誓いって儚いものなのでしょうか。


先に結婚した友人や先輩が、結婚式の二次会に招かれたときに、左手薬指を外すのを、少し寂しく思っていたけれど、

男の人にしか埋めてもらえない隙間って、きっとあるんだろうと思います。

結婚しても、心のなかはそう変わらないのです。

満たされない思いを抱えたままならば、それを癒してくれる何かを求め続けます。

一生、一人だけを愛し続けることは、難しい。

こんな世の中。

心の拠り所は、体温をもって、あたたかい言葉を囁いてくれる誰かなのかもしれません。

その誰かの心のなかに、自分は映っていなくても、気づかないのです。

愛されないという思いは、愛されたいとねだる熱い渦になって、体を突き動かします。

もし年が若く美しければ、簡単に「成立」するわけです。


涙目でものをみて、それが何なのかを冷静に見極めることはできません。

でも、そんなこと関係がないのです。

気づきかけていても、見たくないのです。


本当は愛でもなんでもなく、自分には何の対価もない罠だと知っていても


そこに逃げ込むのが楽なのです。

計り知れない代償をはらわされると頭ではわかっていても


心の根のおくふかくまで、蝕んできた寂しさは、制御不能になるほど、体を心を乗っとり、「過ち」へと走らせるのです。


わかってほしいと泣きわめくようなことは、子供じみた行為なのかもしれません。


だけど、人は誰しも年を重ねてなお、そんな思いを燻らせているものです。

この世に生きる人は、どんな愛をもっていても、人のすべてを分かることはできません。

心の影に寄り添うことはできても、影を消してやることはできないのです。

癒しに至るには、その魂の持ち主が、蝕むものとの決別をしなくてはいけません。

影を見つめることです。


光の差す場所へ向かうには

自分で自分を愛し、理解し、慰めることしかできません。