権力者の残酷物語 | 天然記録

記号だけの歴史がちょっとわかってきた

そもそも大昔から人が沢山大陸から渡ってきているので

秀吉が純日本人かどうかも怪しい(・皇のスパイかも)

 

 

増田長盛(ました ながもり)が土佐の浦戸に滞在中に

サン・フェリーぺ号の水先案内フランシスコ・デ・サンダが

取り返しのつかぬ失言をした。

この水先案内は、増田に世界地図を見せて

イスパニアの領土の広大なことを自慢した。

そして、どうしてそんなに領土を拡大したかと尋ねられると

わが国(スペイン)ではまず宣教師を派遣して

その国の人にキリスト教を伝えておき

信者が相応の数になった時、軍隊を差し向け

信者の内応をえて、たやすく目指す国土を征服すると答えた。

これが増田から秀吉に報ぜられたと

イエズス会の宣教師ルイス・デ・セルケラが伝えている。

 

サン・フェリーぺ号漂着から

二か月も経たない1596年(慶長元)11月

秀吉は京都と大坂で、フランシスコ会の宣教師

日本人イエズス会会員、信者合わせて26人を捕縛(ほばく)させた。

彼等は「見せしめ」のために、まず両耳を切り落とされ

京、大坂、伏見、堺など中央の主要都市を引き回され

徒歩で下関へ送られ関門海峡(かんもんかいきょう)

を渡ったあとはまた長崎まで歩かされた。

そして彼等は処刑されることになった。

彼等の希望もあって、処刑は長崎市街を見下ろす丘の上で

十字架にかけられるという形で行われた。

外国人6人、日本人20人の計26人は

こうして刑場の露と消えた。

 

秀吉から家康に至るキリスト教禁教の流れの中には

私は決して「狂気」も「妄想」もないと思う。

それを単純な「弾圧」と考えては、見えるものも見えなくなってしまう。

 

秀吉が死に、家康の時代になったばかりの頃は

家康はむしろ全方位外交を目指していた。

カトリックであろうとプロテスタントであろうと

貿易の利をもたらす者は歓迎し

そのためには日本国内における布教も

限定的に許可するというのが家康の方針であった。

興味深いのは、この時家康は江戸に近い浦賀(横須賀市)に

商館を建設してはどうかと勧めていることだ。

この申し出は、イギリス側が浦賀では対中国貿易に不利と考えたことと

既に平戸の商館を建設していたオランダとの対抗意識のために見送られたが

約250年後には外国の方が浦賀に「入れろ」と言い

幕府が「入れない」という騒ぎになっていることを考えれば

歴史の流れとは実に面白いものだ。

滑稽なことは、幕末にペリーがやって来た頃

幕府の役人はおろか日本人のほとんどが鎖国を「祖法」と信じ

家康がイギリスに対して浦賀に商館建設を求めたことなど

きれいさっぱり忘れていたことである。

幕末の人々がもう少し広く認識していたら

あれほど大慌てになることもなかっただろう。

家康が全方位外交をとったため

日本はしばらくスペイン・ポルトガルの旧勢力と

オランダ・イギリスなどの新勢力の抗争の場になった。

 

その頃、江戸城大奥の女中に「おたあジュリア」と呼ばれる女性がいた。

この女性は元々朝鮮の貴族の娘であった。

秀吉が朝鮮に侵攻した折、小西行長の軍に幼い頃捕らえられた。

一族が殺され、幼女の身を保護されたのだとも言われるが

とにかくその娘「おたあ」は日本に連れて来られ

熱心なキリシタンであった小西の感化の下に

受洗(じゅせん)し「ジュリア」の洗礼名を受けた。

ところが、その小西が関ケ原で敗れると

家康軍に捕まえられ奥女中として仕えることになった。

たぶん、美貌と教養に恵まれた女性だったのだろう。

人望もあり、大奥の女中たちの尊敬も集めていた。

その影響を受けて、キリスト教に入信する大奥女中も少なからずいたらしい。

これが家康の逆鱗に触れた。

大奥は徳川将軍の「ハレム」だが

同時に次世代の子を教育する場でもある。

そこがキリスト教に「汚染」されれば

将来将軍家の血筋の中にキリシタンが生まれるかもしれない。

家康はただちに彼女ら大奥のキリシタン

ルシア、クララ(洗礼名、実名不明)らに改教を求めた。

従う者もあったが、おたあは断固として拒否した。

そこでおたあは初めは伊豆大島、最終的に伊豆諸島の神津島に流され

ここで生涯を終えた。

 

