4巻176ページより

 

 

人間の堕落(フォール)は

爬虫類人の乗っ取りがもたらした結果を如実に表現した言葉であり

今日でもなお、何十億人もの心(マインド)が

キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンドゥー教など

同一の神話を起源とする宗教に対する揺るぎない信仰に支配されている。

こうして信者は、心(マインド)の中に閉ざされ

根源意識(コンシャスネス)から切り離されたままである。

宗教は心(マインド)の構築物だからである。

 

限りない永遠の、全知の根源意識が

教会に行って跪(ひざまず)き、「神」を拝むだろうか?

そんなことはありえない。

全て心(マインド)が行っていることである。

心(マインド)は、コンピュータのソフトウェアのようなものであり

信じるようにプログラムされたことを信じる。

作家のオルダス・ハクスリーは述べている。

 

「動物が、宗教や魔術といった愚かしく

バカげた行為をするのは見たことがないはずだ。

天に雨を降らせてもらうようにと小便の儀式をする犬はいない。

雲一つない空を礼拝して鳴くロバもいない。

肉食を自制することで

猫の精霊をうまく誘導し、慈悲を乞う猫もいない。

そうした根拠のない愚行をするのは人間だけだ。

それは知性を持つことの代償である。中途半端な知性だが。」

 

宗教は、心(マインド)が作ったものである。

そのため、何の疑問を感じることもなく

宗教を信奉する者も、心(マインド)に支配されている。

たまたまそうなっているのではなく

イルミナティ、爬虫類人は、心(マインド)の何たるか

いかにすれば人間を錯覚と認知の限界に閉じ込めることができるかを

知り尽くした上で、計画的にそうしたのである。

いったん閉じ込めてしまえば、人間は簡単に操作できるようになり

硬直的な信仰が互いに対立を生み

分断・支配が簡単にできるようになる。

 

政党、人種、所得階層などによる対立も同様である。

人間の相互作用のあらゆるレベルで、間違った自己認識

(これも一つの信仰の形態)同士が

互いに争うように仕向けられ、相互理解が阻止され

このバカバカしい状態を終わらせる意志も削がれるのである。

宗教は最初から我々を支配するために作られ

我々のエネルギーを吸い取るために作られたが

現在までのところ見事にその効果を発揮している。

自由になりたければ、宗教には関わらないほうがよい。

 

 

そして宗教は、自己監視をするようになり

恐怖のエネルギーを燃料として

放っておいても動き続ける永久運動機関となる。

我々自身が「神」であると言うことは罪とされ

その代わりに、取るに足らない生まれながらの犯罪人だと思わされ

「神」を畏怖(いふ)しなければならないと説教される。

敬虔(けいけん)でなければ(神を恐れなければ)ならないのだ。

 

爬虫類人とハイブリッド家系は、人々が心(マインド)を開き

無限の自己に接続することのないよう必死になっており

古代の秘教学派から伝わる秘教知識を捻じ曲げて宗教を作り出し

また、比喩やシンボルをそのまま本物と思わせることで

心(マインド)を監獄に閉じ込める宗教を作り出した。

神父、司祭、司教、教皇、ラビ、イマームや

アヤトラ(イスラム教の指導者)、バラモンと呼ばれている

僧服を着た警備員が、根源意識への入り口の扉を見張っている。

 

宗教では、「これしかない」という騙し方をする。

「彼を通じてのみ」とか「この方法のみ」

天国に行けるといった言い方である。

そして、それに従わなければ、天罰で地獄に落ちると脅迫する。

他者の意志に服従し、他者を崇拝する欲求は

爬虫類脳の特徴の一つであるが、これは、性格によっては

自らの意志を他者に押し付け、他者を支配する欲求として現れる。

この爬虫類脳の両面は、宗教というトップダウン

上意下達(じょういかたつ)型のピラミッド組織にピッタリと符号する。

無知と、システムに抵抗した場合の影響を思い知ることで

医者、政治家、学者、教師、ジャーナリストは皆

一定の枠にはめ込まれているが、これこそが反抗的な者に対する

恐ろしい脅迫の度合いを強めながら宗教が機能する仕組みである。

 

信者の信念体系は、恐怖と罪悪感

ときには暴力によって厳密に監視される。

熱狂的な信者には、知性のかけらもなく、本当に狂った者もおり

自ら選んだ監獄が指令する硬直的でバカげた信仰に

反逆したという理由で、自分で自分の家族を殺すこともある。

さまざまな名称と教義の背後に隠れた爬虫類人の

世界宗教の歴史の全体を通じて、戦争、異端審問、集団虐殺

家族や社会の崩壊といったおぞましいことが起きていた。

 

群れ心理の信者集団が互いに対立し

どちらに「真理」があるかを巡って口論・戦闘している。

少数者が多数を支配するために不可欠な

分断・支配を推進するため、信者は

無信仰者や異教徒と対立するように仕向けられている。

本来人々を解放するはずの秘教知識のことを

「悪魔」とさえ言って怖がらせ、否定するように仕向けている。

 

 

