この本の著者も暴露で56されないのが怪しいけど

書いてあることは納得が行くし辻褄が合う

30年バカにされても言い続けて

今、時代が追いついてきたし

この世こそゲームの世界と思えば

高次元の存在から科学否定で教えてくれているので合点がいく

化学の字もばけ学だし環境も汚染するし良い事ばかりではない

 

政治や宗教があちら側のシステムなら

善と持ち上げられている人すべて

悪から資金や知識を援助されていて裏に意図がある操り人形

目立つ正義の味方はあちらにも利があるから56されない

本当に刃向かう政治家はすべて迫害され56された

今はテクノロジーで管理する(操る)準備ができたので

統一政府に向けての人類を操る必要正義かも

その偽ヒーローにまた騙されて誘導されてはいけない

あのヒトラーさえ当時はヒーローで熱狂されていた

今は、災害、戦争、完全支配されるかの瀬戸際

弱った時、偽ヒーローは現れる予定だと思う

…でもここが仮想現実ならすべてがゲーム

すべてがひとつ(ワンネス)なら地球上のすべてが救われる

生き残っても死んでも最後は面白かったと思い死にたい

なんせあの世は感情が無くなるらしいので

このゲームの大逆転が見てみたいけど

これから崩壊のサバイバルで生き残れるかが問題…

 

マトリックスの映画と違うのは

目が覚めたらディストピアではない事

目が覚めた世界には肉体は無いので

マトリックスみたいに管には繋がれてないらしい

この世界こそ天国も地獄もあるのかも

幽界(最近消滅したらしい)で輪廻転生の罠があるというので

そこで次の人生地獄行きとかなのかも?

よく宗教勧誘の人が脅しで言う

この宗教に入らないと来世は家畜か北朝鮮だとか?!

それに騙されて宗教に入る人がいるのでそれこそが恐ろしい

 

 

P308

私は何年も前から、国際社会のいたるところに

シンボルが配置されているということを何度も強調してきた。

ピラミッドやすべてを見通す目、などなどだ。

なぜ、わざわざ大規模にこんなことをするのだろうか?

シンボリズムは、カルトの工作員が

公の場でコミュニケーションするための隠れた言語である。

それと同時に、カルトの周波数を人間のエネルギー場に伝達する手段でもある。

ピラミッドやすべてを見通す目

あるいはただの一つ目を見かける機会は

実にとてつもない数にのぼる。

そして、子ども向けのアニメにもしょっちゅう登場するのだ。

エネルギー的に、また周波数の観点からすると

シンボルは彼らが象徴するものをあらわす。

憎しみをあらわすシンボルは、憎しみの周波数と共振し

人間の波動場に害をおよぼす力を持つだろう。

波動接続から、なぜカルトが儀式に取り憑かれているかが分かる。

エネルギーは、関心が集まるところへと流れる。

儀式でカルトの目に見えない「神々」に意識が向かうと

波動の絡み合いが起こって情報が交換され、憑依がはじまる。

今も昔も、世界中に土星とオリオンの儀式が行われる場所がある。

そこでの儀式によって、参加者は土星とオリオンの周波数に接続される。

土星とオリオンはシミュレーションにとって非常に重要であるため

カルトはこれらを崇拝してやまないのだと私は考えている。

波動は、人間支配におけるすべての鍵である。

奴隷化を引き起こすものであり

また私たちを解放する知識でもあるのだ。

 

P312

いずれにせよ、支配システム自体は、原理さえ分かればそんなに複雑ではない。

その基本は、人間の知覚と感情を低振動状態に操作すること。

そして、その状態から発される波動と

カルトがコントロールする周波数帯との絡み合いだ。

この繋がりを通じてカルトは、進行中のフィードバックループの中で

人間の知覚と感情にさらなる影響をおよぼす。

つかまえた。それだけのことだ。

 

問題の解決法は二つある。

解決策を探すか、原因を取り除くかだ。

多くのグル〈導師)や「スピリチュアルの師」はたいがい自分の利益のために

意識を拡張するのは簡単ではないという。

自分探しや断食、瞑想、ヨガをしたり

あまたある集団儀式や終わりのない「ワークショップ」に参加したり

緑茶を飲んだりしなければならないと言うのだ。

悪いが、私は同意できない。

そうすることを選ぶなら、それはそれでいいし、役にも立つだろう。

だが、カルトのファイアウォール(防御壁)を破るために

意識を拡大するということはもっとシンプルで

たったひとつ変えるだけでいい。

自己認識を変えるのだ。

 

あなたが自分だと思っているものが、あなたの在りようをつくる。

人生経験、行動、知覚、感情、そしてあなたが自分だと思っているものが

投影された周波数として発する、波動の本質などだ。

自己認識は、カルトの聖杯である。

それがすべての大本だと分かっているからだ。

何世紀にも渡り、カルトは宗教を利用して

注文の多い「神」に隷属する無力な者、という自己認識を売り込んできた。

「神」の求めることをせよ、さもなくば地獄の業火に遭うことになろう。

長い司祭服に身を包んだ我々のエージェント(ほとんどは無自覚)が

お前に「神」、というか我々の望みを告げる。

私が「神のプログラム」と呼ぶものがいくつもつくられ、細分化されてきた。

これもまた、複雑そうに見せかける幻想である。

神殿の扉や「聖典」に書かれている名がなんであれ

神のプログラムはきわめてシンプルだ。

どの宗教をみても、枠組みは同じである。

 