ひとつ気になるのは、この慶長18年の9月に

伊達政宗が家臣の支倉常長をローマへ派遣していることだ。

「遅れて来た英雄」政宗には、ひょっとしてカトリック勢力を味方にして

家康と豊臣家の争いの間に割って入るつもりがあったのかもしれない。

だから政宗が家康の意を受けて使者を派遣したとは言われているが

政宗には別の意図すなわちキリスト勢力との同盟があり

「最後の戦国大名」は「天下人」目指して

最後の賭けに出たと考えれば辻褄は合うのだが――。

 

「鎖国体制」とは一体何か?それは

「キリスト教の浸透による国内体制崩壊を避けるため

国交の相手国を朝鮮に限定し、貿易の相手国として

オランダ、そして中国、いや正式な国と国との貿易ではないから

貿易の相手として中国人商人と幕府だけが限定的に付き合う体制である」

と、一応は言える。

 

最後にやって来たペリーは強引に要求したが

それ以前の「使節」は穏やかに要請した。

「えっ、ペリー以前にアメリカの使節が来たの?」と今思った人は

残念ながら典型的な「日本人」である。

「プロ」が書いたはずの「教科書」にそういうことがきちんと書かれていないから

たかだか150年の「日米交渉史」ですら国民の常識として

インプットされていないという滑稽な事態になるのだ。

言いたい事は「鎖国史」と「開国史」はつながっている

ということだ。

これは当たり前の話で、「ドアを閉じておく」か

「開けっ放し」にしておくか、ということだから

「なぜ戸締りを厳しくしたか」「なぜそれをオープンにしたか」

ということでもあり、まさに「一連の出来事」なのである。

それなのに日本の歴史学では「鎖国史」と「開国史」の

専門家が別でバラバラに研究している。

なぜそうなのかは再三言ったが、だからこそ「わからなく」なるのである。

 

アメリカは「先輩」であるイギリスやフランスのように

アジアに進出したいという欲望は持っていた。

しかし、それは英仏のような歴史の古い国の古い方法

すなわち植民地支配ではない。

そもそもアメリカとはどうして誕生した国か?

イギリスの植民地から独立した国ではないか。

だから「進出」といっても、イギリスがインドに対して

行った武力征服および弾圧のような手段ではなく

平和裡にいくものならいきたいと考えていた。

だから漂流民を丁重に扱ったのである。

 

アメリカはなぜ日本が大切なのか?

そこが世界地図でわかる。

首都ワシントンのある東海岸からアジアに進出するのは困難だ。

大西洋を渡るとヨーロッパ、その先に中近東、インドがあり

アジアはその向こうにある。

道は遠いし、この辺りは英仏の「縄張り」である。

しかし、西海岸から行けばどうか。

太平洋さえ越えてしまえばすぐにアジアにたどりつける。

そして、アメリカにとってのアジアの入り口は中国ではなく日本だ。

これは根本的な違いである。

ヨーロッパとはまったく対照的な位置関係にあるアメリカにとって

最良の補給基地は日本だ。

だからこそアメリカは何とか日本と友好親善関係に入ろうと試みていたのである。

 

多くの人が誤解しているように、鎖国を始めたのは家康ではない。

キリスト教禁止令は出したが貿易は推進主義者だった。

では、その方針がどこで変わったかといえば

家康が死に戦国が終って、まさに現代の「チャイナロビー」のような

官僚が国の政治の主導権を握るようになってからのことだ。

そもそも「鎖国(国を鎖す)という言葉自体、日本人の言葉でもない。

これもよく誤解されているが、幕府は「鎖国令」という名の

法令を一度も出したことはないし、「鎖国」という言葉を使ったこともない。

宣教師追放令、キリスト教禁止令などの様々な禁止令によって

確立した体制を、五代将軍綱吉の時代に来日したドイツ人が

出島のオランダ商館に医師として在勤した後分析し

帰国後に書き上げた「日本誌」に初めて

「日本帝国を鎖して」という文言が出てくる。

それを訳したオランダ通訳がその章に「鎖国論」と名付けたのが

「鎖国」という言葉の始まりである。

 

現代ですら「強い宗教」はそれだけの力を持っている。

では、今から400年前はどうか?