ニューエイジ信仰は

主流の宗教から非難されているが、宗教には変わりない。

新しい政治形態だと主張しつつも

旧来の政治と変わらない緑の党と似たようなものである。

私はニューエイジのことを

「金鉱を目前にした袋小路」と呼んでいる。

型通りの宗教を拒絶し、心(マインド)を打ち破って

根源意識につながりかねない危険な人々を

待ち構えて捕獲するために存在しているのだ。

 

ニューエイジは、我々は一体であり、死はなく

創造物は異なる密度(周波数帯域)から構成されていると主張している。

つまり、人間の知覚の目を塞いでいたヴェールを見透かして

真実に近付きすぎている人々であるが

それがさらに

根源意識へと進展しないように罠が仕掛けられたのである。

 

ニューエイジが、工作された

「花の力(フラワー・チルドレン)」

の時代から登場したのは、1960~70年代のことだった。

軍や諜報機関の家柄から

異常なまでにたくさんの有名なミュージシャンが出現し

「自由恋愛」と「ヒッピーの反抗」の時代を築いては盛り上げた。

 

その一例が、ドアーズ(アメリカのロック・グループ)の

リードボーカルをしていた故ジム・モリソンである。

彼の父は、1964年にベトナムのトンキン湾で米国艦隊を指揮した

ジョージ・スティーブン・モリソン提督である。

この艦隊は

北ベトナムから攻撃を受けたと主張していたが、それは事実無根だった。

リンドン・ジョンソン大統領は

この嘘を口実にしてベトナム戦争を拡大し

その結果、大量の死者と破壊が発生した。

その当時、モリソン提督の艦隊の上を飛んでいた飛行士の一人で

飛行中隊の指揮官だったジェイムズ・ストックデイルは

1984年の「愛と戦争」という本でこう述べている。

 

「(私は)その事件を目撃するのに最高の場所にいた。

我がほうの駆逐艦は仮想標的に向けて射撃していただけだった。

(北ベトナムの)船舶はなかった。(略)

黒い水とアメリカの砲撃以外には何もなかった。」

 

これも

「ノー・プロブレム→リアクション→ソリューション」

の一例であり、空想に過ぎなかった。

「花の力」の時代全体が創作された空想であったが

それは精神を変容させる麻薬の流通と大いに関係していた。

それは「そこに」ある世界を経験するために使用されたのではなく

日常生活の一部だった。

「花の力」は、反戦運動をハイジャックし

反戦運動の潜在的な力を希薄化し、脇道にそらす目的で策謀された。

 

 

このヒッピー世代から生まれたニューエイジ運動は

ヘンリー・キッシンジャーなどの主だった

イルミナティの内部者の舞台裏の努力で拡大した。

これは、その当時

キッシンジャーの近くにいた人物から私が確認したことで

本当に目覚めつつあった人々の心(マインド)を捕獲するために

新しい宗教の創造を求めていたことを考えると、辻褄が合っている。

 

一時ビートルズの教祖的存在だった

マハリシ・マヘッシ・ヨギのような

「東洋」の神秘的な詐欺師を西洋に引っ張り出して

関心を持たせ、ニューエイジの拡大に燃料を注いだ。

まもなく「覚醒」したニューエイジ信者は

その袋小路の悟りの中で

崇拝対象となる新しい教祖と神々を発見していた。

 

いわゆる「ニューエイジ」の中には

本物の人々も多く存在するが、詐欺師、夢想家

ただ単に誤誘導するために設置された人物も

うじゃうじゃとあふれていた。

この偽りの自由に大勢の人が騙され、服装に至るまで染まっていた。

ニューエイジは独自性を表現する権利を基本としていたはずだが

100ヤード離れていても着ているものを見るだけで

ニューエイジ信者だと識別できる状態だった。

何を着ようが人の自由であるが

事実上の「制服」のようなものを着ることと

独自性を祝福する思想を折り合わせることは困難である。

 

「ニューエイジ」は明らかに「ニュー」ではなく

古い宗教と同じプログラムに従う宗教に過ぎなかった。

表向きの見かけの無秩序さは

それが昔ながらの宗教に支えされているという実態を覆い隠していた。

あらゆる宗教と違わず、ニューエイジは

何か(誰か)を崇拝することを基盤としており

信者は自らをその一部ではなくそれより劣った存在に見ていた。

「みんな一つ」になるとか、「自分の力を取り戻せ」

といった宣伝文句をよく耳にする。

だが、私が知る限り、ニューエイジの究極の目的はそうではなく

しばしば究極以下の目的でもない。

人々は、教祖や神を歓喜して崇拝し、エネルギーを捧げている。

 

ニューエイジには

「サナンダ」という独特のイエスまで存在する。

彼らは

キリスト教ではイエスのことを誤解していると言っている。

実は彼は、我々が崇拝・献身すべき「昇天した指導者」の

「偉大なるホワイト・ブラザーフッド」を率いる光であるという。

「献身」しなければならないのだ。

 

ニューエイジのサナンダ(イエス)は

キリスト教のイエスにそっくりである。

何という偶然だろう。

聖書にはイエスがどんな風貌をしていたか

その名にふさわしい描写がなく、誰も知らないにもかかわらず

どうしてこうなっているのだろうか?

イエスが生きていたとされる時代より1000年も後に

画家たちが想像して描いたものが

典型的なイエスのイメージになっているが

さらにニューエイジでも実質的に同じ姿となって現わている。

 

カリスマには要注意