聖典、文献、あるいは伝説によって「神」や「神々」をこしらえる。

僧衣の男(近年では女も)が、「神」あるいは「神々」の望みと

従わなければどうなるかを告げる。

キリスト教もイスラム教もユダヤ教もヒンドゥー教も

みな基本的な構造と運用手法は同じだ。

ユダヤ教は世界人口の0・2%しかいないのに

社会や自己認識に対する影響は計り知れず

とりわけキリスト教に顕著な影響をおよぼしている。

恐れは支配の手段であり、宗教は人々をおどして服従させるための道具だ。

「神」(カルト)の要求に黙従しなかったらどうなるか

という恐れを利用するのだ。

 

多くの人が宗教を受け入れなくなると、知覚を陥れ

低周波数の波動伝達を押し付けるため、別の自己認識が用いられるようになった。

カルトは「主流」科学を流布し、私たちは「進化」という宇宙の偶然の産物であり

受胎前や死後には存在しないと説いた。

鏡に映るものだけが「自分」である。

揺りかごから墓場まで、数分から数十年という無意味にみえる生涯のあいだに与えられ

学んだ一連のラベルから自分が何者であるかを認識するのだ。

ああ、そうだ。

このばかばかしい概念を受け入れるということは

シミュレーションのファイアウォールの中にあなたをがっちり捕らえる

極狭の自己認識帯を受け入れるということだ。

今日では、それらの自己認識やラベルが

さらに途方もない近視眼へとますます細分化、再細分化されている。

 

新しく細分化されたアイデンティティによって

シャボン玉はもっと小さくなり

本当の「私」との振動的な断絶は、これまで以上に深くなる。

カルトは、私たちがどのように現実とかかわっているか分かっている。

だがターゲットとなる人々は、ほぼ分かっていない。

カルトはこの知覚優位性を冷酷に利用している。

自己認識の牢獄ですべて

クモの巣にかかったハエが自分の現実感覚を疑わないことによるものだ。

この幻想は、カルトの支持者や無自覚な推進者によって広められる。

あからさまな、あるいはひそかな強制のテクノロジーによって

自分たちの現実を他者に押し付けようとしているのだ。

私が自分のすることを良しとするだけでは不十分だ、君も同意しなければならない。

なぜなら、私は正しいから!!

 

歴史上、ほぼすべての文化背景において、この繰り返すメンタリティー

(精神構造)とテクニックを見ることができるだろう。

シリコンバレー(ハイテク産業)の検閲は今日、同じことを最新形態で行っている。

ナチの焚書は、カルト所有のビッグテックのデジタル焚書に姿を変えた。

カルトは、マインドをさらに小さな自己認識に押し込めるよう操作する。

それに屈した者の多くが、他人にそれを強要することをライフワークにしている。

 

P322

自分自身の感覚を変えればすぐに「悟り」にいたる、と言っているわけではない。

存在するすべてという自己認識は、概念として頭にあるだけではだめで

しっかりと肚(はら)落ちしていなければならない。

無限というアイデンティティを頭で分かったつもりになっているだけなのに

自分は覚醒した、悟ったと信じ込んでいる人が多い。

それは、自己ではない。

自分の外にある、頭で考えた概念のままだ。

ニューエイジはエセスピリチュアル界隈に、こうした手合いが散見される。

本当はそうではないのに、マインドがそうだと言い聞かせているのだ。

頭の「悟り」では、言行が一致しない。

ニューウォークネスがいい例だ。

あるニューエイジャーは

若い親戚にもっと会うことを自分に「許可」した、と言った

「許可」?誰が誰を「許可」?なにがなにを「許可」?

拡大意識は、何をするにあたって自身に許可など与えない。

ただ、そうするのだ。

 

イズネス(在ること)はひとつの「ユニット」(単位)として動くのであって

互いに「許可」を必要とするバラバラのパーツではない。

頭は考えるが、イズネスは分かっていることの意識的な表現として分かっている。

「分かる」とは、名前や日付、触覚、味覚、視覚、嗅覚、聴覚

「証拠」といったもののことではない。

イズネスは、言葉なしに分かっている。

言葉のいらない、人間のファイアウォールを超えたところに存在しているからだ。

言葉はシミュレーションの概念である。

シミュレーションには、意識が直接コミュニケーションすることを拒否する

認識の限界が設定されている。

だから言葉が必要になるのだ。

 

言葉は人を五感に引きずり込むが、言葉を超えて分かれば

ふるさと(ワンネス)に還ることができる。

臨死体験者や、地球外生命体と交流したという人が、言葉ではなく

ただ分かることでコミュニケーションできたというのは本当に偶然だろうか?

