血筋にこだわるのは霊力が薄まるからかも

どこかで朝鮮人にすり替えられたとしても

家系の血が濃ければOK?

 

↑こちらより抜粋

 

つまり、光圀は「伯夷・叔斉伝(はくい・しゅくせい)の

エピソードを知ったことで歴史に強い関心を抱くようになったが

「大日本史」を作ろうと思い立った直接のきっかけは

この林親子の作った「本朝通鑑(ほんちょうつがん)」に

絶対に認めることの出来ない「問題箇所」があったからだというのだ。

その「問題箇所」とは一体何か?

これをクイズに出しても、歴史学者はともかく

一般の人はまず答えられまい。

それほど「奇想天外」な「有り得ない」話なのである。

 

それは実は「天皇中国人説」であった。

林親子はそれを唱えていたのである。

「そんなバカな」と思う人が今は大多数であろう。

しかし、彼等は大マジメであった。

なぜなら彼等は儒教の徒であるからだ。

儒教というのは、言うまでもなく発祥の地は中国である。

そして、中国というのは単なる地名ではなく

特別な意味を持つ言葉であることは何度も説明したので

よくご存知であろう。

「中華の地」つまり「世界で一番優れた国」ということだ。

そして「中華文明」以外に文明は存在しないし

中国の君主つまり皇帝こそ世界で唯一の至高の存在である。

この後に日本人はこれに反発して「日本こそ中国(=世界で一番優れた国)だ」

と主張するようになり、たとえば山鹿素行(やまがそこう)は

「中朝事実(ちゅうちょう)」などという本を書くようになった。

「中朝」とは「中国」のことであり、直訳すれば「中国の歴史」ということだ。

しかし、素行がこの中で「中国」と呼んでいるのは、実は日本のことなのである。

 

そう考えれば、日本で最も優れた「徳」のある家系である天皇家は

この国でもともと生まれたものというより

中国から「聖人の子孫」が渡って来た、と考えるのが「自然」だということになる。

しかも、その「神話」も、天皇家は「大和」の外から来たのではないかと

推測される書きぶり(天孫降臨)である。

そこで、林羅山(らざん)は、天皇家を中国で最も理想的な王朝とされた古代

「周(しゅう)」の太伯(たいはく)の子孫だとした。

太伯とは、周王朝を起こした武王の父・文王:ぶんおう(本名「姫昌(きしょう)」

生前は殷(いん)の紂王(ちゅうおう)の家臣であったが

息子が紂王を倒して武王(ぶおう)となり周を起こしたために

文王と呼ばれるようになった)の伯父(父母の兄や弟)にあたる。

すなわち、ややこしいが、太伯は父姫季歴(ききれき)の長兄にあたる。

 

彼等の先祖である古公亶父:ここうたんぽ

(尊称であり、姓は「姫」だが実名は不詳)

は太伯(たいはく)・虞仲(ぐちゅう)・季歴(きれき)の

3人の息子がいたが、古公は「姫氏の家を起こす者は季歴の息子の昌であろう」

と言ったために、太伯・虞仲の「長男・次男コンビ」は身を引いたというのである。

その昌(しょう)の子で、周王朝を起こした武王を

「臣下の身で武力で主君(殷)を討ったのは天皇に反する」

として批判し「飢餓(ハンガー)ストライキ」の結果餓死したのが

例の伯夷・叔斉の兄弟である。

彼等は「長男・三男」コンビであった。

こちらは「長男・次男」コンビである。

 

伯夷・叔斉は次男に王位を譲るために身を隠したが

太伯・虞仲は三男(季歴)の子、つまり甥に王位が行くように身を引いたのであった。

太伯・虞仲の身の引き方は、伯夷・叔斉とはまったく違うものであった。

国を捨てて山野に身を隠すというのではなくて体に刺青をほどこすこと

すなわち黥面文身(げいめんぶんしん)になることであった。

中華文明の国では、身体に刺青を入れることは「人間以下」

になることなのである。

「身体髪膚(しんたいはっぷ)これを父母に受く

敢(あ)えて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり」

(人の身体はすべて父母から恵まれたものであるから

傷つけないようにするのが孝行の始めである)と

儒教の古典にもあるように

これは儒教最大の道徳である「孝」に背く行為であったからだ。

いわば太伯・虞仲の兄弟は

こうすることによって王位継承者としての資格を自ら消去したわけだ。

これなら伯夷・叔斉のように行方を探される心配もない。

伯夷・叔斉の方が時代的には少しあとなのだが

太伯兄弟の方が思い切ったやり方である。

ちなみに、日本でも罪人のしるしとして入墨

(厳密には芸術的なものを刺青、前科を示すような刑罰としてのものを入墨と呼ぶ)

