「敵を愛せ」「右の頰を打たれたら左の頰をも向けよ」
─聖書にこうした言葉があるにもかかわらず、
十字軍、異端審問、魔女狩りなどの戦争や殺戮行為が、
キリスト教の名のもとに行われてきた。
「一つの神しか信じない」という一神教の心の狭さが、
こうした悲劇を引き起こすのではないか。
あるいは、なぜ聖書の教えが浸透しているはずの欧米社会で、
貧富の差が拡大しているのか。
そもそも、宗教に頼る人は精神的に弱いのではないか─。
↑読んでないけど、「キリスト教は戦争好きか」という本の解説
昔読んだ「置かれた場所で咲きなさい」の渡辺和子さん(修道女)
本の内容からすると、いろいろと異端者だったから、亡くなった埋葬時
遺体に、目を覆うような辱めをされていたのを見たと
交友があった著名人男性の本で読んだ(誰の本か忘れたけどスピ系)
そういう規律が厳しい集団には、ありえる話だと思った
↓ネットで「置かれた場所で咲きなさい」の言葉に反対意見もあった
少なくとも、企業経営者やリーダーが部下に使えば、
それは精神論であり、問題のすり替えにほかならないだろう。
だから私は、この言葉を無責任であり卑怯であると思っているということだ。
こんな話がある。
秦の始皇帝に仕え、その天下統一を補佐した李斯は元々、田舎の小役人であった。
そして「自分はこのまま、こんなつまらない人生を過ごしても良いのか」
と悩んでいたある日、便所の片隅で人に怯えながら汚物を食べ生きる
痩せネズミを見かけ、嘆息した。
「俺もこのネズミのような、つまらない存在だ」と。
またある日、穀倉の中でもネズミを見かけるのだが、
そのネズミはあり余る穀物を食べて肥え太り、
人間の姿にも全く怯えることがなかったそうだ。
その姿を見た時に、彼は悟った。
「人生もネズミの生き方も、生きる場所次第ではないか」と。
そして彼は一念発起し勉学に励み、始皇帝に見い出され、
歴史に名を残す大人物になっていくことになる。
もし彼が、“生きる場所”を変える努力をしなければきっと、
田舎の小役人のまま、悲嘆の中で一生を終えていただろう。
「石の上にも三年」
「置かれた場所で咲きなさい」
といった価値観が尊いことは、論を俟たない。
どんなことでも、自分の力が及ぶ限り努力し、
必死になって喰らいついていくべきだろう。
しかしその上でどうにもならなければ、
李斯のように生き方や環境を変えてしまうことも、決して迷うべきではない。
人生をやり直し、新たなチャレンジに踏み出すことは
決して逃げることではないのだから。
「置かれた場所で咲きなさい」という言葉を重く感じたら、
きっと心が疲れているはずだ。
そんな時にはぜひ「便所のネズミ」の話も思い出して、
人生でベターな選択をする参考にして欲しいと願っている。
FBでの投稿にて、(著者) chihiro-sato-schuhさん
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【愛の封印装置】
キリスト教が無償の愛を第一に語りつつ、まさに愛を封印するようなことになっているのは、実に逆説的なのだけれど、事実だと思う。そのメカニズムを見ていくと、見事にしかけられた封印装置のようだ。愛を求めれば求めるほど、愛が搾取されていくようなことになっている。
無償の愛、無限の愛、といったとき、多くの人は、自分が与えなければいけないと思うのだ。それは、地上で生身の身体を持って生きている存在には不可能だし、そもそも地上というところは、そんなことをする場所ではない。キリスト教で神と言っている存在は、生身の身体を持たないからこそ、永遠の次元に生きていて、だからこそ無限で無償だ。だから何でもできるし、すべてを知り得、すべてを持っている。
しかし、生身の身体を持って生きている私たち地上の生き物は、身を守ったり、望むことをしたり、いろいろな冒険をしたりするために生きているので、怒りもするし、攻撃したりもするし、人をからかったり、軽蔑したり、憎んだりさえする。それによってありとある経験が可能になり、ありとあるドラマ、ありとある愚行、ありとある偉業が可能になる。そして、そのすべての経験は許されている。それを可能にしているこの世界こそは、無限の愛だ。
