文系理系論争 | 率直な意見。

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まず、理系と文系を二元論的に評する人。彼らは文系、理系を問わず無能。文系と理系は対立軸にならない。無能な文系と無能な理系の間の対立は文系と理系の対立ではない。単に無能同士が対立しているに過ぎない。
次に理系と文系の最も大きな違い、誤解は、理系は絶対的な真理を追求する学問で、同一条件下では同じ設問に同じ答えが出るのが当然。一方文系は大きな括りでは同一条件下では同じ設問に同じ答えの傾向が出がちであるというだけで、多種多様な解釈が存在する、ということ。特に国語は似た本文と似た問題文なのに、出題者が変われば答えも変わるのが当然なのだ。
理系に多い誤解は、特に国語に絶対的に正しい答えがあると思ってしまっているところ。マニュアル的に考えても国語のテストには役立たない。国語のテストは出題者が本文をどう理解しているかを答えるもの。問題文が本質的にどういう意味か考えても正しい答えに至らない、というところに注意してもらいたい。何が書かれているか、ではなく、どう解釈されたか、を答えるものなのだ。出題者の多くはバカだったり、偏っていたりするので、彼ら出題者のバカさ、偏向度を正しく読み解くのが国語のテストなのである。
回答の手掛かりは3つ。数ある書籍の中から出題者がそれを選び出した理由、そしてその書籍からわざわざ出題文としてその部分を選び出した理由。その部分に対してその問題文が作られた理由。出題者が選んだ文章で、出題者がどういうコンプレックスを抱えて生きて来たのか、まず大雑把に理解する。頭の中に気の毒な出題者のイメージをモヤモヤと持つことが重要だ。次に問題文を見て、彼が選んだ文章が彼のコンプレックスをどのように掻き立て、問題文がどう鎮めてくれたかを想像する。本文を書いた人のイメージは完全に捨てる必要がある。その本文がどういう意図で書かれたかのイメージも持ってはいけない。そういうイメージは出題者の歪んだ人間性をわずかでも誤解してしまう元となる。
出題者は採点の際、本文の本来の書かれた意図を汲んで考えられた回答にバツをつけることで、お前は俺の理解者ではない、お前には罰を下す、と陰湿に八つ当たりしたい。一方、正解者には、お前は可愛い奴だ、俺を正しく理解している、お前には得点をやろう、と考えている。だから彼のそういう邪悪な気持ちに対して、彼を矯正するのではなく、彼を幻想の中で気持ち良くさせてあげることだけを考える。そうすると国語のテストで良い点が取れる。
文系理系の話から随分逸れたが、これだけは言える。文系でも国語の点数が低い奴は空気が読めない。理系でも国語の点数が高い奴はコミュ力が高い。文系と理系の論争は国語の点数が低い文系と理系の間で発生し激化する。問題は文系理系ではなく、双方相手への理解力が低く、低いがゆえに彼のこれまでの人生の中で引き起こされた数々の悲劇、そしてその悲劇に起因する彼自身のコンプレックスを、その悲劇やコンプレックスとは無関係の論争相手を貶めることで癒そうとするところから発している。単純に空気が読めないからひどい目に遭った同士が文系理系に分かれて戦い、相手を傷付けて仕返ししようとしているのが文系理系論争なのだ。
文系も理系も、学校、会社、部門、地位それぞれの現状と将来像の相関の中で自らの存在価値、周囲の自分に対するニーズを作り出し、それに応えることで自他に利益を作ることが必要であり、かつ求められる。しかし文系理系二元論者は周囲の思惑に無頓着、かつ指示待ちで口を開けているだけで自主的に役割が果たせない、ともすれば役割を拒絶する。期待される役割には、明示的に示された最小限のことしかしない、できない。または納期はギリギリか遅れる、見当違いのことをしでかす、行為の質は自分だけの目先の効率を極度に重視して面倒だが丁寧なことを避ける。さらに結果に文句を言われると、問題を指示の至らなさに帰そうとする。自分だけでできることは最低限何とかなるが、他人を巻き込むことは、自分にとって苦手な人がいると逃げるだけ逃げ、最後に逆ギレして放り出す、こんなことが起こりがちである。
理系が時にバカと呼ばれるのは、絶対的な真理だけを見て相対的な価値に鈍感だから。逆に文系は相対的な価値を重視するあまりに絶対的真理を無視、軽視し、本質をかえりみない。問題は文系理系には無い。絶対的真理と相対的価値の双方を認め、それらのバランスを周囲の人々がそれぞれどう取っているか、その中で自分はどう判断し、どう振る舞い、どう危険を回避し、保険を掛けながら、結果としてのあるべき姿を実現するかを常に自問自答するべきだ。文系は相対的価値に軸足を置きつつ絶対的真理を外さない。理系は絶対的真理を認識しながら、相対的価値との折り合いを常に考える。
だから賢明な文系と理系の間では論争ではなく、落とし所の議論だけが存在する。