がある。
それは一向衆の拠点であった本願寺の歴史である。
戦国最大の戦闘集団で大坂石山に本拠を構えていた本願寺は
織田信長に降伏し一時は紀州鷺森(さぎのもり)に退去した。
しかし、豊臣秀吉は本願寺を京都に移転させ
相続争いに介入し組織の弱体化を図った。
そして徳川家康はこれを最終的に東西に分裂させた。
これにより元からあった本願寺は通称「西本願寺」となり
家康の後押しでできた本願寺は通称「東本願寺」と呼ばれた。
江戸時代を通じて「西」と「東」は仲が悪かった。
もともと内部対立があったのを煽り立てて分裂させたからである。
当然「東」は家康に恩義を感じ常に幕府の味方であり
「西」は朝廷の味方であった。
この対立は幕末まで持ち越された。
幕末、長州出身の勤皇僧として活躍した月性(げっしょう)
(西郷隆盛と入水した月照とは別人)は「西」の僧であった。
諸国を遍歴して吉田松陰や頼三樹三郎(らいみきさぶろう)など
勤皇の志士とも親しく、尊王攘夷(じょうい)を
鼓吹(こすい)し、松陰にも大きな影響を与えたという。
また国防を充実するため
「西」より蝦夷(えぞ)開教使を命ぜられたこともある。
後に正四位(しょうしい)を贈られたが
これは鴻雪爪の従四位より一階級上である。
月性は結局病のため蝦夷開教使としては赴任できず
維新を見ることも無く42歳で死んでしまうのだから
これは相当高い評価と言っていいだろう。
明治の立役者となった木戸孝允(たかよし)や
伊藤博文ら長州人のひいきもあったろうが
じつはこの高評価の理由は、禁門の変の敗北後
長州藩が一時「朝敵」となった時も
「西」が一貫して長州藩を支持し続けたからなのである。
最近、興味深い史料が「西」から発見された。
次のようなものだ。
幕末に西本願寺を屯所(たむろじょ、とんしょ)とした
新撰組の副長、土方俊三(1835~69年)が
猛暑で士気が下がった隊士の統率に困り果て
宿舎の待遇改善を寺側に懇願したという記述が
西本願寺の寺務日記から見つかり
浄土真宗本願寺派の本願寺史料研究所が2日発表した。
寺務日記によると
土方は慶応元年(1865)6月25日に寺の担当者と面会。
宿舎の建物が隊士1人当たり1畳と手狭なため
「炎暑の時節、誠に、誠にもってしのぎかねる」と訴えた。
病人が出て公務がままならず、隊士からの苦情を制止できないとも明かし
「甚だ無体なる願い」と前置きしながら
本堂の阿弥陀堂を50畳分追加で借りたいと懇願した。
寺側はこれを断ったが、代わりに宿舎の板間に畳を敷くとともに
壁を取り払って風通しを良くすると返答。
土方は同日中に礼状を書き「何分速やかに」と念を押したという。
新撰組はこの年の3月
壬生(みぶ)村から西本願寺に移り、2年3か月間駐屯した。
(産経新聞2014年9月3日付大阪朝刊)
注意深い読者はこの記事にある本願寺のことを
一瞬「東」のことかと思ったかもしれない。
なぜなら新撰組は幕府側の組織であり、屯所として選ぶならば
幕府に好意的な「東」を選ぶと誰もが思うからだ。
しかし土方が選んだのは「西」であって「東」では無い。
ではなぜ、土方は「西」を屯所としたのか。
それは「西」が長州人や勤皇浪士を
かくまっているという情報が入っていたからである。
実際、禁門の変で敗れ朝敵とされ
京都藩邸という拠点を失った長州藩では
在京都大使とも言うべき桂小五(木戸孝允)も
物乞いに変装して潜伏しなければいけなかった時期があった。
そんな時も「西」は決して長州人を見捨てずかばい続けた。
この背景には皮肉なことに家康が毛利家を封じ込めた
長門(ながと)・周防両国が戦国以来門徒の多いところで
しかも「西」の教区であったということもある。
当然、「西」に属する門徒たちは
「東」を作った家康に反感を持っていたはずだ。
確かな数字はわからないが
この地方出身の僧侶が「西」には大勢いたに違いない。
通常、仏僧は出家すると俗世の縁から離れるのだが
本願寺は妻帯を認める宗派である
地縁、血縁は他宗の比ではない。
業を煮やした土方は新撰組の屯所を無理矢理
「西」に移転することによってにらみをきかせようとしたものらしい。
ところが「西」もさるもの、決してボロを出さなかった。
新撰組をわざと暑くて狭いところに押し込めたのかもしれない。
とにかく長州人にとって「西」は命の恩人になったということだ。