神はすべてを許している、というと、多くの人は、自分が許されていると思う代わりに、自分が許さなければいけないと思うのだ。だから、自分を攻撃してくる悪党たちも、あの人にも事情があるんだし、とか一生懸命にかばおうとする。悪党たちの悪行が許されているのなら、悪党たちをやっつけることもまた、許されているはずなのだ。両方許されているからこそ、世界のバランスが取れる。悪党たちの悪行は無限に許して、それに腹を立てることは禁じているのなら、それこそ悪党天国ができあがってしまう。
キリスト教では無償の愛を語りつつ、多くの場合、それが見事に引っくり返されている。無限の愛ではなくて、無限の支配、無限の服従のようになっている。それが深層心理まで入り込んでいて、抜け出せない状態になっている人も、少なくない。
ナザレのイエスの死後、十字架につけられた受難の像が、無償の愛のシンボルとして、崇拝されることになった。その時点で、無償の愛というものが、神が人間に与えるものではなくて、人間が身を犠牲にして与えるものであるかのように、すり替えられたのだ。生身の人間には、無償の愛は不可能だし、そんなことをするために、神は人間を作ったのではない。その不可能なことを要求し続けるシンボルがつねに突きつけられて、すべての人はそれができないことに罪の意識と欠如の意識を負い続けることになる。そして、そのために、自分の本当の思いから離れて、善いと言われたことを何でもやろうとするようになってしまう。
4年前に奇妙なパンデミックが始まってから、支配者が政府とメディアを使って、大衆心理操作を行っていることが表に出てきた。一体どうして、こんなに多くの人々が、筋の通らないことを信じ込んで、自分の身を危険にさらすようなことをしてしまうのか、その謎解きが始まった。そこで、トラウマ療法を専門にする心理学者たちが、これはストックホルム症候群と同じ現象だと言っていた。
ストックホルム症候群というのは、ストックホルムの銀行で起きた強盗事件のときに見られた、奇妙な心理現象から来ている。強盗団が人々を人質にして立てこもったときに、人々は殺される恐怖に長時間さらされた結果、しまいに犯人を好きになってしまい、協力さえするようになってしまったというのだ。人質救助に来た警察官を攻撃したり、のちの証言でも、犯人をかばったりしたそうだ。中には犯人と恋愛関係になってしまった人もいたらしい。
生命の危険にさらされ続けると、生き延びていくために、もともとの自我を殺して、加害者の価値観に合わせた自我を作り出す心理メカニズムが働くというのだ。それによって、とにかく危機を生き延びていくことができる。しかし、その状態になってしまうと、本当の自分は消え去ってしまい、自分を支配する人間の気に入るように、何でもするようになってしまう。シェイクスピアの戯曲「じゃじゃ馬ならし」は、まさにそうしたやり方で、強情女を従わせてしまうという話なのだけれど、その結果、彼女はまるでロボットのように、何でも夫が命じた通りに無思考、無批判で従うようになってしまう。これを成し遂げた男は、鷹狩の鷹を仕込むときのやり方だと言っている。つまり、食べさせず眠らせず、生命の危機を長時間感じさせておいて、言う通りにしたら優しくする、というようなやり方だ。
パンデミックのときには、ひどい病気で死ぬみたいな恐怖を繰り返し与え続けておいて、政府がこうしろああしろと命令し始めた。それで、それに従わない人々は、大悪党みたいに扱われたのだ。それで、多くの人は、無思考、無批判に、言われたままに従うモードになってしまった。そういう状態を、政府とメディアが一緒になって、意図的に作り出していたというのだ。こうしたメソッドを使うと、人に自分の身を犠牲にするようなこともさせてしまえるし、愛する人を犠牲にすることさえさせてしまえるのだという。
これについては、イギリスの諜報機関が深層心理研究所を使って、メソッドを研究させていたというような話もあったけれど、シェイクスピアも書いているくらいだから、昔から知られた手法だったのだろう。それを思うならば、キリスト教会というものは、まさにそうした手法でできているように思える。地獄だとか受難だとかの恐ろしいイメージを絶えず与えて、無償の愛を与えろとかすべてを許せとか、不可能なことを命じて、それができないことに絶えず罪の意識を感じさせたり、すべてを犠牲にして従う人だけが、神に愛されて救われるみたいな印象を与えている。それは、ナザレのイエスが教えたこととまさに正反対なのだけれど、教会ではそれが見事に引っくり返されている。
