私は今年、52歳になります。

やはり50歳を過ぎると、私も世間並みに…

体に老いを感じたり、不具合を感じたりすることが度々あります。

そして私は仕事柄…

50代で進行癌が見つかったりして、志半ばで亡くなっていく人なんかも…しょっちゅう目にしている訳です。

そんな日々を送りながら…

可愛いあなたを育てていると、比較的頻繁に考えることがあるのです。

じゃあ果たして、それが何なのかといえば…

「あなたが精神的に私を必要としなくなるその日までは、何とか生き延びてあなたのそばにいたい」

ということに他なりません。

なぜなら…

まだ自我の形成されていないあなた…

そんな今のあなたにとっての「善」…というものを考えた時

そこには必ず、あなたのお母さんや私の存在というものがセットになっているはずだからなのです。

つまり今のところは、あなたのお母さんも私も…あなたにとっては決して欠かすことの出来ないパーツである。

つまりはそういうことになりましょう。

だって…

あなたのお母さんは常日頃から、多少の厳しさと、その裏にある愛情を惜しみなくあなたへと注いでいますし…

私は常日頃から、厳しさなど皆無の、愛しさと慈しみだけが込められた眼差しを絶え間なくあなたへと注いでいますし…

そして…

そういう環境が永遠に続くことに対して、全く疑念を抱く余地もないあなたが…

あくまでもそんな心地よい環境の中で、自分自身のやりたいと思うことを心置きなくやり続けること…

それこそが、今のあなたにとっての「善」な訳ですから。

そして私は…兎にも角にも

こういった形を持つ、あなたにとっての「善」というものを…これからも可能な限り守り続けていきたいと、心の底から願わざるを得ません。

ただ…

いずれあなたにも自我というものが芽生えてきて、徐々にそれが明確な形を持つようになってくると…

今と比べて、その「善」の形が全く異なったものに変化していくことは間違いないでしょう。

そしてそんな変革の時期を迎えたあなた…が所持する「善」にとっては…

おそらく…

私がそれまで注ぎ続けてきた、「愛しさや慈しみを込めた眼差し」というもの自体が…

無用の長物になってしまうことに間違いはないだろう…

そう思わざるを得ないのです。

というのも…

私は既にこのことを、あなたの兄二人を育てていく過程で十二分に体験してきたからです。

そう…

かつての私は、あなたの兄二人に対して…

大いなる厳しさと、愛と、慈しみと…これらをまさに惜しみなく注いできたつもりです。

しかし…今や彼らも、それらを必要とする時期などはとうに過ぎ去ってしまいました。

だからといって私は、このような…

まるでこの私自身の存在が不要になってしまったかのような…一見さみしげに思えてしまうような環境の変化であったとしても…

そこに私がさみしさを感じることなどは一切ありませんし…

むしろ逆に、私はそれに対して大きな悦びをおぼえてしまうくらいなのです。

なぜなら…このような変化によって私は

「あぁ、ついに俺のことを必要としなくなったんだ!」とか…

「これでもう、俺はいつ死んだとしても大丈夫なんだ!」とか…

彼らと私との、いわば「依存と庇護」の関係がついに終焉を迎え…とてつもなく重かった肩の荷が下りてホッとするという…

ある意味、解放感や達成感みたいなものが湧き出てくることを禁じ得ないからなのです。

そう…だからあなたの兄二人に関して言えば

もはや彼らの「善」にとって、私は「ほぼ」不要の存在になっていますから…

正直…

私自身もそのことを、心の底から喜ばしく思っているという訳です。

ただ難点として…彼らの「経済面」に目を向けてしまえば

残念ながらいまだに私の存在も、彼らにとっての必要不可欠な存在…から脱却出来ていない訳であって…

正確には解放されたとは言い切れないんですけどね…

まあまあ、それもあと一息という話でしょう。

さて…また話をあなたに戻して繰り返しますと

つまり私という存在が…

あなたの「善」にとって、特に精神面で不要となるその日までは…

何とか生き延びて、あなたのそばにいなければならない…

という結論になりましょうか。

ではここから、私がなぜそう思うのか?…という話をしていきましょう。

確かに…

「そんな…不要になるまでとかケチ臭いこと言わずに、生きられる限りはずっと生き延びてそばにいたらいいやん!」

あなたがそういうふうに思われるのも、無理のない話かもしれません。

でも…

今のあなたには分からないと思いますが、人間というのはいつか必ず死ぬものなのです。

まあ…そんなことは改めて言うまでもなく…

いわば至極当然の話なんですけど、この世にはこのことを全く理解していない人が信じられないくらい数多く存在するんですよねぇ。

