久々にバイブルを読み返しています。
ちょうど一年前の懇談で
ミミが疲れてるって言われて
この本を読んだ記事。
この本は以前から知っていたけど
この本を求める時期が
どうしてこうも同じ12月半ばなんだろう。
本当に良い本なので、
みんな読んでほしいです。
図書館にありますよ。
1年ぶりに読むとまた違う発見も。
本の中で
「近すぎる親」と「遠すぎる親」が出てきて
私はどだからどうみても
「近すぎる親」なんです。
でもそれが去年読んだ時は
多分こっちだけど、こっちの要素もあるな〜
なんて思ってたんですよね。
自分のこと見えて無さすぎ。
私は常にミミには難しい、
ミミにはできないって
ミミのことを過小評価してるし
苦手な子とクラスを離してもらい
優しい先生を希望して
あなたに高校受験は大変だよと
【現実の加工】をしている。
今回の授業を受けていないことも
授業を受けていないことは知ってた
でも不登校ではなくなってることに
安堵して、見ないようにしてた(否認)
でも懇談で現実と向き合わされて
YouTubeばかり見てるミミに
【怒り】を体験している。
本に書かれている例文そのまんま。
本によると、
次に【困った】に移行するらしい。
そうそう、
最近困ってた。
このままでは私立中に行けないな
この子の将来どうなるんだろう
困ったな、って。
本来なら子どもが困るべきなのに
私が困ってる。
でもミミも、その困ってたなを
感じてます。
私の将来どうなるんだろう
ロクな大人になれないかも
中学どうしよう
私の不安がそのまま。
私は不安を打ち消すように
フリースクールでもいいし
障害者雇用でもいいし
って逃げ場を作って安心してる
本当はそこまで割り切れてない。
不登校だって
最初は受け入れられなかった
でも今はそこはまだ受け入れられてて
授業受けてないことも
将来の不安も
いつかもう少し受け入れられるように
なるのかな。
私はミミを過小評価して
困ってるふりをしながら
本当はいつまでも自分が守っていたい
自分の手元に置いておきたい
頼りないままでいてほしい
と思ってるのかもしれない。
何度か読んでるのに
ここに気付けたのは初めて。
とりあえず気付かなきゃ変わらないから
気付けて良かった。
自分の子どもは信じるに値する子だ
大事にするのに値する子だと信じるのです。
親から信じてもらえることこそが、
子どもにとって決定的に大切な
勇気の源になります。