こうしたテレパシーの例も、ごく低レベルの非言語認知にすぎず

私が言う完全なイズネスではない。

人間の体験では、こうした認知は「直感」と呼ばれる。

当然ながら、カルトが支配する主流科学では直感は一蹴(いっしゅう)される。

主流科学は、拡大意識を寄せ付けぬよう頭の領域を取り締まっている。

だがほとんどの人は、そんなことが行われていると考えたことすらない。

私の頭が私は正しいと確信しているのに

理知的な脳の外の拡大意識とかいうナンセンスを検討する必要などないだろう?

 

P328

「私は存在するすべて」という在り方(ただの概念ではなく)に向かって進化

拡大を続ける者は、いつかシミュレーションのファイアの突破口を見いだす。

そして彼らの波動場には驚くべき変化が起こる。

その結果、自身と現実の知覚はイズネス(完全性)のものに変容する。

私はボディではない。私は認識、認識している状態である。

すべては、その認識の体験にすぎない。

あらゆる人生経験、ドラマや怒り、困難、よろこびや悲しみ。

そういったものは、真の「私」という認識状態の、短い束の間の体験でしかない。

「私」はそうであり、そうでない。

存在し、存在しない。

すべての可能性であり、可能性ゼロである。

それがなんであるかは、あなたの選択にかかっている。

 

シャボン玉から覚醒しはじめた人が

突如として人生にちりばめられた「偶然」やシンクロニシティ

「ちょっとした運」に気づくのはこのためだ。

以前は、「ラベルが私」という知覚的な自己認識の制限によって

こうした可能性が排斥されていただけだ。

フィールドのもっとも強い相互作用は、そうだと分かっている時に起こる。

そう思うとか、望むのでは弱い。

希望は、はっきり言って無駄である。

望んでも、存在しない「未来」の幻影が浮かぶばかりだ。

道にある缶を拾いあげるのではなく、蹴とばすようなものだ。

分かっていれば、今それが実現する。

物事は、今という「希望」を持ってもらいたい。

「希望」は存在しない「未来」に属するものであって

決して実現しないと分かっているからだ。

 

希望を持つべきだって?

私たちは、分かるべきだ。分かるという感覚は、ハートから来る。

物事が無作為、つまり「点」のように見えるシミュレーションの

近視眼を突破すべく拡大してゆけば、パターンや繋がりが見えてくる。

人間支配の、啞然とするほどの規模や本質が明らかになる。

オルタナティブメディアの多くが石油利権のためと信じている。

操作された戦争は

実はオーウェルを超えた想像を絶する陰謀の一部であると分かるだろう。

その起源は地球の底、目に見えない周波数帯にある。

 

この段階に到達し、自分の考えを披露すれば、完全なるあたおか(頭狂)

あるいは救いようのないバカだと思われるだろう。

シミュレーションの外からくる知覚は

今だシミュレーションの中の幻想にハマっている者に批判されることになる。

公人ならば、多くの「オルタナティブ」メディアを含むマスコミから

容赦なく嘲笑され、攻撃されるだろう。

私人であれば、友人や仕事仲間、家族までも敵に回すだろう。

意識が本当にここまで拡大していれば、誰に何を言われようと気にならないはずだ。

拡大意識は、起こることはすべて一時的な体験にすぎず

無限の永遠の大いなる流れの中では取るに足らない事だと分かっているからだ。

なぜこのような扱いを受けるのかも、理解できているだろう。

人々は生涯に渡り

自身や現実の近視眼的な見方を植え付ける知覚プログラミングを受けている。

そのプログラミングに異を唱えても、喝采は期待できない。

 

私は、攻撃され嘲笑されている(自分の名前)ではない

私は(自分の名前)と呼ばれる体験をしている意識だ。

「私」は、その体験を観察しているものでもある。

私がその体験になり、その体験が自分であると認識した時にのみ

「残忍な運命の矢や石投げ」が発動し、感情的な反応が引き起こされる。

人間の現実と知覚されているものの核心に斬りこめば

ネガティブな反応は避けられない。

やむを得ない事だ。カルトの支配に抗議するのか、しないのか。

抗議するなら、難題に直面することになる。

「私は存在するすべて」の域まで意識が拡大していれば

「かかってこいや」と言えるだろう。

 

低波動の反応が返ってきても

そんなものと絡み合う必要はないし、影響される必要もない。

人間という体験をしている意識である、という知覚は

人間の脊髄反射(感情的反応)からあなたを切り離す。

大多数のやり方で現実を捉えなければ、予測された行動をすることもない。

人間のプログラミングと植え付けられた不安は、他者の反応を恐れる。

拡大意識は屁とも思わない。

正しいと思う事をすることに集中し、好かれたり

主流に持ち上げられたりといったことに関心がない。

カルトがつくり、コントロールする体制からの攻撃は

あなたが正しい道を歩んでいることの証左だ。

恐れるのではなく、よろこぶべきことだろう。

ワンネスと繋がって平穏なまま、その狂乱で静観できる。

 

