相手がどういう風に思っているか、どう考えているか、を知るのは、
簡単ではない。
相手本人が、説明をしていも、
自分なりに解釈をしてしまうものだ。
というか、
“簡単ではない”と、表現してしまうことで、
「知るのが可能である」と思ってしまう前提自体が、
情けなくも、恥ずかしいことなんだと思う。
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信者さんの離教理由、
これを知ることは、
現信者さんたちにとって、実はものすごい重要なことだと思う。
しかしこれは、ことの他、かなり軽視されている気がする。
教会活動に、
熱心に見えなくても、
ぼーっとしているように見えても、
適当に見えても、
その人の内面はわからない。
だれもが、何らかの動機をもって、
信仰したり、協会に属しているのだから、
それを辞める、という、
その理由を知ることは、
信仰を続ける立場の方たち、
少なくとも責任者や伝道活動をする人々は、
追求していかなくてはならないのではないだろうか。
私のブログを現役信者さんが読んでいてくれたら嬉しいが、
ぜひ、千差万別にある、離教者の理由を、
一つでも多く知ってほしいと思う。
文先生をメシアであると証明したいのならば、
教会を本当に発展させたい、
伝道して人を増やしたい、と願うのならば、
本当に、しつこいくらい研究してほしいと思う。
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教会からの、現役信者への、「献金」「行事への参加」などの要請は、
脅迫めいているほど、
執拗で、拒否が困難である。
しかし、一端、「辞めます」と言い切ると、
それらは、あっさりとなくなる。
「あっさり」とまでは、言いすぎだろうか。
でも、私の一個人の体験では、
「あっさり」で間違いないと思う。
これら、協会側の態度の変貌は、
だれか一個人の話というよりは、
教会の雰囲気というのか、集合意識とでも表現するのか、
結構、似たような体験をされている方も多いようなので、
教会のもっている雰囲気がなせる業ではないのかと、
個人的には思っている。
そして、辞めた動機追求も、非常にあっさりしている。
1.文先生がメシアでないと思ったか、
2.原理が本当ではないと思ったか、
3.教会に行くのが面倒になったのか、
4.献金を出すのがいやになったのか、
ここら辺、多分どの理由を選んでも、
忘れられてしまうのではないかという疑念がある。
ただ、
分派に移ってしまった、
文先生のご子息の、だれか本家ではない人の教会に行ってしまった、
教会以外の人と駆け落ちしてしまった、
ここら辺の「世俗的な」動機で離教したら、
結構、噂になったり、説得されたりするのかも・・・
と、思ったりもする。
うーん・・・ あいたい
より「世俗的話題」で「相対」してくるとは、教会も・・・・・(・∀・)
分派云々というのは、
私の感覚からいくと、
すべての宗教を統一して、宗教と科学の統一を為して、
地上世界と霊界を統一して、という理想を掲げている教会からすると、
日本を良くしていくための政治が、
与党VS野党の構図で、
肝心の議論すべきテーマを差し置いていることと、
かなりだぶって見えるわけです。
とはいえ、分派に行ったら、
離教理由としては、話題になるか?という記述は、
私の根拠なき、単なる憶測の範囲でしかありません。(*v.v)。
しかし「1.~4.」に関しての、
離教動機について、細かく関知しないというのは、
私の体験上から言って、本当のように思う。
「あれ、パープルさん、最近なんで教会来ないのかしらねえ?」
「献金摂理でつまずいたんじゃない」
なんて具合に・・・。
過去にも書いている内容だが、
私が、文先生を「天宙のメシアとは考えられない」と話をし、
「原理も真理とは思えない」と話をした、
近所の先輩教会員が、
「教会に行かなくなっても、子どもたち2世は、2世として、
大事に育ててね」と、
何度も私に話す。
1,2度、
「いや、文先生がメシアと考えないのならば、
2世という概念はないんです」と答えたが、
どうも、その人は、
忘れてしまうのか?
人の話を聞いていないのか?
それとも、私が、魔がさして、文先生をメシアでないと口走ってしまったと思いたいのか?
度々、
「礼拝に行かなくなったとしても、
2世として、きちんと教育をしないといけない」という話をしていた。
また、ある婦人も、
私と話をするときに、
度々、「○○政権は協会側よ」「共産圏はサタンだから」などと、
教会内では通用する話を自然にしてくる。
信仰をもたない人がいる、
その考えを真っ向から否定している人がいる、と理解したら、
その話題を出すのに、躊躇がいると思う。
でもそうではないのだから、
私の雰囲気も、
どこか「教会員」なんだろうとも、思う。
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そして、
やはり、
人の話を聴き、それを理解するのは簡単なことではないのだと、
改めて思う。