そこで明治維新になっても長州藩と「西」の蜜月関係は続いた。
ここで再び廃仏毀釈(きしゃく)のことを思い出して欲しい。
維新勢力の2本柱とも言うべき薩摩藩の地元鹿児島県では
廃仏毀釈の嵐の中で仏教勢力は完全に駆逐され
藩主の菩提寺ですら破壊された。
しかし長州藩の地元山口でも萩(はぎ)でも
それほどの破壊が行なわれたという話は聞かない。
なぜ薩摩と長州にこれだけの温度差があるのかと言えば
長州には本願寺とくに「西」に感じていた恩義
あるいは親近感がその根底にあるからだ。
「西」とは宗派が違うが、同じ仏僧であった鴻雪爪も
木戸孝允とはきわめて親しい関係であった。
長州は仏教界に大きく関わっており、廃仏毀釈の実施
あるいは本章のテーマでもある「宗教の整備」においても
「神道派」の薩摩と「仏教派」の長州の
厳しい対立が底流にあったのである。
明治5年(1872)明治維新が天皇の名をもって断行され
神仏分離令も出たことに力を得た神道勢力は
政府を動かして大教院(だいきょういん)を設置させた。
「神主仏従」の形で「内教」を整備するためである。
ところが「神祇(じんぎ)不拝を伝統とする
真宗西本願寺教団からは強い不満が出て
東京の大教院および地方中教院での神仏合同布教に反対した。
結局、この真宗教団の主張は政府においても認めるところとなり
75年5月大教院は解散された」
という結果に終わっている。
廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ仏教各派は
神道勢力の鼻息を窺(うかが)っているという状況の中
なぜ「真宗西本願寺教団」が
政府の方針を撤回させることができたのか?
理由はもうおわかりだろう。
ここで注目すべきキーマンは、島地黙雷(しまじもくらい)
(1838~1911年)であろう。
勤皇僧であった月性と同じ周防国の出身の
浄土真宗本願寺派(いわゆる西本願寺)の僧であり
長州藩出身の志士たちとはきわめて親しかったから
月性の後継者と言ってもいいだろう。
年齢は黙雷のほうが21歳年下である。
後に盟友とも言える関係となる
長州の木戸孝允は5歳年上
高杉晋作よりは1歳年上である。
その高杉が下関戦争で欧米列強に惨敗した
武士階級の不甲斐無さに怒り
市民軍とも言うべき奇兵隊を結成した時、その趣旨に賛同して
黙雷は僧侶中心の部隊「金剛隊」を結成し戦闘に参加した。
同じく木戸の盟友であった鴻雪爪が目指していたと思われる
「僧兵の復活」そして「戦士だが家に帰ればよき父で夫」
という戦国の一向宗の姿を黙雷は幕末にすでに実現していたのである。
高杉の死後、天成の調整家である木戸が
自分の「宗教の整備における代理人」に黙雷を選んだのも
「あの男は単なる口舌(こうぜつ)の徒では無い。
ともに戦った同志だ」という思いがあったからに違いない。
そして、この下関戦争は欧米列強との戦いであり
それはとりもなおさず「キリスト教徒白人」
との戦いであったことを現代人の我々は見逃しがちだ。
しかし、前にも述べたようにイギリスが清に仕掛けた
アヘン戦争はまさに「ヤクザのやりくち」であった。
そんな無法国家がキリスト教という
「邪教」によって団結し東洋の植民地支配を進めている。
それが日本人の共通認識であった。
これは朱子学による
異文化蔑視のもたらす偏見とは言えまい。
キリスト教が邪教(黙雷は妖教と呼んでいた)
であるという決めつけはともかく
「右の頬をぶたれたら左の頬を差し出せ」
などという教えを受けたはずのイギリス人が
東洋に対して行なっていることは
「先手を打って右も左も急所も殴り徹底的にぶちのめす」
というやり方であった。
これはまったくの事実である。
この時代になるとキリスト教の内容も
断片的ながら日本に伝わっていたが
彼らが東洋に対して行なっている蛮行から類推すれば
キリスト教はこのような蛮行を奨励する
とんでもない邪教(妖教)ということになる。
とくに彼らと実際に戦い(おそらくは)
同志を殺された黙雷はそう痛感したはずだ。
そこで本質的には宗教人である黙雷は何とかこの
「妖教の浸潤(しんじゅん)」を防がねばならないと考えた。
しかし、日本が開国政策に転じた以上これまでのように
「キリスト教禁教令」を出して「防御」するわけにはいかない。
日本の伝統的宗教を強化してキリスト教に対抗するしか無い。