誰かに攻撃されて、動揺し、傷ついたとしよう。

あなたの人生への影響は、あなたの反応からきている。

その反応は、あなた自身がそうすると決めたことによって起こったものだ。

言われたことによって傷ついているのではない。

言われたことを気に病むことで、傷つくことを許しているのはあなた自身だ。

 

傷ついたり、気分を害したりしないことによって

攻撃者が求めるフィードバックループを断ち切ることができる。

攻撃が同様を引き起こし、それがさらなる攻撃を呼ぶのだ。

無反応でいることで、波動場の回路は壊れる。

攻撃ではなく、反応が問題なのだ。

多くの人が動揺すれば、攻撃者はさらに勢いづいて攻撃する。

カルトは人々が動揺し、傷つくことを望んでいる。

主流以外の情報や意見を検閲することを正当化できるからだ。

これも、ニューウォークの人間支配アジェンダへの貢献のひとつだ。

カルトは人間の精神を壊し、壊れた人々を動揺や傷つくことから

「守る」ためにヒステリックに検閲を行う。

やつらはサイコパスだと言っただろう?

 

恐れは非常に低い周波数状態であり、意識の拡大の妨げとなる。

「恐れで凍り付く」というのは

表面的には闘争・逃走反応という生物学的な理由によるものだ。

だがそれは、恐れが波動場自身の振動を遅くして

鈍く重いところへと引き込んでゆくのが反映されたものだ。

カルトは、あらゆる場所に恐れを撒き散らそうとしている。

死の恐れ、未知への恐れ、「未来」への恐れ

そしてカルトの要求に従わなかったらどうなるかという恐れ

(大規模なロックダウンによる自宅軟禁を思い出してほしい)

ほぼすべての文化の人々が、似たような状況において同じ反応をするのは

グローバルなプログラミングと生物学的(波動場)脊髄反射コード化のあかしである。

あらゆる文化、宗教が一体となって、世界でロックダウンを受け入れたではないか。

 

シミュレーションの外の認識まで意識が拡大し

物事の本質が見えてきたなら、恐れるものなど何もないと分かる。

死?肉体にはいつかその時が来るものだ。

本当に、このちっぽけな周波数帯にいつまでもとどまりたいのか?

とんでもない、勘弁してくれ。

拡大意識は死を恐れない。

関心の向く先が変わるだけだと分かっているからだ。

大変だ、恐ろしい!助けてお医者様!

実際には、私たちはここに「来た」わけでも、どこかへ「行く」わけでもない。

関心を五感に集中させることをやめると

これまでずっといた場所にいることに気づくのだ。

「死」とは、VRヘッドセットを外すようなことだ。

カルトのもくろみは、私たちが人間生活と呼んでいる

バーチャルな関心の本質をコントロールすることだ。

私は、できる限のことをするまでヘッドセットを外したいとは思わない。

もしその時が来たなら、よろこんで受け入れ

制限から解放されることをうれしく思うだろう。

未来への恐れだって?

存在しないものを恐れる?

そんなおかしなことがあるだろうか?

私たちは無限の今に生きている。

私たちの体験は、知覚状態によってつくられ、視覚的に結びつけられている。

「ちっぽけな私」の「未来」は、「無限の私」とはまったく違ったものだろう。

違う知覚は違う波動周波数を生み、違う波動場

つまり人や場所、体験、生き方と絡み合うのだから。

それに気づけば、「未来」をコントロールすることができる。

 

自分をコントロールするのは自分である。

カルトでも、偶然でもないということを肝に銘じよう。

やつらはこの事実を知られたくないのだ。

意識拡大のプロセスは、「悟りを求める」ことではない。

私たちは、今もこれまでも存在するすべてであるという意味で

すでに「悟っている」。

意識の拡大とは、知覚プログラムを消し去るということだ。

知覚プログラムは、私たちの大いなる意識が五感にフォーカスした

ボディマインドに影響できないよう、ブロックしてしまう。

「覚醒」とは、新しい何かになることではない。

元々私たちは覚醒しているのに

そう気づかぬようにめぐらされているバリアを取り去ることだ。

知覚プログラムは、低波動の玉ねぎの皮のように

「人間の自己」をシャボン玉の中に閉じ込めている。

知覚プログラムはシャボン玉である。

 

P340

完全に「分かった」と思ったなら、それは分かってないことのあかしである。

私たちはいつだって、知るべきことの一部しか分かってない。

意識が完全に拡張して、あらゆる意識を知覚しなければ、すべてを知ることはできない。

それには、完全なワンネスの認識が必要だ。

認識の拡大には、ギリシアの哲学者ソクラテスの言う

「無知の知」という分別が必要だ。

「真の叡智とは、自分がなにも知らないと知ることである」というものである。

それを認識することで、マインドは常にあらゆる可能性に開かれ

無限の永遠の中で可能性は当然無限であると理解できる知恵を持つ。

 