を入れるようになったのも、この伝統の影響である。

 

 

また、日本の戦国時代、織田信長は美濃国(岐阜県)を奪取した時

「天下布武」を宣言し首府の名を「井の口」から「岐阜」に改めたが

それはそもそも古代周王朝が岐山(ぎざん)という場所から起こったからで

それにあやかってのことだ。

そして、この岐山の地に周の本拠を移したのが古公亶父(ここうたんぽ)であり

周王朝は実質的にはここから始まっていると言える。

そえゆえに、後世の人々は、実際には王位についていない

姫昌を「文王」と呼んだように、古公のことは「太王(たいおう)」

と呼んだのである。

さて、太伯は中華の地「周」を捨てると

周辺に呉という国を起こしたという。

呉とは南部の海に面した国家である。

そして、紀元三世紀頃、中国が三国

(魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく))に分かれて

覇(は)を争っていた時代、その一国である魏国では

日本列島のどこかにあったと思われる

「邪馬台国」の「女王卑弥呼」から朝貢を受けた。

そして、その答礼使ともいえる魏使が邪馬台国を訪れた。

その使者の記録を元に西晋:せいしん(中国を統一した王朝)の

史官陳寿(ちんじゅ)が書いたのが「魏志倭人伝」である。

その中に倭国の風俗として

「人々は黥面文身であり、呉の風俗のようだ」と書かれている。

 

おそらく、このことがヒントになったのだろう。

室町時代の五山(ござん)の学僧中巌円月(ちゅうがんえんげつ)が

「天皇家は中国の呉の太伯の子孫である」と初めて主張したのである。

念のためだが、これはもちろん「褒めている」のである。

「中華」を唯一の文明と考える人々にとって

「文明人」とは「中国人」のことだ。

従って、天皇家が「聖人の家系」であるなら

当然「中国人の、しかも聖人の子孫でなければならない」ということになる。

なにしろ、最も「正しい」王朝である周の

しかも王の系統よりも「兄」である人間だったのだ。

つまり、「本当はこちら(日本)の方が偉いんだぞ」ということにもなる。

だからこそ、林羅山はこの「天皇中国人説」を踏襲(とうしゅう)したのだが

光圀にとってはこれは絶対許すことのできない誤りであった。

 

では、日本人はなぜ「天皇中国人説」など絶対有り得ないと思うようになったのか。

それは「日本は神国(しんこく)である」という神道(垂加神道)と

儒教を合体させ、日本風の「天皇全体主義儒教」を生み出した

山崎闇斎(あんさい)らの力も極めて大きいが

光圀の影響もそれに優るとも劣らない。

では、そのことを光圀に確信させた人物は誰か?

つまり「中国より日本が上で、天皇は中国人とは関係ない」ということを、だ。

驚いてはいけない。実はその人物も中国人なのである。

 

 

実は、日本に水戸学つまり日本的朱子学が生まれた時に

本場中国の朱子学が生まれた時と同じような

その形成に決定的影響を与えた不幸があった。

それは、「中国」つまり明(みん)という王朝が

「野蛮人」の清(しん)によって滅ぼされたことである。

この衝撃は大変なものであった。

 

先程、中華つまり「中国こそ世界一」という感覚は

古代においては誤りではないということを言ったが

実は明代の方がそう言えるかもしれない。

明の次の清は、欧米列強に散々痛めつけられた挙げ句

日本と戦っても負けたので(日清戦争)

「弱国」という印象があるが、欧米列強があれほど力をつけたのは

産業革命が彼の地で起こったからである。

それ以前の中世ヨーロッパ(当然アメリカは影も形も無い)