本当にビックリするくらい…

そして…

それを理解していない親が、たとえ我が子のそばでどれだけ長い時間を過ごしたとしても…

結局その長い時間の中では…

我が子に何かしらの影響を与えることなんて不可能な話でしょうし…

そんな親から、子が何かしら重要な教訓を感得するなんていうことも…まあ、あり得ない話なのです。 

それはお互いが、「ただただ漫然と一緒にいただけ」という話に過ぎず…そこに魂のやりとりみたいなものは発生しません。

だから…やはり、親というものは

自分自身の命に限りがあることを常に自覚し…

自分自身の存在が、我が子の「善」にとって必要不可欠であるという…そんな貴重な時間、つまり自らの賞味期限みたいなものが、非常に短い限られたものであることを常に自覚し…

その、いつ終わるともしれない限りある時間の中で、半ば焦りすら感じながらも…

その時々で、自分自身に必要とされているものが果たして何なのかを常に考え…

一分一秒たりとも無駄にすることなく…

惜しみなく、絶え間なく、それらを我が子に注ぎ続けること。

つまりはそういう生き物なんだと、強く思うのです。

だから私は今、本当に焦っています。

まあ焦っても仕方ない話ではあるんですが…

そう…

あなたの「善」にとって私が必要でなくなるその日まで…何とか生き延びて、あなたのそばにいて

私があなたに注ぐべきだと信じるものを…

悔いなく最後まで注ぎ続けたいと…

最近はちょっと切なくなるくらい、そう思ってしまう私なのでした。

さて…話は変わって

あなたもきっと、小学校の音楽の授業で…

「グリーングリーン」

という曲を習ったことでしょう。

私はなぜか昔から、この曲の歌詞が頭にこびりついていて…

ことあるごとに、そのフレーズが頭に浮かんでくるのです。

特に、あなたの兄二人を育てている時なんて、この曲がしょっちゅう頭の中に流れてましたよ。

それはおそらく…

この曲の歌詞が、人生の本質を表しているからなのではないか…

私はそう思っています。

「ある日パパと二人で語り合ったさ この世に生きるよろこび そして悲しみのことを」

「その時パパが言ったさ 僕を胸に抱き つらく悲しい時にも ラララ泣くんじゃないと」

「その朝パパは出かけた 遠い旅路へ 二度と帰ってこないと ラララ僕にもわかった」

「やがて月日が過ぎゆき 僕は知るだろう パパの言ってた言葉の ラララ本当の意味を」

「いつか僕も子どもと 語り合うだろう この世に生きるよろこび そして悲しみのことを」

改めて抜粋してみても…この短い一曲の中に

子どもをつくり、慈しみながら育てること…

その子どもは親の影響を強く受けながら育ち、自らも大人になって子を持ったら…親から受け取ったものを我が子にも惜しみなく注ぐこと…

そして…

そうやって流れていく僕とパパのストーリーを常に…緑とか、青い空とか、太陽とか、虹とか、自然の摂理が包容している…という

いわば…

自然の摂理と、その中で血を繋いでいく人間たち…のお話

これは言ってしまえば当たり前の話なんだけど、今の世の中から確実に失われつつあるようなものたちを…

本当に過不足なく表現しているなぁ…と

毎度ついつい感心してしまうのでした。

まあ今の平和な日本では…

「パパが二度と帰ってこないような旅路に出てしまう」…みたいな

この「グリーングリーン」という曲は、父親が戦争に出征するというお話である…みたいに言われてますけど…

こんなドラマチックな離別のシーンなんて、現実にはそうそうないんでしょうし…もし現実にあるとすれば病死とか、そのくらいですかね。

それでもある意味…私が再三述べてきた

子どもの「善」にとって親の存在が必要でなくなるようなタイミング…というのはまさに

人生における「お別れ」のシーン…と言ってしまっても良いんじゃなかろうか…

たとえそれが実際の離別を意味する訳じゃなくとも…

私は心からそう思う訳です。

実際にあなたの兄二人を育てる過程においても…

「ああ、もうこれで君たちとはお別れだな」…そんなふうに思った時期があるのは事実です。

だからこそ…

私とあなたの、その「お別れ」の日が訪れるまで…

限りあるその貴重な時間を、決して無駄にすることなく…

ひたすらあなたのそばで過ごして行きたい…

そんなふうに思う今日この頃なのでした。

まあ結局…

あなたと私との、その精神的な「お別れ」の時期が訪れたとしても…

つまり私の存在が、あなたの「善」に影響を与えなくなってしまう時期が訪れたとしても…

きっと私は…

あなたに疎まれつつも…

何だかんだで、あなたのそばに居続けるのでしょうけどね…