ここのところ鴻雪爪の提唱した「内教の強化」に似ているが
決定的な違いは雪爪の言う内教とは神道および仏教に儒教も含み
どちらかと言えば「神主仏従」であるのに対し
黙雷はそれを仏教しかも真宗を中心とした
「仏主神従」いや「真主神従」にすべきと考えていたことだ。
黙雷は欧米列強との実戦経験がある。
すなわち「日本刀で蝦夷(外国排撃)ができる」
などと考えるような夢想家つまり「朱子学バカ」では無い。
むしろ、その反対で徹底的なリアリストであり
中国に範を求めるなら朱子ではなく孫子を選ぶだろう。
その孫子に「敵を知り己を知らば百戦危うからず」とある。
戦いに勝つためには敵をじゅうぶんに知らねばならぬ。
そのために黙雷が選んだのは
明治初頭に西洋先進国を歴訪した岩倉使節団の一員となり
欧米で宗教の実態調査をすることだった。
正確に言えば当初から岩倉使節団に
参加同行したのでは無く後を追う形で渡欧した。
資金は西本願寺が負担したのだが
途中岩倉使節団の福地源一郎が特命を受け
少数でオスマン帝国の内情を探りに行った時には
正式に同行している。
長州代表の木戸孝允の意向であってのことだろうが
黙雷はキリスト教だけで無くユダヤ教やイスラム教まで現地で学んだ。
キリスト教の分野では西方のカトリックと
東方のギリシャ正教との違いにも注目しているほどだ。
「大宗教の東西分裂」ということなら本願寺も同じであり
黙雷にとっては他人事では無かったのだろう。
また黙雷はヨーロッパから中東のエルサレムにも行った。
日本人として初めての訪問だったかもしれない。
さらに帰途インドにも渡り仏跡巡りもしている。
彼が著わした旅行記「航西日策」を
ざっと見てみて印象的なのは僧侶であるにもかかわらず
黙雷にとって仏跡巡りはそれほど重要なことでは無く
むしろキリスト教研究が主眼であったということだ。
インドの仏跡とは実在の人物
ゴータマ・シッダッタ(釈迦如来)の足跡の地であり
釈迦では無く阿弥陀如来を唯一の仏として
「選択」した黙雷にとっては、さほど重要では無かったかもしれない。
しかし、それ以上に黙雷がキリスト教にのめり込んだのは
岩倉や木戸も驚愕した西洋文明を生み出したのは
他ならぬキリスト教であり
妖教などでは無い大宗教だという発見があったからだろう。
そればかりでなく黙雷はどうやら「敵」であるはずの
キリスト教に「親近感」すら抱いたらしい。
それは次のようなことである。
黙雷は、キリスト教の歴史を
現在へと進化してきたものとして把握した。
ミトロジー(神話。黙雷は古神教などと訳している)から
カトリック(旧教)そしてプロテスタント(新教)
という進化をたどり、進化の頂点に立つ新教が
キリスト教として最高の地位にあるという理解である。
そして彼はこの図式を日本にも適応する。
ミトロジーに神道、旧教に真宗以外の仏教諸宗派
そして新教に真宗をあてて
真宗は、卜占(ぼくせん)や祈祷を禁じる点、肉食妻帯を認める点
そしてなにより阿弥陀仏へ一元的に帰依する点で
「本邦(ほんぽう)の新教」であるという。
「日本宗教史」において進化の頂点に立つのは真宗だというのである。
(「島地黙雷」政教分離をもたらした僧侶 山口輝臣著)
つまり「真宗のほか、日本に宗教らしいものはない。
一神教でなければ世界でものはいえず
そして幸いなことに、真宗は一仏である」というのが
キリスト教を徹底的に分析研究した黙雷のとりあえずの結論であった。
しかし、この結論には大きな問題点というか落とし穴があった。
それはこの本の著者である
山口九州大学大学院准教授(当時)も指摘していることだが
この結論では真宗とともにキリスト教も
優れた宗教ということになってしまう。
キリスト教を排撃するのが目的なのに
これではその排撃を正当化するのは難しくなる。
実際、後のことだが黙雷はこの件で
とんでもない「しっぺ返し」を受けた。
黙雷には9人の子供がいたが
(3人は夭折:ようせつ→若くして死ぬこと)
次男の雷夢が何とキリスト教に改宗してしまったのだ。
その理由は雷夢の内心の問題だから今に至るまで不明だが
父親のキリスト教研究の結論である真宗と新教の類似性の指摘が
息子のキリスト教への親近感を生み出したことは間違いないだろう。
しかし、その「親近感」はもとはと言えば父黙雷が
キリスト教に強烈な敵愾心(てきがいしん)を