と比べれば、はるかに巨大で文化も発達した大帝国であった。

万里の長城が今日見れるように極めて立派になったのも明代だし

科挙:かきょ(中国の官僚登用制度のこと)が完璧に施行されたのもそうだ。

日本との関係で特筆すべきは

豊臣秀吉の本当の相手は明であったということだ。

秀吉は「朝鮮出兵」を自らは「唐入り」と呼んでおり

これは「中国征服計画」であったことは既に述べたが

このことは日本が敗北した相手は明であることを示している。

 

戦国時代の精鋭をもってしても、明は倒せなかった。

そして、文化的にも世界最高水準の国家だ。

まさに日本人にとって、彼等が自負するようにそれは

「中国(=世界一の国)」であったのだ。

ところが、その明が事もあろうに「野蛮人」である

満州族の清に滅ぼされてしまった。

後に清は中華文明に影響されていき

たとえば皇帝一族が「愛新覚羅(あいしんかくら)」という

長い姓を名乗ったりするようになるが

清の初代ヌルハチは、その名の通り姓もなく

彼等は漢字が読めなかった。

当然、儒教などまったく知らない。

現代的な考え方なら「彼等には彼等の文化がある」

となるのだが、21世紀に入ってすらチベット文化を認めない漢民族には

そんな考え方はカケラもない。

だから「野蛮人」なのである。

 

とにかく1644年、日本の元号で正保(しょうほう)元年に明は滅亡した。

日本では三代将軍徳川家光の治世で彼は41歳だった。(48歳で死亡)

その「光」の一字をもらった水戸光圀はまだ17歳、多感な年頃である。

まさに、ここで「中国」がこの世から無くなってしまったのだ。

 

もう中国自体はこの世に存在しないのだから

外国がその伝統を伝えていくしかない。

そしてその伝統、つまり中華文明の核であるものは何かといえば

当然儒教であり、その完成された体系である朱子学である。

では、それを誰に学べばいいかといえば

「日本人シェフ」より「本場シェフ」である。

すなわち明国人だ。

このように考えた光圀は、結局晩年になって

亡命明国人であった学者朱舜水(しゅんすい)を

自分の師として水戸に招いたのである。

朱舜水は初め、日本の援軍を得て明を回復しようという志を持っていた。

しかし、清は強大であり、一方日本は「唐入り」失敗以後

大陸に進出しようという気力を失っていた。

そこで舜水は明国回復をあきらめ

日本という外国に「中華の伝統」を残そうと決意した。

光圀に招請(しょうせい)に応じたのもそのためだ。

そして、日本を中国化(文明化)するために

光圀の協力を得、舜水が取り組んだことは

日本の歴史上の人物の朱子学による再評価だった。

その最大のものが楠木正成である。

正成といえば「大忠臣」ということになっている。

これは動かしがたい日本史の原理だと誰もが思っている。

だが、実は舜水・光圀コンビの再評価以前は

正成は「軍事の天才」ではあっても、決して「大忠臣」ではなかった。

その理由は簡単で、彼は武家の出身でありながら天皇家に味方し

ときの将軍足利尊氏に逆らったからである。

「将軍家」から見れば、正成は許し難い反逆者ということになる。

絶対に忠臣とは言えない。その評価を二人は変えた。

そのマジックの種はもうおわかりだろう。

 

 

「中国」というのは厳密には「地名」ではなく

「世界一の文明国」という意味だから

明が無くなった以上、どこか「銀メダル」の国を「金メダル」へ

格上げするしかないことになる。

「候補」は日本だけではない。

むしろ日本よりも朱子学(儒教)の理解が深く

体制も儒教化している国もあった。朝鮮である。

しかし、舜水は行きがかり上、日本におり

そして日本人水戸光圀に招請されたことにより

「日本の中国化」に全面的に協力することになった。

一方、迎える側の光圀も、明が滅んだ以上日本の方が

「ホンモノの中国だ」という考えはあった。

そして、これは私の独自の解釈だが、宗家である徳川将軍家からは

「水戸は天皇家に対して忠誠を尽くせ」という密命もあった。

 

 

初めての武家政権である鎌倉幕府が

いかにして成立したかを思い出して頂きたい。

そもそも朝廷(天皇家)は武士を「虫ケラ」としか考えていなかった。

その「虫ケラ」が「幕府」という「労働組合」を作って

ついに日本国の「経営権」を奪ったのが、鎌倉時代である。

武士たるもの、忠義の対象は将軍であって、決して上皇や天皇ではない。

 