P347

サブリミナルな操作があらゆる場所にあることを意識していれば

その効果はブロックされる。

無意識のうちに周囲の人間に操作されることを防ぐことにも、この原理が使える。

自分自身が操作を意識することでのみ、止められるのだ。

カルトのゲームは潜在意識で行われている。

ひとたびサブリミナルな挿入に気づけば、絵を見るたび、まずそこに目がゆく。

顕在意識のマインドが、そこにあるものに気づかされたからだ。

これが、意識的な気づきが潜在意識のプログラムを無効にするパワーである。

この原理は、スマホと5G周波数にもあてはまる。

それらの波動の影響に気づいていなければ

潜在意識はそれらの波動場に開かれた状態になっている。

その危険性を知っていて、おそれている場合も同じだ。

それらの波動の存在と意図を認知した上で

自分はそんなものに負けないと意識的に分かっている事。

この組み合わせが最強のディフェンスだ。

人工的な波動場でも、あるいは人や飲食物、汚染、病気でもなんでも

あらゆる波動場に対して有効である。

ボディはマインドのあらわれなのだ。

 

P350

誰しもいつかは逝く時が来る。

でなければ、ここに永遠に留まる事になる(悪夢)。

私たちは、いつその時が来るかについて、多くの人が思うよりずっと大きな力を持っている。

もっと言えば、私たちは生まれてくる前に、いつ死ぬかを決めてきている。

ボディの振動に終わりをコード化しているのだ。

元気で体調も良い人が「突然死」するのは、決めた時が来たからかもしれない。

私たちは「万物」の事をまだまだ知らない。

私たちが知る事を選び、自分ごととすれば、扉は開かれる。

 

P351

カルトの重いエネルギーや制限をはるかに超えた

別の意識と認識の源が、人類を知覚の昏睡状態から救いだすために動いている。

それに気づくことが重要だ。

この意識を代表する人々が、ワンネスの象徴的な息子や娘としてこの「世界」に存在している。

カルトの工作員が、彼らの非人間の「神々」を代表しているのと同じように。

私は何年も世界を回って、あらゆる主流の外側をみてきた。

多数派には程遠いとはいえ、人間の知覚は社会の各方面で覚醒しつつあるといえる。

「パンデミック」ロックダウンによって、さらに膨大な数の人々が

世界や今起こっていることに疑問を持つようになった。

これまでは、そんなことを考えもしなかった人たちだ。

そのレベルはさまざまで、もちろん皆が完全に覚醒しているわけではない。

しかし疑問を持つ人は急速に増えていて

これまで一顧(いっこ)だにしなかった可能性にマウンドを開いている。

これまで秘されてきたすべてを明らかにする、というくだりも、めざましく実現している。

世界の操作とその背後にある力について、今分かっていることを考えてみてほしい。

私が1990年に真実の振動とその作用について聞かされた時とは、比べものにならない情報量だ。

シリコンバレー、その他カルトによる狂ったような検閲は

この覚醒を妨害しようとする必死のあがきによるところが大きい。

AI脳接続やスマートグリッドも然りだ。

カルトにとっては残念なことに、彼らが対峙している意識レベルは

自分やその親方(マスター)の現在の知覚状態や周波数よりもはるかに強力だ。

現実の波動的本質や波動の絡み合いを理解すれば

真実の振動が人間の認識にどのように影響するかを説明できる。

真実の振動とは高周波数の情報場で、繋がったものの波動場振動を変える。

最初に影響を受けるのはもっとも覚醒している人

(あるいはもっとも眠っていない人)で

やがて完全に眠っている人でも効果を感じるようになる、ということだった。

ただじっと待っていれば、こうした周波数がすべてを良くしてくれるという事ではない。

その周波数帯にこちらから同期しなければ、最大の効果は得られない。

どうやって?ハートを開くのだ。

 

P357

感情的な反応が、ハートの出した答えだといつも勘違いされている。

愛の真の姿が、操作され誤解されているためだ。

惹かれるだけでは愛ではないし、意識高いアピールの感情も違う。

私が言う愛とは、バランスである。

あらゆる力、まるごとのバランス。

すべての構成要素がひとつになり、どれかが他を支配することはない。

それぞれが全体に貢献し、誰も何も奪おうとしない。

特定の人だけへの思いやりや共感は、無限の愛ではない。

限られた者だけではなく、全員への思いやりと共感が

私の言うワンネスである。

無限の愛は、思いやりや共感だけにとどまらない。

叡智、公平、正義、そして無限の知性である。

点と点をつなぐ全体性においては、愛は点をつなぎ気づきという視点からくるものだ。

ゆえに愛とは、あらゆる角度からすべてを見通すしたたかさである。

 

ワンネスの愛は、有色人種にも、トランスジェンダーにも、白人男性にも共感する。

共感を呼ぶのは直面する状況であって、人種やセクシャリティではない。

愛は、物事をあるがままに捉える。

個人的あるいは集合的なアジェンダのために、他の言葉で言い換えたりはしない。

ニューウォークや超シオニストの行いや反応を観察すれば

愛ではなくヘイト(憎しみ)が見てとれる。

他者の「ヘイト」と知覚されるものには噛みつくというのに、皮肉なものだ。

これは頭、腸であって、ハートではない。

そして、「無意識に、自分の問題を妄想や否定のかたちで誰か(なにか)

のせいにすることによって特徴づけられる、無意識の自己防衛メカニズム」や

「自分のネガティブな考えを押し殺して

誰かのせいにすることによって、他人を責める方法」といった投影である。

 

P360

共感とは、必ずしも相手が言ってほいしことを言う事ではなく、たいがいその反対である。

子どもをあらゆる問題から守っていては、後々大人の世界で翻弄されることになる。

それは、マクロにみれば共感とも愛とも言えない。

子どもや若者、それ以外でも、自分の行動の結果に直面しなければ

どうやってそこから学んだり、成長したりできるだろうか?

