風知風束(ふうちふうつか) 魂、精霊、風との対話

風知風束(ふうちふうつか) 魂、精霊、風との対話

霊性、祖霊、魂、精霊、生霊など見えない存在、植物、動物など言葉をもたない存在と対話して自分の役割(本質本性)を知り、風と対話してご縁の結び目を解くことで、この世あの世さらにはその向こう側の謎を解いていきます。

屁負比丘尼(へおいびくに)

意味:江戸時代、身分の高い人に仕え、主人が人前でうっかりオナラをしてしまった場合、私が「しました」と身代わりになって恥を肩代わりした尼僧のこと。


「身代わり」

似たようなことが現実に起きることがあります。これは一つの霊作であって、身代わりになってくれるのは身近な植物や昆虫です。私たち人間は気がついていませんが…恩恵でなく身代わりをしてもらっています。


彼らは身代わりをすることが彼らの生命活動の一部になっているようです。なのでタマゴ、タネ、個体数が多いのでしょうか?


植物や昆虫は仲間同士で身代わりをすることで生きる機会を確かなものにして子孫につないでいきます。一緒に羽化したきょうだい同士が助け、庇いあっています。


時に、食糧、環境が悪くなった時は共喰い、殺し合って個体数を減らして生き延びます。


生物のお互い様です。


一方、人間は自らを高等動物、霊長類(すべての動物の頂点に立つもの)と称するわりには「身代わり」ができません。できるとしても親子、あるいは戦場等特殊な状況下で見られる行動です。


その代わりに植物、昆虫が身代わりになってくれます。そのことを人間が知らなくても、感謝の言葉がなくても見返りは求めていません。


それは人間が生死の意味を知らず、神仏を見出だし、自分以外、種以外との隔たり、溝が深すぎるからです。まさに個人個人の壁が高すぎるのです。


なので人間はいつまでも天上界を創作しそこに神仏を住まわせています。こうした人間の中にあって日本人は天皇を戴き、皇統を守り続けることで民族としての塊を保ち、個人々の壁を低くして繫がっています。蜂、蟻に似てなくもないです。


一神教の信徒は、天上界を設け神を創作し、自分の言動に許しを乞う、自律できない様は未熟、未開と言っても言い過ぎではないと思います。


この現実でそれぞれが自律し、かつお互いに助け合う、庇い合うステージに移るのはいつのことやら気が遠くなります。情け無いです。


科学技術は人間が神を手放す高みへ運んでくれるでしょうか?


あの世界観は本来は死後の世界でなく、宗教観でもなく生命観です。人間が生命観としてあの世をとらえ、霊的状態(時空のつながり)を知ることで種としての生命活動に移行することが人間のとりあえずの目標です。


屁負比丘尼

人間が、自分の生命活動の中にこの言動が自然に出てくるようになった時、人間は人と人の間、人と動植物の間に何かを見出だし、何をするかを知って、生命活動の繫がりを結んだ時、神仏と人間の間に置かれている結界を取り除くことができるのではないでしょうか?


それなくして移民を受け入れることはあまりにも無防備です。


日本民族と移民の結界

縄文人は渡来人との間にある境をどうやって外したのでしょう?当時の渡来人は多くの学びを持ってやって来ました…高度な製鉄技術、風土に適した水田、多彩な織物、建築技術、そして馬。縄文人が容易に結界を取り除いたことが想像できます。


神仏は結界のポールを取り除くのではなく、より高く強固にしているようです。とりわけ一神教の結界は強固で異常です。そして他国のインフラをただ乗りして国盗りを目論んでいます。


とはいえ民族の境を無防備にはらうことは危険です。


我を捨てて群れで生きる蜂、蟻を参考に学びましょう。そうした彼らの一匹一匹の生命活動と種の生命活動の意味を知った時、人間は神仏を必要としなくなり、新たな結界を見出すことになります。


身代わり

あの世に行くとこの言動の意味が理解できますが、残念なことに再び生まれてくるときにはきれいさっぱり忘れてしまいます。


親の恩、夜降る雪で音もなく(星の王子様こと、五代目三遊亭圓楽)


身代わりと恩…


身代わりになってくれる尼僧がいても満員電車の中で屁をこくのは慎みましょうね。