ルカによる福音書12章51節でイエスが

「あなたがたは、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。

そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」と述べている

 

・・・らしい

イエスも神聖化されてしまってるから

福音書にこう書いてあっても信者はスルーか

よく読んでないんだろうな

イエス・キリストが生まれる前から

世界中、同じような神話があるらしく

そう思うと、聖徳太子の存在すら怪しい

イエス・キリストはその当時、実在しないと

それはアイクの「大いなる秘密」で知ったけど

20年前くらいに図書館で借りて読んだ当時は

全然知識が追いつかず、今もう1回読みたいけど

図書館にはもうアイクの本すべて無い

この本、古本屋でもなかなか売ってなく入手できない

ネットでは買えそうだけど

ネット決済が嫌なので買わない

 

それなので、文章を書いているブログを見つけた

 

 

以下7巻より

 

アナスタシアへ向けられる主な非難は

彼女が邪教徒、つまり多神教だということにあった。

(キリスト教文化圏において多神教は

異教ではなく邪教とされ野蛮なものという認識が強い)

また、彼女のアイディアは、何の証拠もなく

詳しい検証もされていない、ただのタイガの女世捨て人が

引っ張り出したきたものであると非難されている。

アナスタシアは、はっきりと自分は

ヴェドルシア人だと言っているにもかかわらずだ。

 

では彼女が多神教徒だとしたらどうだと言うのだ?

日本など、今でも多神教国家と言っても過言ではない。

ローマ帝国だって繁栄していた時代は多神教だった。

我々先祖の父や母も多神教だった。

さらに、単に多神教の人々がいただけではないのだ。

エジプト国家やローマ帝国をしてルーシでも

繁栄していた時代には、ヴェディズムの文化が残っていたのだ。

 

では我々は、自分たちの多神教の歴史

自分たちの起源を恥じるべきなのか

それとも誇るべきなのか?

我々は、恥じるべきだと吹き込まれている。

「多神教」「多神教徒」という言葉は

「邪教」を意味し、何か悪いこと

おぞましいことを象徴する言葉となってしまった。

そして「キリスト教徒」という言葉も象徴的となったが

こちらは精神的、秩序正しさ、聡明さ

神へ近づくことを象徴するものとなった。

 

今日、私たちはキリスト教徒という部類の人々を観察することができる。

つまり彼らの行為の結果から

彼らが成し遂げたことを判断できるのである。

そして、多神教だった先祖たちの生き方と

今日のキリスト教社会の生き方を比べ

判断することができるのだ。

いや、判断することなんかできやしない!

これほどけなされている多神教徒だった先祖の

父や母の生き方と、比べる術がないのだから。

彼らの生き方は、私たちが見ることができないよう

覆い隠されてしまっているのだ。

 

結局のところ

私たちにどうぞとささげられている国の歴史は

私たちを次のように洗脳している。

私たちの先祖はどこかおぞましい邪悪な人々であったが

イスラエルからやってきた啓発者たちが

洗練された思想であるキリスト教を持ち込んだ。

ロシアのウラジーミル一世がそれを採用し

ルーシ全土に洗礼を施した。

最近、私たちはこのルーシの洗礼の一千年記念を祝った。

しかし一千年が何だというのか?

何十億年もの歴史からすれば一瞬だ。