400年前のキリスト教が、どのように「強く」「残虐」なものであったかは

何度も述べたので繰り返さない。

ただ問題は、信長・秀吉・家康のトリオがようやく宗教というものの「牙」を抜いて

「安全無害」なものにしたところで、最後に残ったのがキリスト教だった

という歴史的事実である。

だからこそ家康は、断固としたキリスト教弾圧に踏み切った。

それは既に述べたようにキリスト教国の学者も評価するぐらい

政策としては妥当な判断であった。

ところが、問題はその後継者たちが

家康ほどの度量の広さも政治家としての見識もなく

やみくもにキリスト教禁止の方針を守ろうとした挙げ句

自由貿易あるいは海外との自由な交流がなしくずしに制限され

その結果において外国人から

「鎖国」と名付けられるような体制が出来てしまった。

このことを歴史の問題として再認識して頂きたいのである。

 

この点に留意すれば、読者の目には今までとまったく違った

「日本史」が見えてくるはずである。

要するに「鎖国」の目的は「キリスト教禁止」が主であって

「自由貿易あるいは海外との交流の制限」はあくまで

副次的な目的に過ぎなかったということだ。

 

明治維新とはそもそも西洋諸国の圧倒的なパワーに

日本が植民地化されないように体制をリニューアルしたものであった。

しかしいくら近代的海軍を作っても

政治体制を一新しても、国民のバックボーン

つまりキリスト教に対抗する強い原理がなければ

結局「西洋化=精神的植民地」への道をたどるだけである。

そこで明治人が考えたのは、日本古来の「神道」を

天皇を「現人神」として頂点に立てた中央集権的なものとして

再構成することであった。

また、室町以降、江戸末期に至るまで

日本は神と仏は同じという信仰が基本であったが

これを「仏はもともと異国の神」ということで

無理矢理分離させたのも、そのためであった。

 

日本におけるキリスト教徒の最大の反乱である島原の乱が起こったのは

1637年、寛永 (かんえい)14年である。

乱の起こった原因は、最初は島原の領主であった松倉重政の圧政であった。

この地はもともと長崎を含めて

キリシタン大名有馬晴信の支配するところであった。

島原以前に城が築かれた日野江城下には神学校(セミナリオ)があり

そこの生徒だった伊藤マンショら4人の少年が

信長の時代、日本巡察師バリニャーノに同行してローマへ使節として

派遣されたことでもわかるように、まさに日本のキリスト教の中心地だった。

しかし、キリスト教を棄教した有馬家が転封によってこの地を去ると

まさにキリスト教を弾圧することを使命だと考えているような

大名松倉重政がこの地に入部し圧政を敷いた。

それは一方で領民に対する容赦のない年貢の取り立てであり

一方ではキリスト教徒への棄教、仏教への改宗をせまる弾圧であった。

たとえば年貢を滞納していた大百姓の嫁を捕らえ

妊娠中にもかかわらず水牢に入れ胎児もろとも死に至らしめたこともある。

また裸のまま縛り上げて、みのを着せ

それに火を放ってもがき苦しむさまを

「蓑おどり」と呼んで楽しんだり、雲仙岳の熱泉に人々を投げ込んだりもした。

この圧政は重政が1630年(寛永7)に死んで

息子の勝家に代替わりしてもずっと続けられた。

この圧政は、今は多くの人々がキリスト教弾圧の方が

主目的だったように思っているようだが

実際には年貢未納者に対する罰として行われたようだ。

その暴政に耐え切れなくなった島原の百姓が一揆の旗を揚げたのである。

そして、この島原(肥前国:長崎県)と

海を挟んで対岸にある天草(肥後国:熊本県)にも一揆が波及した。

 