そんなことをしていては

カルトが朝飯前に餌食にする、感情的に弱い人間になってしまう。

共感や愛というのは、幻想の「やさしさ」から

ねだられるがままに子どもにスマホを与えることではない。

子どものスマホ使用は、長期的に大きな損害をもたらす可能性があるのだから。

愛は、ネガティブな、あるいは攻撃的な反応が返ってくると分かっていても

耳の痛いことを言うものだ。

愛は、正しいと分かっていることをする。

称賛という感情的な支持やドーパミンラッシュを求めたり、必要としたりはしない。

 

ハートの覚醒にも多くのレベルがある。

カルトの影響がなくなる一線を越えるまでは

引き戻そうとするカルトの周波数との綱引きとなる。

継続的なプロセスなのだ。

線を越えるときには、自己認識は「ラベルの私」から「無限の私」へと変容している。

これによってプログラムとの波動場の絡み合いが解消され、知覚にも影響を受けなくなる。

もはや真実を口にするのを恐れることなく

どんな脅しにも黙らされたり、人生に影響されたりはしない。

死を恐れたり、人間という体験を自分自身だと捉えることもない。

もはや、恐れるものなど何もない。

拡大意識がワンネスの知覚で跳ね返すまでの短い間、生体反応はでるかもしれないが。

あなたは、人間の目を通して観察しているワンネスである。

あなたの目に映るのは、孤独ではなく調和、分裂ではなく統合である。

あなたは、ラベルは巧妙に操作された世界の幻想であると分かっている。

この視点から、あなたがかつていた場所にいる人々への思いやりが生まれる。

その人たちが悪意を持って、あなたを傷つけようとしていても。

彼らを許そう。文字どおり、自分が何をしているのか分かっていないのだから。

 

人間の現実のすべての知覚的な柱が崩壊する前の

ハートとマインドを開くプロセスはそう長くはない。

信仰や肌の色が重要だという考えは、ばからしく思えてくる。

それが自身や他人に対する行いに悪影響を与えるなら

当然異を唱える必要があるだろう。

だが宗教的または人種的背景そのものは

ハートの覚醒にはなんの関係もない。

すべてが明らかになり、ベールが取り去られたなら

私はあなた、あなたは私、私はすべて、そしてすべてが私であり、あなたであると分かる。

どんな宗教であれ、規則や法規、押しつけられた信条に従うというのは

開いたハートにとっては同意できないことだ。

誰が、いつ、どのような状況で書いたのかほぼ不明な「聖書」が定めた限界の中に

私を留めることなどできるだろうか?

私は、無限の可能性と無限の永遠という限界のない領域から来た

存在するすべてだというのに?

えっ?どういうこと?

 

P366

圧倒的多数が、生まれついた宗教を信仰する。

なぜなら、宗教は恐れと罪悪感によって統治する知覚的洗脳であるからだ。

従わなければこうなる、という脅しに加え、実際の制裁もある。

イスラムやムスリムの定義である「従う者」

「イスラムは神への絶対服従、ムスリムは神に絶対服従する人の意」

という語は、宗教というものの本質を非常に的確に捉えている。

 

そう考えてみると、あらゆる宗教はほぼ同じであると分かる。

宗教は、存在するすべての中の注意を向けた点であるあなたに

「個人的、社会的、物質的、精神的、論理的、法的、文化的、政治的、経済的

そして全体的なあらゆる領域において」どのようにふるまうべきかを説く。

「教える」という語にこだわる必要はない。

要するに、直接的、精神的な押し付けや洗脳の事だ。

カルトはこうした理由から宗教を重用し

知覚行動的アルカトラズ(監獄)としてつくりだしたのである。

私の宗教の定義はこうだ。

「幻想を吹き込まれた者が次の世代へと吹き込む事で、複数世代にまたがる幻想」

宗教もまた、知覚の永久機関である。

 

P368

人が何を信じるかは、私がとやかく言うことではない。

誰しも、信念が引き寄せる波動の絡み合いを引き受けることになる。

良いものもあれば、そうでないものもあるだろう。

私は、他者に対するあらゆるかたちの信念の押しつけに異を唱えている。

この押しつけをやめ、ハートの力で目覚めた人々が知覚の圧制を拒否しなければ

人類は自由にはなれない。

 

P371

他者への愛や思いやり、共感の必要性を説く者のうちどれほどが

自分自身への愛、思いやり、共感を持ち合わせているだろうか?