 

つまり、楠木正成とは、武家政権の側から見れば

「同じ武士のくせに天皇に味方した裏切り者」であって

「軍略は見事だから敵ながらあっぱれなヤツ」ではあっても

すべての武士の道徳的模範では決してなかった。

それを光圀・舜水コンビは変えたのである。

まさにコペルニクス的大転換がここで起こった。

その「手品の種」は一言でいえば簡単だ。

絶対の忠誠の対象を「将軍」から「天皇」に替えてしまえばいい。

こうすれば「たとえ将軍が何を言おうと天皇にさえ忠実ならば

それは大忠臣、すなわち武士だけでなくあらゆる人間の鑑(手本)である」

ということになる。

 

では、なぜ天皇は偉いのか?

朱子学では、その論理に反する手段によって権力の座を奪った者は

正統な君主つまり「王者」とは認めない。

それは「覇者(はしゃ)」に過ぎないので

覇者を排し王者を尊ぶことこそ(尊王斥覇論:そんのうせきはろん) 

正義なのである。

現実の中国史を見てみると、明が清に交替したのもそうだが

前の権力者から平和裡に正しい手段で禅譲(ぜんじょう)

(世襲ではなく、徳の有る者から徳の有る者へ自発的に権力を譲ること)

されたことは一度もない。

脅迫して禅譲の形を取ったことはあっても本当の禅譲はない。

それはまさに神話時代の聖王尭(ぎょう)が舜(しゅん)に

舜が禹(う)に位を譲ったという伝説しかないのである。

すなわち理想と現実は違い、中国には「ホンモノ」の正しい王朝が無いことになる。

ところが、日本の儒学者たちは、日本の天皇こそ「ホンモノ」だと考えたのである。

なぜなら「万世一系」であって、神代の昔から連綿(れんめん)と続いている。

「これはこの家系に徳があったからだ。だからこそ続いているのだ」

という一種の循環論法である。

実はこの論理は、厳密に朱子学の視点から見ると、成立しない論理である。

その理由は既に述べたが、では本来なら排除されるべき異端の説が

なぜ本流となったのか?

「中国はもう存在しない」からである。

「中国」がまた大陸で存続していれば、舜水も

「いや、その考え方には無理がある。本場ではそのように考えない」

と主張したかもしれない。

しかし、悲しむべきことに「本場はもう無い」のである。

だから、この日本で少しでも「本場」に近いものを作るためには

「有り合わせの材料」で行くしかない。

そこで、もともと、日本人、そして光圀が持っていた

「天皇こそホンモノの正統なる君主」「日本こそ中国」という「理論」を

真っ向からは否定せず、むしろ

その材料で新たな「朱子学帝国」を築くべきだと考えた。

ならば、その天皇に対して

忠誠を貫いた人間を歴史の中から探し出せばいいことになる。

それは決して難しくはなかった。

明らかに朱子学の信奉者であり「同志」でもある

後醍醐天皇に忠誠を貫いた男、楠木正成がいたからだ。

次に光圀が為すべきことは

この大忠臣の存在を世間に知らしめることであった。

そこで光圀はどういう行動に出たか、を語る前に

ちょっと考えて頂きたい。

楠木正成が日本人の手本になるということは

「たとえ将軍が何を言おうと天皇の命令にさえ従っていれば正しい」

ということが、日本人の基本論理になるということなのである。

幕府あるいは将軍家にとって、これ以上危険な思想はない。

 

学問好きで読書家だった家康は「忠義」というものを

最大の目標とする朱子学が、日本人の心の中に浸透すればするほど

徳川家は長く久しく安泰だと信じていた。

朱子学の導入は、出来の良いものだと

おそらく家康は自負していたはずである。

確かに、参勤交代や「お手伝い(公共工事の押し付け)で

大名の力を弱めることは出来る。

だが、そんなシステムによる制御よりは

「徳川家への反逆は悪」という「道徳」がすべての日本人の中に

定着した方が、理想的な状態だと考えるのは当然のことだ。

ところが、これが家康の孫の光圀の代で呆気なく完全に裏目に出た。

 