そうした中で、天草の大矢野島というところにいた

小西家浪人益田甚兵衛の息子、四郎時貞という者が

数々の「奇蹟」を起こしたという話が伝わってきた。

まるでイエス・キリストのように水の上を歩行したとか

天から鳥が降りて来て四郎の手のひらの上で卵を生んだ。

その卵を割ってみると聖書の一節を記した紙が入っていたなどというものだ。

この奇蹟はやはり「手品」に属するようなものだったろう。

演出家は父甚兵衛の元同僚である小西家浪人たちである。

小西家は、関ケ原の戦いの折に石田三成の盟友として活躍した小西行長の家だ。

その時行長は肥後南半分の領主(北は加藤清正)であり

キリシタン大名としても有名な存在であった。

だが行長が関ケ原の敗者となり京で斬首され

小西家は完全につぶれてしまう。

戦国時代でも、もう少し前なら

主家がつぶれたからといって武士が就職口を失うことはない。

能力があれば自由に主人を替えることができた。

しかし「関ケ原」はそれまでの戦国の戦いとはまったく違う。

それは徳川家の天下を確定した戦いであり

敗者は「謀反人」の一味とされた。

再就職など望むべくもない。

その上、小西家の家臣には「キリシタン」という

もう一つの「ハンデ」を背負った者が多くいたと見られる。

こうした人々に再び働きの場が与えられたのが

大坂冬の陣・夏の陣であった。

家康は「浪人召し放ち(解雇)」を和平の条件としたが

浪人たちは絶対納得しない。

彼等にしてみればこれが最後のチャンスだからだ。

結局、浪人たちに引きずられるような形で豊臣家は最後まで妥協せず滅亡した。

 

これは昭和20年(1945)の「敗戦」を「終戦」とごまかすのとは違って

本当の意味の終戦であった。

しかし、信長→秀吉ラインの中で強化された兵農分離策は完成していた。

「保守」「後戻り」が大好きな家康ですら

「士農工商」の身分制度を定着させようとし

「昔に戻って武士も田畑を耕せ」とは言わなかった。

ここにおいて、戦国時代初期まではそれほど身分差のなかった武士と百姓が

完全に「身分違い」になったのである。

それだけの身分差をつけておきながら

一方で幕府は容赦なく大名家を取りつぶし

大量の牢人(浪人)を発生させた。

牢人は実のところ、この時期どのくらいいたのか?

 

当時の総人口は純石高から見て

おそらく2千万人程度のものだったろう。

そうすると少なく見積もっても人口の1%あるいは2%が

「失業軍人」なのである。

100人に1人は決して少ない数ではない。

しかも、江戸幕府は大名が自主的に「新規採用」することは黙認したが

それ以外の救済対策は一切しなかった。

いや、しなかったどころか、仕官を求めて江戸に集まってくる

浪人たちを「江戸払い」つまり追放処分にしたのである。

「国に帰れ」ということだろうが、国で仕官の口がないからこそ

全国の大名が集まる江戸に機会を求めてやってくるのだ。

それを「帰れ」ということは「武士をやめて百姓か町人になれ」ということだ。

身分制度を厳重にしておいて、それを強制するのだから

言われた方はおさまらない。

「幕府の政策は誤りだ」ということになる。

この最右翼ともいうべき存在が小西家の浪人たちだった。

まず、関ケ原の敗者という点で再就職の可能性はない上に

キリシタンという点で、このままでは絶対に世に出ることはできない。

彼等にとってみれば、徳川家は旧小西行長の仇であると同時に

信仰上の怨敵でもある。

その彼等が天草に隠れ住んでいたのは、ここが旧主の領地であったこと以外に

キリシタン大名有馬家の領地の隣でもあり

何かと住みよかったからだろう。

ところが、その「最後の楽園」も松倉家が来たことによっておびやかされた。

もっとも松倉家入部による最大の被害者は

むしろ有馬家の浪人たちだったかもしれない。

有馬家は大名としては存続したのに、なぜ浪人が出るのかと思うかもしれないが

その事情について、天草四郎の研究家は、当時現場にいた

オランダ人で平戸商館長の報告書を引用して次のように述べている。

 

