歴史に詳しくないので、今読んでよかった
9巻を読んだのは2022年で止まっていた
逆説の歴史はまだまだ長い
 
 
 
本文より抜粋
 
浄土僧が頑固な法華僧に叩きつけるセリフが面白い。
「非学者論議に負けじ」つまり
「学問の無い人間ほど、物事の理屈が分からず、結果的に論破されない」
ということだ。
しかし、これは浄土僧にも当てはまる言葉
つまりは「どっちもどっち」なのである。
 
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私は知的好奇心から、教会の日曜ミサを見物し
祭壇画や彫刻をながめ、その意味を探るのに書物に当たったり
友人の説明に耳を傾けたりした。
だが、ショックだったのは
私が何の宗教も信じていないと答えたときの相手の反応である。
表情が途端に曇り
私を得体の知れない人間だと思い始めたことがありありと見て取れる。
神を信じない。
しかも同じ神を同じ仕方で信じないと仲間に入れてもらえないのだろうか。

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中世の日本人は今とはまったく違う
熱烈な信仰者であったということだ。
そして、だからこそ宗教に伴う「虐殺」もあった。
では、今それがなぜ無くなり
日本人は「無宗教」といっても緊張も覚えず差別も無くなったのか?
それは信長のおかげである。
信長の「虐殺」というのは、常に宗教の牙を抜くための対抗手段であって
宗教団体が行なう虐殺とは根本的に異質なものだ。

「(考え方の違う)相手を完膚なきまで弾圧する」

という態度は宗教団体のものであって、信長のものではない。
比叡山も本能寺も法華宗も抵抗をやめれば
すべて許し「隣人として平和に生きる権利を与える」
のである。それが信長だ。
ところが、多くの日本人は
それが「信長の贈物」であることを忘れてしまっている。

本来まったく異質なヒトラーやポル・ポトと
信長が同質のものだと「評価」してしまう。
誤解を恐れず言えば、ヒトラーと「同質」なのは
考え方の違いを一切認めないという点において
むしろ、「宗教」の方であって、信長ではないのである。

信長は宗教を弾圧したのではない。
宗教が政治に関与することを断固として排除したのだ。
そのためには大量虐殺もいとわない。
その信長の強烈な意志と行動のおかげで
日本人は宗教戦争をしなくなった。
だが、それは当然、「目に見えないもの」に対する軽視を生む。
これも簡単に言えば、昔ほど宗教を熱烈に信仰することはなくなった、という事だ。
だから後世の人間である我々は、信長以前の日本人に比べて
はるかに「現状肯定者」になっている。
それは逆に言えば、信長が自己の権力を構築するのに
「信長以前の日本人」を相手に
いかに苦労したかという事が分からないという事でもある。

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そして、最も大切なことは、本来の阿弥陀信仰(仏の前にはすべて平等)
の原理とは明らかに矛盾する疑似天皇制をとった本願寺に
阿弥陀を信仰する人々の大部分が馳せ参じたことだ。
つまり、日本においては天皇制の方が外来宗教である仏教よりも
はるかに強いということでもある。
信長はこの強力な原理に挑戦したのだ。
 

 
 
 
 
 
京都人の腹の底