自己愛は、いつもなおざりにされる。

どうしたら自分を愛せる?それってナルシズムでは?

真実は真逆である。

自身を愛さず、尊重しないことがナルシズムへとつながる。

ナルシズムとは、自己愛、自身、自尊心の欠如を

自分自身や他人から隠すために世間に見せる顔なのだ。

ハートが、自己イメージを偽って他者によく思われたいなどと思うだろうか?

ハートが、自分の価値をフェイスブックのいいねや絵文字で計ったりするだろうか?

すでにあなた自身がすべてであるのに、いったい誰によく思われたいのか?

そもそも、なぜよく思われたいのか?

よく思われたいという意思、つまり願望は

他者の知覚的要求に合わせて本当の自分を変えている、ということを意味する。

あなたはあなたであって、他の人ではない。

だから、ありのままでいい。合わせなくていいのだ。

あなたは、ワンネスの独自のあらわれだ。

素顔であれ仮面であれ

どんな見かけであろうと関係なく、あなたを嫌う人はいるだろう。

往々にして、それはその人たち自身の自己肯定感の低さに起因する。

私は取るに足らない人間だ。

お前を攻撃して、同じ気持ちにさせてやる。

自己肯定感を他人にゆだねる?

それとも自分で決める?

 

他人の言いなりになるほど、波動を絡み合わせることになり

将来の幸福までも蹂躙(じゅうりん)させることになる。

今日私たちの生きる社会をつくったのは、群衆心理である。

集団から離れれば、自由になれる。

 

P374

たとえばツイッター王、ドナルド・トランプは

虚勢と自信に満ちたナルシストの姿をしている。

だが私には、おびえた少年の姿が見える。

ナルシズムと異様な虚勢、そして自信のように見えるものは

そのおびえた少年を彼自身と他者から隠すためのものだ。

トランプが、見当違いの批判に脊髄反射で激しく噛みつくのはご承知のとおりだ。

これは私が定義する本当の自信、他人の言葉を気にしないということとは真逆である。

人の言うことを一切気にかけない、ということではない。

正当性があるかどうか、あらゆる見解に耳を傾けるべきである。

私が言いたいのは、世間にどう思われようと気にするな、ということだ。

それが、外からの承認を必要としない自由と自信だ。

自分のアイデンティティを人間のラベルと関連づけたり

それを押し付けようとしたり、他のラベルと優劣を競ったりはしない。

自分自身を分かっているのが自由である。

 

ハートを固く閉ざして愛を受け入れず

ワンネスの影響のないカルトとその神々は

おびえたちっちゃないじめっ子である。

口先だけは勇ましいが、恐れを知らない者が立ち上がれば、ひるんでしまう。

そして私たちではなく

彼らの方が人間を必要としているのだと分かって、ぞっとするのだ。

実際私たちには、カルトなどまったく必要ない。

だからカルトは、私たちに依存している。

私たちの創造性や、低波動のエネルギーなしではいられないのだ。

カルトは人間以上にすべてをコントロールし

あらゆる可能性、不確実性を排除しようとしている。

カルトとその「神々」ほど、未知なるもの、予測できないものを恐れる者はいない。

人類が覚醒めれば、カルトはおしまいだ。

やつらもそれを分かっている。

 

P376

あらゆるものをAIと技術でコントロールするカルトのテクノクラシーは

コントロールのみならず、不確実性や未知なるものの排除も目的としている。

私たちはこうした人々を恐れ

力があると思うよう誘導されているが、彼らの実態は哀れなものだ。

にっこり笑って、やつらのばかばかしさを笑い飛ばす方がずっといい。

彼らを恐れないと言う事で、問題を1000倍小さくできる。

 

ハートは、カルトの力は知覚の力であると分かっている。

本当に力があるのなら

他者の力を24時間体制でおとしめなくても、思い通りにできるはずだ。

私は彼らを気の毒に思う。

幻想にふけり、人類をさらに小さな幻想に閉じ込ておくことでしか生き残れないのだから。

ハートはそうした幻想を打ち砕き、恐れに屈することはない。

ハートも愛も、どちらも私たちを答えにつなぐものだ。

 

ハートは、スマホや5Gが支配の柱であることを見抜く。

ハートの叡智はスマホをゴミ箱に放り込み

5Gの本当の影響を取り上げる運動に参加する。

5Gの送電網が機能しないようにするため

人に対する暴力以外なら、必要な事はなんでもするだろう。

シリコンバレーのビル・ゲイツやイーロン・マスク、マーク・ザッカ―バーグ

ラリー・ペイジ、セルゲイ・ブリン、スーザン・ウォシッキ―や

ジェフ・ベゾスを崇拝するのではなく

彼らの人類に対する罪、自由の抹消を告発し、異を唱える。

 