数年前、有馬地方の領主(有馬家)は

皇帝(将軍)の命令で他の地方を与えられて移った。

その出発の時に当たって彼が新しい任地に連れていった。

人数はごくわずかで、大部分の家来や貴人たちは跡に残された。

ところが後任となった領主(松倉家)は

反対にその家来をほとんどすべて引連れて着任した。

そこで先にその地方を去った領主に

つかえていた人たちは収入をすべて奪いとられ

貧困に迫られた結果、農夫となってその妻子のために

生活の糧を求めるよりほかはなかった。

彼らはこうして名前は農民となったけれども

実際は武器の操作に熟練している武士であった。

新来の領主にはこのことが気に入らなかった。

そしてこれらの人たちに、また他の農民たちの上にも

ますます重い税を課し、とうていその負担に堪えられないほど

多額の米を差出すよう強いたのである。

 

こうした松倉家の暴政に対し、「元武士」であった人々が立ち上がったのが

そもそも島原の乱の発端であったと考えられる。

もっとも、この報告書はオランダ人のものだ。

オランダ人もキリスト教徒だがプロテスタントであり

この時代は、何度も言ったようにカトリックとプロテスタントが

文字通り殺し合いをしていた時代だ。

この島原の乱でも、一揆の勢いに手を焼いた

幕府側大将の松平伊豆守信綱はオランダ商館長に依頼して

海上から船の大砲で岬の突端にあった一揆勢の拠点原城を攻撃させているぐらいだ。

オランダにとっては宗教の上でも

また東洋貿易の上でも、ポルトガルやスペインは敵であった。

そうした「カトリックの敵」であるオランダ人の見方には

やはりキリスト教的偏見がまじっているかもしれない。

つまり、乱へのキリスト教(天草四郎は無論カトリックの信者である)

の影響を過小評価するということだ。

では、四郎と同じカトリック信者である、ポルトガル人のこの乱への見方はどうか?

それも前著に紹介されている。

それはドアルテ・コレアという男のマカオへの報告書で

当時コレアは近くの大村の囚人としてとらわれていて

しかも本街道に面した開放的な牢獄にいたので

通りがかりの人々などから様々な情報をリアルタイムで得ていたというのだ。

 

コレアは、この反乱の原因は決してキリシタンの宗門のためではない。

ただ領主が将軍をはじめ大名たちに対して面目を失うことをおそれ

その虐政を隠すために

キリシタンの一揆だと言いふらしたにすぎないと言っている。

 

極めて醒めた見方だが、同じカトリック信者からも

そのように見られる要素があったことは事実だろう。

 

幕府はのちにキリシタンに対する恐怖心と警戒心を高めるために

この一揆を、その信仰の面だけ強調し

政治的な面からは目をそらせるように扱った。

ぎりぎりに追いつめられた農民が堪えかねて蜂起したという印象を

一般に与えないようにつとめたのである。

 

年貢を払わないからといって、他の領内でこんなことをしたら

いくら江戸時代でも大名の責任は免れない。

ところが、この領内には「キリシタン征圧」という絶好の「口実」があった。

しかし、やはりそれだけではない。

前述したように松倉親子の頭の中には

キリシタンを根絶して幕府に認められようという

意図も多くあったことは間違いない。

 

島原の乱(1637~38年)というキリスト教一揆が起こったことが

鎖国を決定づけたが、そうでない道も充分に有り得た。

「鎖国論」はその認識から始めるべきなのである。

 

★★★★★★

 

秀吉が大変な朝廷崇拝者だったことは知っているだろう。

何しろ大明との開戦のおり国書の冒頭で

「大日本は神国なり。神即ち天帝。天帝即ち神なり」

と言っているほどだ。

従って大徳寺の一件は、この秀吉の思いを充分に逆撫する。

ただこれだけでは利休が朝廷を軽んじたとは秀吉も断定できない。

どうにでも言い訳ができる。

ところがもう一点、明らかに利休が朝廷に対し不敬行為を働いた記録がある。

これが、利休に死を与えた本当の理由だ。

何故かこのことを誰も言わない。

 

明治は「天皇の時代」であった。

政治的にも幕府が「天皇の政府」によって滅ぼされた時代であり

日清戦争、日露戦争の勝利を経てその神聖性はますます高められた。

「天皇は神聖にして侵すべからず」という言葉が

憲法の条文にあった時代である。

そんな中で、日本の代表的伝統芸能である茶道の「開祖」が

「不敬罪」を犯していたなどと、研究者が口にできるだろうか?

