先日、塾の面談に出かけた。



毎度、お話好きな先生だが、

今回は、私からの相談したい旨があると申し出をしていたので、


ひどく気にかかったが、


毎度よろしく、今回も先生の方が、7割は話していたと思う。


私は、大人しく見えるようだが、

しかし無口や寡黙な人間と言われたことはなく、


よく喋るね、話題が途切れないね、というような評価が多いと思う。



しかし。



7割・・・半分以上、相談を受ける側の人が話をしていて、

相談者のニーズが掴めるのだろうか?



辟易としてしまう。




そして、

学習塾の先生のお子さんは、非常に優秀なのだ。


学習塾に通わせているから優秀なのか、

優秀だから、学習塾できちんと学習できるのか、


という話だが、



私は、後者の割合のなせる業が、はるかに大きいように思う。



学習塾に万能はないと思うからだ。



でも、

先生は、かなりの高いパーセンテージで、

塾のお陰で、今のお子さんのようになっていると思っている。

また、先生自身が、

読み聞かせなど、

お子さんにかける手間隙を惜しんで来なかったから、

お子さんが優秀になっているという自負が、

ちらほら見え隠れする。




だから、

私からの、塾に通う日数を減らしたい、という申し出は、


1度では通らない。


今回も、2度目の話で、

やはり私が負けてしまった。




前回も、同様のやり取りがあった。



そのときは、今回の話をした子どもの兄のケースだったが、

私からの2回目の申し出において、


私が、「もうムリです、塾をやめます」と言うと、


先生は、


「もったいないですねえ。

辞めるのは了解しましたが、

今の塾程度の勉強で頑張れないなら、

大学受験とか、この先、もっとむずかしいですよ」というような話をして来た。




この手の話は、よく聞く。



塾や習い事を辞める際に、

辞める側の不足ゆえに、辞めると思われる発想だ。




しかし、



ここで思うのは、


なぜ、学習塾の指導が不足である、

学習塾の教え方が下手である、

などという発想に至らないのか?


あるいは、

学習塾のやり方では、

本人の学習の伸びが、イマイチである

(つまり、本人に合っていない)という

学習塾側の問題に至らないのか?



という疑問である。




当学習塾の指導方法に、絶大なる自信を持っている先生方は、


自分の側に非があるとは、微塵も思わず、

気付けない様子が、


辞める間際の

「もったいないですね」という言葉からも、

感じられる。





教会もそのように思うことが、よくあった。(過去形)



多くの人が離教しているのは、


徳や信仰の足りない哀れな人々の、

過ちの選択ゆえと、考える。



教会の人は、

得てして、信者の話をよく聴こうとしてくれている。



でも、うなずいているだけで、


実は、話の内容は、あまり聴いてはくれていない。

いや、「あまり」ではなく、

「全く」かもしれない。??


あるいは、散々うなずいて聴いていた挙句に、


ご自分の武勇伝を「証」として、

自慢げに語る人も少なくない。





なぜ話を聴いていないと考えるのか?

と、言えば、



うなずくばかりで、こちらの質問に答えてくれない。


答えられない質問は、

自分の上司、アベルに答えをふる。

あるいは、「神様に祈ってみましたか?」と、

神様に答えをふる。


次回までに、答えを調べておきます、といって、

そのまま放置される。



アベルの立場の人は、

答えられることは、どんどん答えてくれる。

でも答えられないことは、

「深く考えてますねー」とほめ言葉を述べて、

それで回答したと、(アベルが)満足して、終わりになってしまう。




塾の先生もそうだが、

教会の人々も、


絶対なる真理、絶対なる正しい道、を自分たちは歩んでいると信じているので、


そこにすべての答えがあると、信じている。



自分たちが答えられなくても、

正しい答えは用意されているから、

それで構わないのだと思うのではないだろうか。


だから、相談者や悩む人々の、

話や質問を、熱心に聴くことよりは、


自分の正しいと信じる「教え」を説くほうに

夢中になってしまうのではないかと思う。




散々、語りつくした指導者たち、信者たちは、


気持ちがすっきりとして、


解決されていない、当人たちのことは、

気にならなくなる、


もしくは、

大きな勘違いであるが、

問題が解決したと、思うようだ。