Mさん 「はじめまして。僕は、和尚ラジニーシの弟子ではありませんが、和尚ラジニーシが愛と献身について語っているのをあるホームページで見つけましたので、よろしければ読んでみて下さい。・・・一見まったく無関心であるかのような〈存在〉も、じつは自分と違うものではない。自分は〈存在〉の一部だ、〈存在〉と有機的にひとつだ。花を咲かせている木も、自分と別のものではない。自分はその木に花咲き、そしてその木は自分の中で意識を持つ。海、砂、そして星々、それらはみな自分とひとつだ。自分は離れ小島ではない。自分はこの宇宙と有機的にひとつだ。宇宙のすべては自分の中にあり、自分のすべては宇宙の中にある。そのことを知り、感じ、覚らないかぎり、愛は心の状態とはならない。もしこのことを覚ったら、もはや『自分は誰かに愛されている』という私的な幻想を創り出す必要がない。もう『意味』はそこにあるので、たとえ誰にも愛されなかったとしても、その『意味』は失われない・・・」


Mさん 「・・・もはや恐れるようなことはなにもなくなる。死でさえもあなたを滅ぼすことがない。たとえ形態が滅びようと、身体が滅びようと、あなたが滅び去ることはけっしてない。なぜならあなたは〈存在〉だからだ。これこそが瞑想の中で起こることだ。瞑想の中であなたは〈存在〉の一部になる、<存在>のひとつの現れになる。そして『〈存在〉と私はひとつだ』と感じるようになる。あなたは歓迎されている。恐怖も死も存在しない。そしてあなたから愛が流れだす。その愛は努力ではない。愛するほかにはなにもできない。それはもう呼吸のようなものだ。内側深くであなたは愛を呼吸する。愛を吸っては吐き出す。あなたはただひたすら愛を吸い込んでは吐き出す。そして、あなたは自分が愛しているということさえ忘れてしまう。するとそれはもう献身となっている。それは究極の頂点であり、また究極の可能性だ・・・それはなんと呼んでもいい・・・」


有為 「Mさん、メッセージありがとうございます。貴方のメッセージの内容(ラジニーシ和尚の理解)は、私が理解している『存在そのものが愛である』と、導師からの紹介メッセージにある『全ての存在(創造物)との一体感こそが愛である』と言う事と、大体同じ内容のものだと感じましたが、どうでしょうか?・・・ラジニーシ和尚の説法?は、私も一時期大変素晴らしいと思い、学んでいた事も有りました。Mさん、今度は、貴方自身の認識・理解を学ばせて下さい!宜しくお願いします」


Mさん 「有為さん、読んで頂いてどうも有り難うございます。僕も導師さんの言っていることと和尚ラジニーシの言っていることはほとんど同じことを言っていると思います。それと、和尚の言っている瞑想(観照すること、ただ見ること)と想念観察もほとんど同じ事を言っていると思います。和尚のところではセラピーとか動的な瞑想とかいろいろ行われているようですが、それはたんに瞑想に入っていきやすくしているだけだと思います。(サニヤシンの方々、間違ってたらすみません)」


Mさん 「愛についての認識ですが、僕自身としては愛は後回しにしたいと思っています。『全ての存在(創造物)との一体感こそが愛である』わけですから、まず、存在(創造物)との一体感を感じられるようになりたいと思っています。そうすれば愛は自然と現れるのではないでしょうか?、それで、なるべく早く『<存在>と自分はひとつである』と感じられるようになりたいと思って、最近、瞑想(想念観察)のまねごとを始めたばかりですが、チョットいやな事があって早くも挫折しているところです。先は長いというのに。たぶん今生中には<存在>との一体感は感じられないかもしれませんが、少し落ち着いてきたら少しずつ始めようかなと思っています」


有為 「Mさん、メッセージありがとうございます。・・・『一体感こそが愛である』これは逆に『愛こそが一体感である』という意味でも有ると思います。一体感が先か、愛が先か?・・・これは同時進行(バランス)であるべきものだと思います。ですから、最初から究極の愛を掴もうとするのではなく、自然を観察していても何がしかの愛を見つける事も出来るでしょうし、自分の周り(他人や自己に起こってくる事象など)を観察する事でも、そして自己を観察していても何がしかの愛を見つける事が出来ると思います。そして、それら全ての事象を観察し、小さな愛を見つけて行く事により(全ての中に愛が有ったのだと言う気付き)、少しづつ一つづつ一体感と言うものが体感されて行く事で、もう一つ大きな愛に気付き体感(理解)されて行くものではないでしょうか。・・・・・と、現時点での私くしめは理解して居りまするがMさんはどう考えられますか?」


有為 「それと、想念観察ですが・・・。
>チョットいやな事があって早くも挫折しているところです
挫折する必要はないのです。それどころか、自分にとっていやな事、つらい事、腹が立つ事などが有った時ほど想念観察のチャンスなのです。その時にドンドン湧いてくる、そして流れて行く想念(自己保存・自己正当・自己卑下・反省・感情などなど)を一歩引いた目でただただ観察(静観)するのです。・・・そして、ドンドン流して行けば良いのです(自己の想念を楽しんで学ぶ)。・・・と、これが、私が理解し実践している『想念観察』なのですが、どうでしょう?(詳細は問答集No7.「想念観察について」に有ります)・・・勿論、これは私自身の理解ですので貴方に押し付けるつもりは有りませんョ。(参考にするも流すも貴方の自由ですから)MさんにはMさんの理解があるのですからネ!メッセージありがとうございました。感謝感謝!!」


Mさん 「何か書こうかなと思っていましたが、いろいろ考えている内に考えがまとまらなくなってきました/(-_-)\ ので、ちょっと休むことにします。(*^_^*)どうも、すみません。」




 上の記事は、私の旧HPの掲示板へ書き込みをして下さったMさん(男性)のメッセージ(1999年10月分)です。ありがとうございました!!