なにしろ戦前は不敬罪が刑法上の罪として

ちゃんと存在した時代なのである。

「不敬罪」に対する抵抗感がまるで違う。

あの織田信長ですら「勤皇家」と呼ばれていたのである。

戦前の皇国史観では、「天皇に忠実な者は善、その反対が悪」であるから

日本の歴史に何か貢献した人間は必ず「善」

すなわち「勤皇家」でなければならない。

ということになる。

 

信長が本当に勤皇家であったかどうかは

第10巻をお読みになった方はおわかりだろう。

信長は勤皇家どころか、むしろ「自らが神になる」ことで

新しい権威(価値)を創造し、天皇を超えようとしていたのである。

では、利休はその時どこにいたのか?

忘れてはいないか、利休はもともと信長の茶頭だったのである。

利休を「発見」し「抜擢」したのは信長である。

利休は当然その信長の影響を強く受けたはずだ。

既成の権威にとらわれない新しい価値を想像し

自ら権威となっていく

既存の権威に盲従している人々にとっては

それはとんでもない増上慢(ぞうじょうまん)に見えたであろう。

しかし、それは開拓者の宿命である。

信長も「天魔王」と称し、保守的な人々からは

蛇蝎(だかつ)のように忌み嫌われ恐れられた。

その信長がやったことに石仏や墓石を壊して城の石垣にしたことがある。

もうおわかりだろう。

理由はこれを「受け継いだ」のである。

 

そして、その「相弟子」とも見るべき関係にあるのが秀吉だ。

しかし、秀吉は天皇については「信長路線」を大きくはずれた。

第11巻で述べたようにこれにはやむを得ない事情もあった。

いきなり「後継者」となった秀吉は

「一から権威を想像する」余裕はとてもなかった。

朝鮮出兵が成功すれば「天皇家の相対化」が

できないわけでもなかったろうが

それには結局失敗した。

だからこそ、天皇を持ち上げざるを得なかった。

天皇あっての関白だからだ。

しかし、それを利休の目から見たら、どうだったか?

もともと秀吉は下層階級の出身で、裕福な町人とはいえ

利休自身も「魚屋」すなわち殺生を業とする

昔の感覚では一段も二段も低く見られる階級の出身である。

しかも、その師匠たる武野紹鷗(たけの じょうおう)は皮革業者であった。

これも日本史においてどんな意味を持つか、詳しく述べたところだ。

もちろんこのような差別は断固否定されるべきだ。

だからこそ紹鷗の「茶道」は

「数奇屋の中では誰もが平等」というものであったのだ。

それを受け継いだ利休の「茶道」は

その傾向をさらに大胆に推し進めたものだ。

「にじり口をくぐって茶室に入れば、帝王も庶民もない」のである。

それを考えれば、この「事件」が可能性として、あったかなかったかはわかる。

 

利休は禅(ぜん)の達人である。

(人にも自分にも振り回されない動じない心)

ということで思い出して頂きたいのが

禅の公案(悟りを考えるために出す問題)

「丹霞焼仏(たんかしょうぶつ)」である。

中国の禅僧丹霞はある時、仏像(木仏)を燃やして暖を取っていた。

驚いた別の僧がそれを咎めた、という話である。

 

僧「何をする。それは仏像だぞ」

丹霞「だから焼いて舎利(仏骨)を取っているのさ」

僧「馬鹿を言うな。それは木じゃないか。木から舎利が取れるか」

丹霞「じゃ、燃やしても問題あるまい」

僧「―――」

 