持っていたから生れたものだ。だからしっぺ返しなのである。
宗教人として黙雷の課題は
真宗と新教の類似性の発見なのでは無く
仏教とくに真宗がキリスト教より優れている
という「証明」をすることだったが
彼にはその時間も余裕も無かった。
この点は次世代への課題として申し送られることになった。
そこで、黙雷がとりあえず目指したのは何と
「政教分離」「信教の自由」という
近代社会に欠かせない理念による体制の確立であった。
黙雷がそれを目指したのは一見不思議に見えるかもしれないが
真宗絶対主義とも言うべき彼の立場に立ちその視点で見ると理解できる。
まずライバルである神道に絶対的優位を与えないためだ。
国家主導の「宗教の整理」を容認すると
どうしても天皇家と結びついた「神主仏従」の形になってしまう。
現に神仏儒の三教融合のスローガンのもとに造られた
国家組織「大教院」では芝の増上寺(ぞうじょうじ)
境内に置かれた礼拝施設も「古事記」に出てくる
天地創造の神、造化三神(ぞうかさんしん)
天之御中主の神(あめのみなかぬしのかみ)
高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
神産巣日神(かみむすひのかみ)
に皇室の祖先神である天照大神を合祀したものであり
次のような根本的なルール「三條教憲」を発布した。
第一條 敬神愛国ノ旨ヲ体スヘキ事
第二條 天理人道ヲ明ニスヘキ事
第三條 皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事
これは明らかに「神主仏従」で
「仏」という言葉はどこにも無い。
そこで黙雷の主導で多数の信徒を抱える
東・西本願寺がここから離脱した。
このため大教院は廃止に追い込まれた。
黙雷は真宗こそ日本の宗教界の頂点に立つべき
もっとも優れた宗教であるから、国家の統制さえ受けず
自由競争の状態であるならば必ず勝てると踏んだのだろう。
これはキリスト教についても同じこと。
時代に逆行するキリスト教禁教令など必要は無く
むしろ時代に適合した政教分離(=信教の自由)
という「同じ土俵」で戦うべきなのである。
それで勝てるし勝てばよいのだから。
その戦略は「次男の裏切り」という
想定外の大誤算も生んだが全体的には成功であった。
日本がキリスト教に染まってしまうという
事態は何とか避けられたからである。
これは私独自の見解だが
黙雷はそもそもそれほど危機感を抱く必要は無かったと思う。
本来キリスト教の儀礼であるクリスマスなどが
これだけ「日本の祭り」として取り込まれている現在でも
日本のキリスト教徒は全人口の約1%である。
日本人に何でも取り入れる「多神教的体質」と
純然たる一神教はそもそも水と油で
キリスト教の一神教から来る独善的で排他的な傾向は
日本人の精神と根本的に相容れないのだ。
真宗だって「一神教」ではないか
という疑問が浮かぶかもしれないが
真宗とキリスト教の決定的違いは
十字軍を認めたキリスト教と違って
本来の真宗は反対者の撲滅を許さない、というところにある。
こうした「マイルド」さが真宗が日本人に受け入れられた理由だろう。
ここで黙雷もあえて言及を避けていたと思われる
重大な問題点について触れておこう。
西洋のキリスト教と真宗の大きな違いである。
それはキリスト教国においては国王や元首がその信者であるのに
日本においては天皇は真宗の信者では無いということである。
この決定的な違いをいかにして克服すべきか。
それは神道を他の宗教とは別物の
「天皇家の祭儀あるいは儀礼」としてしまうことである。
そうすれば神道と真宗が「同じ土俵」で相争うという
もっとも憂慮すべき事態も回避することができる。
そうした運動を進めていた仏教勢力に対し
それを傘下に置こうとするなら
一致団結せねばならぬ神道勢力に大きな内紛が起こった。
それまで造化三神+天照大神(皇祖神)
の四柱を祀るのが明治政府の神道祭祀だったが
これに対し「幽界の支配者」である
大国主命(おおくにぬしのみこと)を合祀し
五柱とすべきだという声が「出雲派」の神官たちから上がったのである。
これを祭神(さいじん)論争という。
祭神論争とは、明治12年(1879)
当時国家機関である神道事務局の神殿に
「古事記」に登場する「天地創造の神」とも言うべき
