相変わらずの氷点下と降り続く雪のせいで、なかなか春の足音聞こえてこない北海道ですが、世間では入学や卒業シーズンを迎えています。
ラジオから流れてくる、卒業にまつわる歌が流れてくると、数十年前の学生の頃の記憶がよみがえり、なんとなく切なくなります。
寂しさと期待が入り混じった、何ともいえないあの頃の感情は、不思議と今でも鮮明に覚えています。
さて、この“卒業”ですが、この言葉は現在の私にとって重要なキーワードとなっています。
JW組織と断絶した私ですが、これまでこの件を無意識に“リタイア”と見なし、どこか敗北感のようなものを感じていたような気がします。
その意識が常に働き、組織に対するわだかまりが消えないだけでなく、20年近くのJWとしての歩みがすべて無駄であり、まるでその期間の人生を台無しにしてしまったかのような気さえしていました。
そう考えないようにしていても、それを払拭するための納得する理由を見つけられなかったのです。
そんな折、ある方のブログを拝見していたのですが、ハッとさせられる記事に目が留まりました。
それは、桶のひとしずく さんの「組織を離れた後どうするか」という記事でした。
http://ameblo.jp/1-drop-in-the-tub/entry-11749786769.html
特に私に気付きのきっかけを与えてくれた一文を紹介させていただきます。
「卒業した学校を振り返ってみると、中には碌でもない先生や、いじめた級友たちもいるかもしれません。音楽や美術、体育などで衆目の中で恥をかいた嫌な思い出もあるかもしれません。振り返りたくもない思い出がたくさんあるかもしれません。しかし学校というところは本来勉学をする場所です。そこで真面目に真剣に一生懸命学習を積んだ人はそこで学んだこと自体はその後の人生に有益かと思います。本来の勉強が嫌で嫌でサボりまくって友人だけを目当てに学校に行く人もいますが、そういうのは人間関係が破たんすれば中退したりするものです。
JWをやめたといってもそこで開いた聖書の言葉(たとえそれが問題の多い新世界訳であったとしても)が全く心に訴えなかったとすればとても残念なことです。
しかし「卒業」ならば、どれほど嫌な先生や、級友がいても、そこでの内容をのちの生活で有意義に活用できるような仕方で習得したということになるのではないかと思います。」
この一文を読んで、私は、自分自身の実体験と重ね合わせました。
確かに、幻滅させらたことや傷つけられたことを数え上げれば、枚挙にいとまがない。
しかし、それと同じほど多くの良いものも得ていたという事実を見失っていた。
純粋に聖書そのものから学んだ知識や理解、さらには、それによって培えた人格や信仰は、これからも引き続き、私の人生や家族や周囲の人々に良い影響を及ぼし得る可能性を与えてくれました。
今の私は、組織から自由になれた上に、これまで学んできた聖書の知識がある。
そう考えると、これからの人生をいっそう素晴らしいものにしていこうと思えるようになりました。
ようやく私の心は春を迎えられたよう気がします。
最後になりましたが、この場を借りて、桶のひとしずく さんに感謝を申し上げます。
ありがとうございました。