要するに、禅では(また本来の仏教も)「絶対」というものはない。

すべて「相対」の存在だ。

あえて言えば、その中の「悟り」は絶対といえるかもしれないが

それにも拘わり過ぎれば、たちまち悟りは遠のく。

まして「仏教」という「像」に拘わるのは

とんでもない話である。

いやそれどころか「仏に逢うては仏を殺す」のが禅の世界である。

それを徹底すれば「人間皆平等」ということになる。

なぜなら天皇ですら、この世界では「相対」の一つに過ぎないからだ。

それを考えると、利休が二条天皇の陵から石塔を失敬して

手水鉢に使ったというのも、禅の立場から見れば

さして異常なことではないということだ。

いやむしろ、大いにやるべきことかもしれないのである。

 

念のために補足しておけば、江戸中期以降

朱子学による尊王思想が普及するまでは

天皇陵は荒れ放題であった。

「神武天皇陵」は田になっていたし、飛鳥、奈良あたりの田畑では

遺物が出て来たら「蔵に隠す」か「埋め戻す」のが常識だった。

そうしないと役人が調べに来たりして何かと面倒が起こるからである。

利休も当然そういう気分の中にいたことは間違いない。

そして、そういう時代風潮の中で

突然「天皇は尊い。だから、その第一の臣下で関白の余を、殿下と呼べ」

などと言い出したのが、元百姓の秀吉である。

そうした秀吉に徹底的に反抗したのが

利休の一番弟子、山上宗二(やまのうえ そうじ)だった。

 

「堺の前方後円墳」といえば「仁徳天皇陵」あるいは「履中天皇陵」

と伝えられる巨大古墳群である。

ちなみに、なぜ「ヒョウタン」が「前方後円墳」を意味するかといえば

形が似ているからだろう。

そういう、天皇陵の上(山上)に宗二は住んでいたのだ。

宗二は利休が一番愛した弟子で、茶道の極意書を書くぐらい技量もある。

それを秀吉に会うよう「とりなし」たのだから

そこで土下座でもし、涙を流して「罪」をわびれば

おそらく許されただろう。

「会う」ということは、半分許しているということだ。

ところが宗二は「またまた直言して」しまった。

秀吉がただ殺すのではなく、鼻や耳をそいだということは

よほど腹を立てたのである。何と言ったのか?

当然その「無礼」の内容は記録されてはいないのだが

たぶん身分の上下を無視するようなことを言ったのだろう。

それが利休の教えだからだ。

利休と秀吉の仲が急速に悪化するのは

この天正18年(1590)の秋以降のことで

翌19年の2月には切腹に追い込まれるのである。

この間、秀吉と利休の間の「とりなし役」であった

豊臣秀長(秀吉の実弟)が亡くなったことも

その対立に拍車をかけた。

しかし、そういう不幸はあったにせよ

いずれ両者の対立は決定的になったには違いない。

「茶道平等教」の聖者千利休と

刀狩をし身分制度を確立しようとしていた関白(のち太閣)

秀吉殿下の間に妥協が成立するわけもないということだ。

 

いずれにせよ利休の死をもって

「完全平等主義」の千利休の「茶道」が終わった。

同時にいわゆる「大名茶道」というものが始められた。

それは一言で言えば

「大名による大名のための茶道」である。

「身分違い」が前提としてあり「町人」などには

茶頭をさせない、という茶道でもある。

 

★★★★★★

 

日本を代表する建築、日光東照宮は

三代将軍家光が祖父家康のために建てたものである。

この地に「自分を神として祀る堂を作れ」

と遺言で命じたのは家康自身であったが

これほど壮麗(そうれい)な社殿を築造したのは家光である。

通常の神社と大きく異なっているのは

家康の墓もあるということだろうが

通常の神社は御霊を祀るところで墓とか遺骸はない。

このあたりは中国の「廟」に似ている。

しかし、東照宮とは大権現

(神が人の姿を借りてこの世に現れたもの)

であった家康を祀るところで

通常は「ケガレ」とされる遺骸も

権現としての仮の姿を示すものであるとすれば問題はないわけだ。

すなわち、東照宮もやはり日本独自の宗教の聖殿であることは間違いない。

 

家康が「大権現=神」ならば、その子孫である徳川将軍は

天皇家と同じ「神の子孫」ということになる。

このあたりは、天照(アマテラス)と東照(アヅマテラス)

