S2さん 「はじめまして偶然やってきました。某宗教をやっているS2と申します。とってもおもしろいページですね。愛のために生きる・・・自分がボロボロになって死んでしまったとしても、他人のためになって他人の悩みを解決できる人になりたいなぁと思っています。自己を犠牲にできることが愛なのかな??」
有為 「ようこそ、S2さん。大歓迎です!!偶然では有りませんよ。お互いの潜在意識下ではチャ~ント約束し合い・計画されて、ちょうど良いタイミングでもって出会いは成就されるのです。・・・な~んて現在の私は理解しています。・・・『愛』についてのメッセージ有難う御座いました。実は、現時点での私の認識・理解の中では『自己犠牲』と言うものについては既に消化・消滅していたことなのです(HP問答集を読んで頂ければ判ると思いますが)。・・・しかし!!ここに来て、このタイミングでS2さんと出会い、『自己犠牲』というテーマが与えられたという事は、私にとって再認識・再確認が必要であり又、新たなる学びのチャンスなのだろう事を気付かせて頂いたと言う事だと思うのです。感謝・感謝!!・・・と、言う事ですのでS2さん、是非貴方の認識・理解の続きを学ばせて下さい。」
S1さん 「S2さんの《自己を犠牲にできることが愛なのかな??》・・・私は、これは見ている面が違うと思います。他人のためになったかとか、自己を犠牲にしたかは、関係ないと思います。その行為が、無条件の愛で行われたかどうか。これに尽きると思います。たとえ自己を犠牲にしても、たとえば、死んだ後の天国での自分の安泰のためと言う見返りが気持ちの中に在れば、それは、本当の愛ではないと思います。無条件の愛は、一見自己犠牲に見えますが、私は、それは関係ないと思います。」
Gさん 「自己犠牲ってそれは『自分を殺して何かの為に・・・』っていう考えでしょ。よくよく考えてみようよ。自分を殺しちゃったら(否定したら、裁いたら)なんにもならないよ。自分だけが苦しくなるだけ。『なんで助けてくれないんだ~!』っていってきたら、ただ一言、『しかたがないよ、自業自得だから・・・』ってね。文句たれじゃこれから自立もできやしないんだから。」
有為 「私は自分に起こって来る現実・出会いは自らの無意識レベルにより現時点での自己の学びの為に引き寄せたものだと理解していますので、S2さんの『自己犠牲』のメッセージは皆さんが否定するような表面的なものではなく、もっと深い意味合いが有るのでは・・・と思い考えていました。私の中ではまだ、これと言った解答は掴んでおりませんが、皆さんも自分の理解は一時横に置いといて、多角的に(例えば、自己犠牲を肯定する立場など)色々な角度(立場)から観察・熟考し、自問自答してみてはいかがでしょうか?・・・そんなことは無意味でしょうか?」
Kさん 「皆様はじめまして。私としては自己犠牲的といわれるような人のためになることをしたいと思う心が愛だとおもいます。でも、自分がいかなる状況に置かれても、愛を捨てずにいる自信は全くありません。また愛だけで、はたして生きて行けるのか疑問で日々考えています。参考になりそうな所なので、また来ますヨロしくね♪」
Gさん 「人の役にたちたい!僕もそう思う。でもね、ときとしてそれが苦痛となることならば問題があるのじゃないだろうか?これまで、自己犠牲および愛という概念について皆さん意見を提案してこられてきていますので、ちょっと違い概念を提案したと思います。”人のためになる事をやる”=”自分のしたい事をする”(1) ”人のためになる事をやる”=”自分のしたくない事をする”(2)・・・これまでの自己犠牲って、ことばのとおり”自分を犠牲にする行為”ってことでしょ、これは(2)の条件に一致するのでは?(純粋にしたいとしたくないと考えて) (1)ではなんら問題は生じないし、生じるとしたら(2)になる。」
Gさん 「自分のしたくない事を理屈で誤魔化してそれって幸せ?この世には不幸な人が、障害を持った人がいる。”かわいそうだから””困ってそうだから”する事が美しい?ホントに?単に自分の自我(エゴ)満足がしたい(俺が上でお前は下、おれは豊かでお前は貧しい、上下をつくって差を楽しむ?)からしてたらそれこそ極楽とんぼの後の魔釣り。どうしようもない勘違い。だって自分が満足にしたい事をしていなかったらどうして、他の人を助ける事ができるの?普通に考えてみようよ。自分が”自立すること”それが自分助けであり、人助けとなる。きっとできるよ、自分のしたい事が直接相手のしてほしい事に、お互いの交換して満たし愛。それが必然。」