ハートの叡智は、AIに接続されることを断固拒否し

あらゆる機会をとらえてAIの本当の目的を伝える。

ブルートゥースやアップルウォッチ

その他あらゆるAIワイヤレスガジェットの装着を避ける。

当然ワクチンやマイクロチップ埋め込みも

スマートグリッドに関係するスマートメーター、自律走行車

その他ワイヤレスでネットに接続できる機器も拒否する。

コンピューターは、AI制御網やモノのインターネット(IOT)

に接続されていなければ、人類に貢献できる。

人間の自由を確保するためにも、必要なものだ。

ハートは各家庭の外にあるすべての5G送信機に、全体として

あるいは直接影響を受ける場所において異議を申し立てる。

 

P383

ハートは両手を広げ、「聖人」も「罪人」も、みな同じように迎えいれる。

審判の日などない。

私たちの在りように見合ったものが引き寄せられ

在りようが変われば引き寄せられるものも変わる。

ハートは、大切なものとそうでないものを教えてくれる。

エネルギー的なハートを意識することで

胸の真ん中の波動が強くなっていることに気づくだろう。

知覚プログラムを消去するほどに、波動はどんどん強くなってゆく。

意識(アイデンティティ)のありかが、頭からハートへと移動しているのだ。

最終的にあなたはハートになり、ハートがあなたになる。

 

あるセラピストはクライアントの問題について

まず頭で、次にハートで説明するよう求めた。

セラピストの言葉を借りれば

それはまるで二人の人と話しているようなものだったそうだ。

ハートになるとは、そういうことだ。

別人になって、「パーソン」ペルソナ、役者の仮面としての自己認識を超えて拡大する。

私たちは、幻想の世界で偽のアイデンティティを生きてきたこと

そしてカルトの力は、完全にその偽アイデンティティと

幻想の世界に存在しているということに気づく。

ハートが答えであり、人間の相互作用を変えるのはこのためだ。

 

ふしぎの国で、アリスはこう言った。

「昨日のことはお話できないわね。昨日はあたしは、別の子だったんだもの」

ひとたびハートが開けば、メッセージは同じだ。

私たちがハートの意識へと旅立つ時

日々の経験の中で問いかける価値のある質問は

「ワンネスならどうするだろうか」

そして「私のハートはなんと語っているだろうか」というものだ。

その状況で、人間のマインドがどうするかは気にしなくていい。

ハートを通じて語る、ワンネスはどうするだろうか?

関わる人すべてに、思いやりと共感、愛、叡智をもって応じるだろう。

無抵抗で、されるがままになるということではない。

時には自分を解放するために困難を引き寄せ

乗り越える必要もあるということだ。

必要だからこそ

最高のギフトが最低の悪夢からあらわれることもよくあるのだ。

 

不公平や不正にハートから異を唱える時

憎しみや傷つけようという思いはない。

だが、相手を見据える時にひるむこともない。

異議申し立てや摘発することは

憎むことでも傷つけたいと願うことでもない。

そんな必要はないのだ。

 

P388

必要なものはすべて引き寄せられる

と分かった上で、我が道をゆこう。

そうすれば、体制に仕えることなく、必要なすべてと絡み合うことができるだろう。

結果を恐れながら我が道をゆけば、恐れた結果と絡み合うことになるだろう。

臨終の知覚とは

死の床で「神」を待つよりもっと前の時点で、なにが重要かを見極めることだ。

人生の幕を引くときと同じ視点、同じ感覚で、なにが本当に大切かを判断しよう。

人間のラベルや「成功」という知覚の煙に巻かれたり、注意をそらされたりせぬように。

大切なのは、愛し愛されることだ。

自分への、そして他のすべてのワンネスのあらわれへの愛だ。

そしてワンネスのあらわれ自体も、愛である。

 

カルトが、この世界から愛を大量に吸い上げてしまった。

それを取り戻さなければならない。

それが答えだ。

カルトは必死だが、私たちの周りには、まだまださまざまな姿の愛がある。

私たちは皆、いつまでも無限の愛にハートを開く選択をすることができる。

 

どうすればポスト・ヒューマン、人類の終わりを阻止できるだろうか?

それには、人間を超えてゆくことだ。

私たちは誰なのか、なんなのかを思いだし、その自己認識で生きるのだ。

そうすれば、すべてうまくゆく。

十分な数の人々がそうすれば「世界」を変えることができる。

私たちが変えなければ、何も変わらない。

というか、自分自身を変えるのだ。

 

本当の「私」は「時」もあらゆる幻想も超えているのだ。

時間など存在しないのだから。

 

ハートの真ん中から命ははじまる。

地上でもっとも美しい場所だ。

愛はあなたとすべてをつなぐかけ橋だ。

さよならは、目で愛する人々のものだ。

ハートとソウルで愛する人には

別れというものは存在しないからだ。

 

静寂に向かってハートを開こう。

答えはそこにある。

 

おわり

 

訳者あとがきより

 

アイクは、組体操の例をひいて語った。

花形は、ピラミッドの頂点に立つ。

だが、一番下の段を支える「その他大勢」のひとりが

くしゃみをしただけで、ピラミッドは崩れてしまう。

何者でなくても、世界は変えられる。

夢から醒めると決めれば、支配の力はおよばなくなるのだ。