造化三神に皇室の祖先神である天照を加えた
合計「四柱」の神が祀られていたことについて
当時出雲大社の宮司であった千家尊福(せんげたかとみ)が
「大国主命」も合祀すべきだと主張。
それに対し賛否両論の声が挙がり
神道界を真っ二つに割る大論争に発展したことを指す。
なぜ「出雲派」は大国主命も合祀すべきだと主張したのか。
それは「顕界(げんかい)」の支配者である天照大神に対し
あの世である「幽界」を支配するのが大国主命だという教えが
日本神道史の中で発達を遂げていたからだ。
国学者であった本居宣長は
「死後の世界」の存在は確信していたが
そこはケガレに満ち何の救いも無い絶望の世界だった。
愛妻に先立たれた
国学者で神道家でもあった平田篤胤(あつたね)は
この「地獄」には耐えられなかったのか
大国主命が「幽界」の支配者で
死者はそこへ行って救われると説いた。
このあたりから大国主命に新しい神格が加わり
出雲系の神社の神官たちは熱烈に支持するようになった。
当然、教えは日本中に広まった。
千家宮司が大国主命の合祀を
熱烈に主張したのはそういった背景があった。
ところが、この論争に出雲派は敗れる。
伊勢神宮(祭神は当然、天照大神)を中心に団結した
「伊勢派」が合祀を断固拒否したからである。
伊勢派はなぜ拒否したのか?
基本的には大国主命を幽界の神とする信仰が
伊勢派の反対を押し切るだけの力を持っていなかったことがある。
何より大きいのは天照大神は
そもそももっとも「ケガレ無き」状態から生まれた神であり
そのもっとも清浄な神に幽界(死後の世界)の
ケガレにまみれた神を近づけることは許されない
と伊勢派が考えたからではないか。
じつはそういうことを書き残した史料は
私の知る限り存在しないのだが
日本の文化に連綿として受け継がれてきた
「ケガレ忌避」の伝統がその時も守られたと私は解釈している。
もし、この時神道勢力が
「天皇を現人神とする国家神道」を
ぜひとも立ち上げたいと考えたのなら
この件については伊勢派は出雲派に妥協すべきであったと考える。
なぜならば、これから帝国建設のために多数の戦死者
(犠牲者)を出すことになるであろう大日本帝国が
国家として死者を祀る「祭祀権」を
いったんは放棄してしまったということだからである。
これは仏教の息の根を止めたかった人々にとってもマイナスであった。
薩摩人はそう考え葬儀も神式で行なうようになり
国家の葬祭儀礼も神道式に統一しようと考えていたのだが
この結果真宗と連携した長州人を利することになり
仏教は相変わらず「葬祭」つまり
「ケガレ部門」を担当するという形で生き残ったからである。
もちろん、その陰にはそうした形での生き残りを目指した
島地黙雷など真宗関係者の政治工作があったことも間違い無い。
この巻おわり
「信教の自由」の理由?
ここに緑が加わる。
— U (@wayofthewind) November 23, 2015
【緑チーム】
新世界秩序 国連 ユーロ 北欧東欧 テクノクラート
どう転んでも最終的には、ここに統合されていく仕組み。
では、なんのための新世界秩序か?
その命令系統の最上位って?
こういう見方をすればいい。
@sayunalily1
— saw👼理想主義・自由主義・人道主義 (@saw0x) March 17, 2018
赤チームの混血貴族とはなんですか?
【混血貴族】
— U (@wayofthewind) March 17, 2018
ロスチャイルド、ラテン、ユダヤ、スラブ、華僑などの大富豪。
ロシア、中国、インド、ブラジルにもいますね。
@alotofredcomet @lanekota 演劇みたいなものですよね。配役とシナリオがあって。「今回はロスちゃん善玉ね。ロックくんは悪役だけど見せ場あるし続編でいい役振るからよろぴくね~」みたいなムカつく監督がいる(笑)
— U (@wayofthewind) October 4, 2012
下記の皇室人脈をさかのぼると、すべてキリシタン大名の島津家に行き着く。長州の支配力が見えてくる。長州力と小沢一郎って、よく似てるよね(笑) 珍しい顔なのにさ(笑)
— U (@wayofthewind) June 27, 2014
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