Gさん 「『見たら信じる』と『信じたら見える』について・・・世の中、良く出来たもので(笑)、『信じたら見える』ですね、ほんと。実際人間は『信じた』ものしか見ていないのですが(またまた笑)。この道(真理を求め、それに基づいて生きていこうとする、今までとは違う新しい生き方)は、まさに『信じたら、見える』ものだと感じます。どこかで不安になる時、迷う時は、このことばを思い出して頂くと有り難いです。」
Kさん 「Gさんの前の書き込みで自己犠牲について、色々考える事が出来ました。有難うございます。『信じたら見える』とは、まさにその通りだとおもいます。孫子や韓非子などの書物を読んでいて、そのような教えばかりを信じていれば、世の中はそのようにしか見えませんものね。私の場合、未熟でして信じて 見ようとしても、見えないから 信じられない信じてもいいのだろうか?という思考に落ちやすいのです。火に焼かれても『心頭滅却すれば 火もおのずから涼し』といえるような境地に達することができれば、変るかもしれませんが。」
Gさん 「よくありがちな『信じてもいいのですか?』や『これで正しいのですか?』・『どっちが正しいのか?』っていうやつですね。最近は減りましたが、昔はよくはまりました(笑)。『信じてもいいのだろうか?』という問いに対しては自分に対して『いいんだよ』です。『これは正しいのだろうか?』には『正しいのだよ』わかります?つまり、『己の選択に対して責任があるのは自分だけ』ということです。社会ではよく責任転嫁、責任追求をやりますが、実際は、『自分で考え、自分で行動する』のは自分です。例え、『上司がやれといったから』やるにしても、『したくないけどしなければいけないから』やるにしても、自分がするんでしょ?信じることも例外じゃないです。どのようなことが起きるかわからない、見えないから恐いのであって、(というより、実際次の瞬間に何が起こるかは想像している段階では、決まっていないんですけどね)そういう怖れを、責任逃れをやめたとき、はじめて『信じる』ことになります。『信じたことに基づく行動の結果はどうなってもいい!』諦めでは有りません、任すのです。」
Gさん 「『形がなる』と『形にする』このどちらが正しい、あるべき姿か解ればこの心境は容易に達せることができます。あと、迷い(これまたよくしますね、ほんと)は、『自分が正しいと感じるものが2つ以上出てきた時』に起こる現象です、いわゆる混乱(con fusion)です。真実はつねに自分と共に、自分の中にあることを知っておいて下さい。自分の外にあるように見えますが、実は、本当の事を自分は知っているのです。何が正しくて、何が本当なのか?ただ、誤魔化したり、否定したりすると、曇って見えなくなりますけど。自分がその時その瞬間に一番妥当だ、納得する、これだ!というのが答えです(自分にとっての)。もっと単純なのは『やってみればわかる」のです。そう、とどまる必要はないのです。想像していても体験しなければあなたの財産にはなりません。望むものと違うのなら、選択し直せばいいのです。ただそれだけです。最初は恐くてもどんどんおもしろくなる、それがこの道。」
有為 「Kさんの《信じて 見ようとしても、見えないから 信じられない信じてもいいのだろうか?という思考に落ちやすいのです》・・・それで良いのではないでしょうか。あるがままです!迷い・困惑・不安、大いにやりましょうよ!日常のその瞬間瞬間の自己の想念の流れ・移り変わりを全て受け入れ、歓迎してあげて下さい。・・・そして、その想念をじっくりと観察して見て下さい。・・・自己の何かを学べると思いますョ。・・・そして後はキッパリと流せば良いのです。(どんどん湧いては流れて行く想念を楽しみましょう)宇宙はバランスで成り立っています。プラスが有ればマイナスが有り、ポジティブが有ればネガティブが有りと・・・このバランス的波形により、宇宙(全てのもの)は進化して行くのです。(螺旋的進化のメカニズム)迷い・疑問は進化へ繋がり、確信は停滞へ繋がり易いのです。迷いバンザイ!!・・・な~んてことを現時点での私は理解しておりますが・・・これ信じてもいいのだろうか???」
※ 上の記事は、私の旧HPの掲示板へ書き込みをして下さったS1さん・S2さん・Gさん・Kさん(全て男性)のメッセージ(1999年10月分)です。ありがとうございました!!(問答集No.12「愛について(特別篇)」の追加分でもあります)