との対比として、第10巻に詳しく述べたところだ。

その東照宮に隣接して

輪王寺(りんのうじ)と大猷院(だいゆういん)がある。

輪王寺の前身は古くからこの地にあり

日光三社権現の本地仏(神の本体である仏)の

馬頭(ばとう)観音、阿弥陀如来、千手観音を祀る寺であった。

それが家康の遺言を実行するため

まず「東照大権現」という

神号を実現させた天海僧正がこの地に入り

江戸の寛永寺と同じく

親王が住持となる門跡寺院に昇格させた。

天海は江戸幕府の宗教顧問というべき存在であるが

108歳まで生きたとされ、家光の代にも

「現役」だったという怪僧である。

 

この輪王寺に家康の守り袋というものがある。

正式には「蒔絵箱入守袋」といい

重用文化財に指定されている一級の工芸品だが

この中に家光の直筆と伝えられる書き付けが入っている。

 

「二世将軍、二世権現、心も体も一つなり」

 

と書かれてあるのだ。

 

言うまでもなく家光は

「三世(三代)将軍」であって「二世」ではない。

「二世」は秀忠のはずである。

ところが、本人の「直筆」文書によればそうではない、ことになる。

本来なら、当人の「直筆」ほど確実な史料はない。

その当人(家光)が「オレは二世、つまり家康の子だ」

と書いているのだから、これほど確かな「事実」はないようだが

もちろん学界はこれを認めない。

要するに本人の意識の中で、自分を可愛がってくれた

「祖父」と、冷たかった「父」とを比較し

「父」を排除してしまったのだ、という考え方のようだ。

 

 

斎藤利三は処刑されたが

家康は「命の恩人」の子である福を召し出し子を生ませた。

家康の「後家好み」は有名である。

そして家康はその子を息子の秀忠夫婦に「長男として育てろ」と押しつけた。

秀忠夫妻は当然面白くない。

その後、彼等に本当の実子が生まれた。

国松(後の忠長)である。

当然二人はこの国松にあとを継がせようとする。

あわてた「実母」の春日局(福)は駿府(すんぷ)にかけつけ家康に

「私の子を将軍にしてくれると言ったじゃないの」と責めつける。

家康は重い腰を上げて家光の将軍たるを確定した。

だから「二世将軍、二世権現」となるのであって

「父」秀忠はどうでもよかった。

日光にも家康、家光の廟(びょう:祖先・先人の霊を祭る建物)

はあるが秀忠の廟はない。

そう言えば、国松は忠長なのに、家光はなぜ家光なのか?

これは家光が秀忠の子ではなく、家康の子であることを暗示しているのだ。

 

実際、「信長が家康を殺そうとしたこと」

そして「家光が春日局の実子であること」の二つを除けば

史実としては全部確認がとれることだ。

いや、そればかりではない。

本能寺の変後に、光秀の兵として本能寺に討ち入ったという武士が

「覚書」を残しているのだが、それによると当日

明智軍の兵は本能寺に宿泊している

「家康」を討てという命令を受けていたというのだ。

現場では、下級兵士であればあるほど

上官の命令に従うだけで、今自分が何をしているかわかっていない事が多い。

これが昼間の合戦ならば旗指し物とか馬印とかが目に入るから

下級兵士でも「おかしい」と思うだろうが

夜討ちで「ここに敵がいる。火矢を射ち込め

中から出て来た者はすべて討ち取れ」

と命令されれば従うのが常識というものである。

「なぜこんな時間に、本来の目的である中国路

(山陽道の別名)に行かず京なんかに行くんだろう」という疑問も

「信長様の命令で家康を討つのだ」と言われれば

多くの人間は納得する。

信長自身、寺が囲まれているのを知った時

「城介(じょうのすけ)長男信忠)の謀反か」

と言ったという話があり、「家康を殺そうとした」というのは

決して有り得ないどころか、戦国の「常識」に照らして考えれば

充分可能性があるのだ。

 

ちなみに「異説」がもっと「進化」すると

天海僧正は実は命長らえた光秀であり

家光の「光」は光秀の「光」だという話にもなる。

この辺はさすがに無理があるが

家康が信長に殺されかけたのが本当だとすると

その信長の血を引く忠長(母のお江は信長の姪)を

断固として徳川家の血統から排除したかったのだという

「説明」もつくのである。