光圀の「創始」した水戸学によれば、楠木正成のように将軍家(足利家)には
反旗をひるがえしても天皇(後醍醐)に対して忠義を尽くせば

人間の鑑ということになる。

幕府(将軍家)と朝廷(天皇家)がうまくいっている間はいいが

それが崩れた時は「天皇家に忠義を尽くすのが正しい」ということになる。

これこそ、幕末にいわゆる「勤皇の志士」の信念となったことだ。

「勤皇」はこの時期「倒幕」を意味した。

 

幕府を安泰にするために普及させた思想が

倒幕の原理に化けてしまったのである。

これ以上の「裏目」はあるまい。

これまで色々なところで述べてきたことだが

あらためて整理してみよう。

実は、問題の根本は、幕府あるいはそのトップとしての将軍という制度が

世界のどこにも無い日本の独創だというところにある。

「幕府」も「将軍」も漢字で表記する。

漢字とは古代中国に由来する文字だから

こうした概念も中国起源ではある。

たとえば「将軍」一つとっても、中国と日本ではまるで意味が違う。

中国で将軍とは皇帝制を支える官僚機構の一武官の名称に過ぎない。

当然、多数いるわけで、日本でも明治以降昭和20年代までは

陸軍の将官(少将以上)を「将軍」と呼んだこともあった。

これがむしろ本来の使い方である。

だが、日本では、当初導入された律令制度の中で

将軍とは征夷大将軍など一武官の名称に過ぎなかった。

平安時代の坂上田村麻呂がその典型で

彼は軍事官僚であって武士ではない。

そもそも武士はまだ発生していない。

ところが皮肉なことに、田村麻呂の大活躍によって

異民族である蝦夷(えみし)が征服され

東北地方が日本の領域に組み入れられた結果

日本には「もう軍隊は必要ない」ということになった。

これは中国でもヨーロッパでも「絶対に有り得ない」ことである。

平和時に軍隊が縮小されるということはある。

しかし、今から一千年も前に

軍隊を事実上廃止してしまった国は日本以外にはない。

 

念のためだが、これを「だから日本人は昔から平和を愛する民族だったのだ」

と「誇り」にするのは大きな誤りである。

これは、まさに日本独自の「ケガレ忌避信仰」「言霊信仰」

に基づくもので、これが「部落差別」を生み

ニホンジンの危機管理能力を著しく低下させてきた。

むしろこれは日本人の克服すべき欠点なのである。

軍隊の事実上の廃止によって日本国の治安は無きに等しい状態となった。

特に地方はそれがひどく、開拓農場主として財を成した人々の中には

「自分の生命と財産は自分で守る」という気風が生まれた。

これが武士(サムライ)である。

武士は、日本人の文化の中にいる、もう一つの人種「平安貴族」に対抗して

生れて来たもので「手を汚さない」「軍隊はケガレと考える」

平安貴族たち(天皇家も含む)は最後まで軍事にタッチしようとはしなかった。

だからこそ、武力と経済力を兼ね備えていた武士に政権を奪われたのである。

 

しかし、武士も日本人の一員であるから

自分たちが「ケガレ」ているという劣等感があり

政治(つまりケガレ仕事)の実権を握っても

自分たちが正統な日本人の政権であるという自信は持てなかった。

そこで、「ケガレ無き」天皇に

「ケガレに満ちた」武士の代表が征夷大将軍に任じられ

その一人しかいない将軍が、日本の政治を代行するというシステムができた。

これが、日本独自の幕府システムである。

これは諸外国に例がない。

そもそも外国には「軍事はケガレ仕事」で

「上流階級はそれに手を染めるべきではない」という考え方自体が無い。

だから、政府機構の中に当初から軍事部門があり

日本のように「武士という武装農民(民間人)が集団(幕府)となって

統治者(天皇家)から「外注」で「政治」を請け負うという

システムが存在しないのである。

だから外国思想でこれを説明・分析しようと思っても原則として不可能だ。

また、武士の側も

自分たちの権力を正当化する権威付けには、あまり関心はなかった。

形式的には、この国の統治者たる天皇から将軍が任命されるという形で

武家政権の「権威」は保たれていたが

その武家政権の中で誰が正統かという議論もあまりなかった。

だから、織田信長や明智光秀が出現したのである。

 

 

