武士団、民衆のヒーローの平将門を家康が祀ったという事は
支配者は霊的存在の指導で動いているのだと思う
しかも配置が北斗七星
 
 

 
↑より抜粋
 
英雄がいる、ということは乱世なのである。
平和な国には英雄はいらない。
その時々の世の中で、最も求められている能力を持つ人間が頭角を現す。
つまり「唐入り」とは、いや「唐入り」に限らず
多くの英雄たちの対外侵略とは、軍事バブルで膨れ上がった兵士に対する
「仕事の創出」つまり雇用対策なのである。
国内に敵はいない。すなわち、戦争の種はない。
逆に言えば、国内に敵がいないからこそ、国を留守にできる。
だから外に行く。これが世界史の法則、いや人類の常識というべきものである。
ところがなんと驚くべきことに日本の歴史学界では
この「唐入り」の原因について未だに定説がないのである。
 
 
(家康が完全に豊臣家を滅ぼそうと決意した時)
大阪冬の陣が始まる前は、一応「江戸に人質を出せ」等の条件を出していた。
これは決して無理難題とは言えず、豊臣家が家康に臣従するなら
当然受け入れるべき条件である。ところが拒否された。
拒否された以上、滅ぼすしかない。
家康の脳裏には、永暦(えいりゃく)の昔
平清盛が情にほだされて
源頼朝、義経の命を助けた結果どういうことになったかがあったろう。
成長した二人は「助命の恩」を感じるどころか復讐の念に燃え
平家を完全に滅亡させたのである。
家康は頼朝を天下人の先輩として尊敬しており
鎌倉の歴史を書いた「吾妻鏡(あづまかがみ)」を愛読していた。
今は少年であり子供であっても、成長の暁には堂々たる青年武将となる。
ましてや豊臣秀頼は既に青年であり
一方家康はいつ死んでもおかしくない年齢である。
秀頼には実は二人の子供があった。
千姫以前に「手をつけた」女性が一男一女を産んでいたのである。
その女子は千姫の養女となり、ただちに尼とされて鎌倉の東慶寺に入れられた。
江戸時代「縁切り寺」として有名になった所である。
彼女はのちに天秀尼(てんしゅうに)と号し
東慶寺の二十世住持(じゅうじ)となった。
だが国松という名の男子(8歳)は、捕らえられたのち
市中引き廻しの上、京の六条河原で無惨にも首をはねられた。
たとえ幼少の者でも、豊臣家の血を引く男子は絶対に許さないというのが
家康の方針であったのだ。こうして豊臣家は完全に滅亡した。
 
もし、淀殿が「戦国のルール」つまり「強い者が勝つ」というルールを認め
自らは尼となって江戸に人質として入れば
豊臣家も生き残るチャンスはあったのではないか。
家康はそれを待っていたが、淀殿の頑なな態度について堪忍袋の緒を切り
言いがかりをつけて滅ぼしたのだろう。
滅ぼすならば徹底的にやらねば遺恨を残す。
毛利家を「長州藩」として残したことが
300年後にどういう結果を招いたかを見れば、それは自明のことだろう。
この毛利処分ではミスをした家康も、ここではミスをしなかったということだろう。
そして、家康は豊臣滅亡の翌年
正確には一年も経たないうちに75歳の生涯を終えた。
 
どんな組織であれ、内部抗争が起これば必ず弱体化する。
滅ぼすにせよ、治めるにせよ、まず内部に楔(くさび)を打ち込むことである。
天皇家という、下手をすれば自分の家(徳川家)を滅ぼしかねない危険な存在
(その危険は約260年後に実現したが)に対し
家康が考えたのもまずその事だった。
何度も言うが家康は歴史を知っている。
古代においても天皇家は常に日本を直接支配していたわけではない。
その支配が関白制というシステムによって、根本からゆるがされた時があった。
家康は、天皇家という「厄介な」存在を統治するにあたって
この頃は関白という地位が名ばかりになっていたので
この関白というシステムを強化しようとした。
将軍家は天皇家をコントロールするために、関白の権限を強化した上に
その実質的な「任免権」(ある官職や役目に人を任命することのできる権限)
を握る形をとったのである。そして、それは見事成功した。
だから江戸期を通じて、五摂家(せっけ:関白)と
徳川家は仲が良かったといってもいいかもしれない。
幕末期においても、佐幕派(さばく:倒幕派の対比)
の公卿(くぎょう:朝廷につとめる身分の高い役人)が結構大勢いたのは
この時家康が打っておいた「布石」が生きていたからである。
 
これだけ布石を打っておいても、結局、徳川家は
関ケ原の敗者である薩摩と長州の連合が
天皇と結びつくことによって滅んだ。
家康は、もし徳川を滅ぼすものがあるとすればこれ
(薩長連合+天皇)であることは明らかに予測していた。
だから徹底的にこれを封じ込めたのだが
それでも防げなかったのだから歴史は面白い。
 
家康の誤算とは、彼の死後およそ250年後に
水戸家出身の将軍が誕生したことである。
そもそも御三家(尾張・紀伊・水戸)というのは何の目的でつくられたのか。
それは血統のスペアとしてだろう。
それは宮家の存在である。
宮家とは、天皇家の分家でその当主が代々親王宣下を受ける家柄のことだ。
(しんのうせんげ:親王および内親王の地位を与えること)
通常は、天皇の子(男子)は「親王」、孫は「王」とされ
その血筋はどんどん薄れていく。
臣籍降下(皇族の身分を離れる)した親王ならなおさらで
もう孫の代で「源:みなもとの」あるいは「平:たいらの」だらか
皇位を継ぐ資格などまったくない。
ところが宮家は代々「親王」なのである。
なぜそんなことをするかといえば、本家である天皇家に直系(男系)
の子孫が絶えた場合、ここの当主が代わって天皇となるためなのだ。
この宮家という存在は、本家の血統を絶やさないための
大変優れたシステムといえるだろう。
いわば「本家と同時並行の分家」なのである。
家康はこれに目をつけた。
御三家創立は明らかにその真似である。
 