この状態になった人が、自分を取り戻していくには、極度の苦しみを経験して、もうどうなってもいいから、自分を守ろうとする気になるようなプロセスが必要だったりする。禅宗を作った臨済は、師匠にあまりわけもなく殴られるので、しまいに師匠を殴り返して悟った、と言われている。それによって、世間がどうだろうが、まったく揺るぎない自分の意識というものが取り戻されたのだ。
私は、元夫と別居することになる数ヶ月前、心理的に責め続けられているような状態になっていて、このままこんなことをやっていたら、死ぬなと思っていた。その頃すでに、私はハイヤーセルフとコンタクトしていたのだけれど、元夫に責めつけられて死にそうな気分になっていたとき、ふいに神さまがそこに現れたことがあった。言い争いの合間に二人で黙り込んでいたときのことで、部屋には一触即発の緊張感がビンビンに漂っていた。そこに神さまは、そんな空気をものともしないように、朗らかなエネルギーを放射しながら、現れたのだ。まるで、うれしくてたまらないといったような様子が、部屋に漂っている陰惨な空気と、激しいコントラストを成していた。
そこで驚いたことに、神さまはギラギラ光るサーベルを私に差し出したのだ。これで彼をやっつけておやり、と。サーベルは実に恐ろしげにギラギラと光っているような代物だったのだけれど、神さまはそんなことは意にも介さない風だった。まるで、チャンバラごっこで負けて泣いている子供を慰めるみたいな調子で、まあまあ、いいじゃないか、これで仕返しをしておやり、と。私はさすがに怖気づいて、こんなものは受け取れません、と断った。すると神さまは、困ったなぁという表情になった。それから、これならいいだろうと、別なものを差し出した。それは、漬物石みたいな大きな丸い石だった。「それじゃ、これならどうだい? これを彼に投げつけておやり」と神さまは、子供におもちゃでも贈るみたいな調子で、そう言った。
私が受け取りかねていると、神さまはしきりに、石を投げるしぐさをしてみせる。ほら、いいから、こういう風に、やってごらん、としきりに勧めるようにだ。それで私も、神さまがそんなに勧めるんならと思って、その石を受け取った。そして、ラップトップの前に座っていた夫の頭上に意識で移動して、頭めがけて、その石を落とした。彼が椅子から転がり落ち、ラップトップが粉々に砕け散るイメージが、稲妻のような鮮烈さでパッと現れた。その瞬間、バリバリに固くなっていた私の心臓の殻が裂けたのがわかった。心臓から彼に対して激しい憎悪が湧いてきて、それが自分を守る大きな愛になったのがわかった。
すると次の瞬間、受け取らなかったはずのサーベルが、私の手の中にあることに気づいた。「このサーベル、やっぱり使わせていただきます!」と私は言うと、彼の心臓めがけて、思い切り突き刺した。これほどの怒りを自分が持っていたことに、私はそのとき初めて気がついた。そして、まさにそれだけのことを、彼にされていたことにもだ。
怒りもまた、神が私たち人間に与えたものだということを、私はそのとき初めて理解したのだ。怒りとは、私たちが自分を大事にして、その身と自由とを守るために、与えられた力なのだということを。
神さまは、私が自分の心臓を守れないでいたときに、意識上のサーベルだの丸石だのを持って来てくれた。あれこそは、神の無限の愛というものだった。
自分で自分を守れなければ、人を守ることだってできない。キリスト教会で条件づけられた人たちは、自分を守る力を奪われたような状態になっている。その状態で他の人に何かをしようとすると、愛と言いつつ、押しつけになってしまって、結局のところ、ストックホルム症候群を再生産するようなことになっていたりする。それを見ていると、これはまったく見事に作られた封印装置だと思わないではいられないのだけれど、この封印も、どうやらついに解けるときが来たようだ。