日本人には、たとえばカレーというインドが本場の料理に

ビーフ(牛肉)を入れて、おいしいビーフカレーを作るという「伝統」がある。

インドでは大部分がヒンズー教徒であり、彼等は牛肉を一切食べないから

「本場」では「ビーフカレー」は基本的に有り得ない、だが

「ビーフカレー」は日本人なら作ることができる。

だから朱子学に対して、このような作業をすれば

「ビーフカレー朱子学」が出来て

それが日本に定着することが出来るはずではあった。

しかし、誤算は、朱子学という思想は、徳川家にとってとんでもない

「毒入りカレー」だったことである。

朱子学は「忠義」を道徳の根本とする。

より正確に言えば「父母に対する忠義(孝)」

と「主君に対する忠義(義)」の二本柱になっている。

このうち「孝」は問題ない。

父母が誰であるかということは生物学的に決まることだからだ。

ところが「義(日本ではこれを忠義と呼ぶ)」は

そもそも忠誠の対象が誰であるべきか、別の言い方で言えば

「正統なる君主は誰か」ということを問題とする。

日本は朝幕併存体制であり「天皇」と「将軍」という

二つの「権威」が存在するから朱子学を日本に定着させたいなら

まずどちらが「正統」かを決めなければいけない。

 

おわかりだろうか。

この部分が幕府にとっては「毒」なのである。

あくまで朱子学の原則で考えるなら、まず将軍(幕府)は正統とは決して言えない。

なぜなら、将軍は武力で天下を取った者つまり「覇者」であり

朱子学では「覇者=悪」であるから

将軍家は自動的に正統の座から脱落する。

では、残った天皇家が正統、つまり朱子学でいう王者であるとしてよいか?

実は王者とは「最も徳の有る者」のことで

あくまで厳格に朱子学を適用するなら

「天皇家が王者とは言い切れない」ということになるはずだ。

実際、朱子学者、佐藤直方はそう主張した。

 

ここで思い出してもらいたいのは、その朱子学の本場「中国」は

江戸時代初期には存在しないのである。

従って、本来なら「カレー(朱子学)」では

「材料(正統な王者)」として認めないはずの

「ビーフ(天皇家)」が入った「ビーフカレー」でも

それしか無いのだからOK、つまり「本場のカレーに最も近いもの」

になってしまったのである。

この「ビーフカレー朱子学」のことを

われわれは水戸学と呼んでいる。

しかし、実際には「カレーには絶対ビーフを入れてはいけない」

という佐藤直方の学問的後継者は無く

日本の朱子学はすべて「ビーフカレー」になってしまった。

つまり「天皇を真の王者と考える朱子学」である。

祖国「中国」を失った朱舜水も「ビーフカレーだが、カレーには違いない」

という態度で生きるしかなかった。

もちろん「真の朱子学は明の滅亡と共に滅んだ。

いま地上に真の朱子学はどこにも無い」という態度を取るという選択肢もあったが

それはやはりあまりにも後ろ向きで、生きる意味が無い。

明に殉死するのではなく、日本での生を選んだ舜水にとって

「ビーフカレー」路線しかなかったということだ。

 

 

光圀は、それまで、武家政権の裏切者であった楠木正成の終焉の地に

「鳴呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)」

という立派な墓標を設立した。

そして、その墓碑銘(ぼひめい)は舜水が書いた。

これ以後、正成は「絶対の忠臣」つまり

天皇にさえ忠実ならば将軍に逆らうことも許されるという

幕府にとっては命取りになる思想が徐々に江戸社会に浸透して行ったのだ。

もう一度言うが、その発端は徳川家康が作ったのである。


舜水と光圀の師弟関係は実に緊密で、舜水が作ったラーメンを光圀が食べた。

それが日本最初のラーメンだったなどという面白いエピソードもある。

だが、それは割愛しよう。

ここで、もう一つ重大な課題がある。

それは、光圀が歴史見直しに走った、そもそのの原因

「天皇中国人説」はなぜ排除されたか、ということだ。

「中国が聖人の国である以上、日本の聖人もそもそも中国がルーツだろう」

という考え方は、大変な説得力がある。

それがなぜ崩れたかということは、江戸初期を代表する

もう一人の名君、保科正之(ほしなまさゆき)と師である

儒学者、山崎闇斎(あんさい)の業績を知る必要がある。

 

↑長いの略 

 

この巻おわり