水戸家は、将軍家と天皇家が争った場合
天皇家の味方して、関ケ原で東軍に味方した真田信之のように
血統を後世に残すための「分家」である。
しかし、15代将軍徳川慶喜は、水戸家の出身者である。
だから、これは家康の「計算違い」なのだ。
一体なぜこんなことになったのか?
水戸家の出身者は将軍になってはいけないのである。
それではリスクの配分の意味がなくなるからだ。
にもかかわらず、なぜ最後の将軍は水戸家出身なのか?
 
慶喜の母は有栖川宮家の王女である。
初代家康、二代秀忠は別にして、徳川政権が盤石になると
将軍の御台所は五摂家か宮家から来ている。
こうしたところでも徳川家は、巧みにバランスを取っていたというわけだが
五摂家か宮家の出身の御台所が、次の「将軍」を産んだケースが
ただの一つもないということだ。
最後の将軍徳川慶喜だけが、その生母が有栖川宮家出身の女王だが
この人は水戸徳川家から一橋家を経て将軍家を継いだ人なので
父親は水戸家当主の徳川斉昭だ。
つまり父は将軍ではなく、当然母も将軍の御台所ではなかったのである。
歴代将軍、特に三代家光以降の徳川政権が盤石になって以降の将軍で
「京の血」を引いている人間はただの一人もいないのである。
公家階級の女性のひ弱さで説明されることが多いが
いかにももっともらしい説明だが、一人もいないというのはおかしくないか?
 
これも正確に調べると、全部が全部
子が生まれなかったわけではないようだが若死している。
私は、徳川家の中に、こうした正妻に跡継ぎの男子を産ませてはならないという
空気があったのだと考えている。
仮に宮家でも五摂家でも、外祖父が天皇や関白だということになれば
相当に面倒なことになる。
そもそも藤原氏が天皇をコントロールしたのは
まず娘を天皇家に嫁にやって、その産んだ子を天皇にするという
「外祖父システム」の成功であった。
「歴史を知っている」者がこれと同じ事を考えないと誰が言えよう。
14代家茂が皇女和宮を迎えたのは、当時の政治路線が
公武合体を目指していたからである。
つまり衰えた幕府の力を強化しようという作戦だったが
この狙いは完全に裏目となった。
将軍家茂が孝明天皇の義弟(和宮は帝の妹)になったことによって
「兄には従うべきだ」ということになり
逆に天皇家の権力が強化され
幕府はますます弱体化するという破目に陥ったからである。
家康は、こうした危険を予測していたのではないか。
 
家康の遺命を受けた秘密集団が江戸城内にあり「宮家腹」の男子が生まれた時は
必ず「処分」するということになっていたといえば小説になってしまうので
これ以上はやめるが、封建時代(ほうけんじだい)というのは
身分も役目も、それであるがゆえに何百年も前の恨みも掟も
根強く生き続ける世界であることはまったくの事実である。
前に紹介した「長州藩の秘密儀式」も昔から伝わっている話で
私の創作ではないのだから。
 
徳川慶喜といえば、幕臣にあまり評判が良くない。
(ばくしん:将軍直属の家臣)
優柔不断であるとか、敵前逃亡したとか
朝敵になることを異常なまでに恐れた、とか。
しかし現在発行されている「日本の歴史」という類の本の中で
慶喜の母は皇族であった、だからあんなに朝廷に対して弱腰だったのだ
と書いてある本は私の知る限りではまったく無い。
つまり、いかに歴史の全体像を見ていないか、ということなのである。
 
家康が仕掛けた「水戸家は最後の保険」という
徳川家名存続システムは皮肉にも意外は副産物を生み出した。
水戸学である。
水戸徳川家が「大日本史」という日本の通史を
学者を集めて研究させたことによって発展した学問である。
「黄門様」として有名な水戸藩第二代藩主
徳川光圀が始めた事業として知られている。
 
まず重要なことは、幕末に至って水戸学は倒幕つまり
徳川打倒の有力な論拠(ろんきょ)となったということだ。
 
実は、黄門様がなぜこの事業に取り組んだのか
その理由を語る明確な史料はない。
ただ、彼が熱烈な皇室崇拝者であったことは確かである。
「天皇こそ我が主君であり将軍家はウチの本家というだけだ。
考え違いをするのでないぞ」という有名な言葉がある。
 
実際、この「大日本史」が完成したのは、明治に入ってからであった。
まことに雄大な事業で、だからこそ
光圀の志も大きかったということにもなっている。
 
水戸学は倒幕の原動力になってしまう。
その上に、よりによって天皇家と争いが起こった時の将軍が
水戸家出身という。
家康にとっては大誤算の結果を生むことになった。
しかし、最後は将軍が天皇家には逆らわないと決めていたからこそ
内乱に外国の介入を招くことなく、日本は亡国の危機を免れたとも言える。
この点に関しては、これも最大の皮肉だが、家康の計算ははずれた方が
日本のためには良かったのである。