スピリチュアル世界で言われている、引き寄せの法則というものがありますが、
自分の意識が、今起きている事象を、引き寄せている、ということです。
先日、地域の母親たちと会話をしていたところ、
「この辺の、大学もない辺鄙な地域から、私立大学へ子どもを送ろうとしたら、
下宿代もかかるから、指1本(=1千万円)じゃ足りないって、
パート先の先輩に言われたわ~」と、話す女性がいました。
聞き手であった、私ともう一人の友人は、
「へえ~」と人事(ひとごと)のように、目を丸くして、ただ聞いていました。
好奇心から、早速その辺りの事情を調べてみました。
よく保険会社のパンフレットには、
子どもが生まれてから成人するまでにいくらかかる、と書かれているものがあります。
しかしケースバイケースなので、
あまりよく見たことはありませんでした。
人生、いろいろあり、雛形通りに進むことばかりではないですから・・・。
いや、むしろ雛形通りに進むことが、珍しいのかも?
そして、ネットを利用してさっと調べただけなので、まだまだ分かりませんが、
言えることは、
かかる費用というのは、
個々の事情・環境が当然関わってきますが、
その人たちのもつ金銭感覚、これが結構、大きく左右してくるようです。
同じ国立大学へ進学するにも、
かたや、いくらで十分足りる、という人がいる一方、
それじゃあ、全然足りません、と主張している人もいる、ということです。
そして、
このような話題に熱くなれる人たちというのは、
~子どもに対して、教育費をいくら貯蓄している、という類の話題です~
生活水準も高く、ゆとりがある方たちが多いようです。
そんな掲示板を読みながら、
ふと、教会の献金のことを思い出しました。
子どもに多くの教育費の準備をしようしている家庭の方たちは、
生活に余裕がある人が多いのはもちろんですが、
そうすべきだと、
それが当然、という前提があるようです。
教会への献金も、同じなんだなぁと、そんな風に思いました。
献金をしてもしなくても、
「それをすべきもの」という前提が、その本人の中にあれば、
話の中に、引き込まれてしまうように感じます。
「統一教会に対して、献金すべき」という思考は、信者ではなくなった、今現在の私にはなくなりました。
信者時代には、「できたらすべきもの」という考え方でした。
もうだいぶ昔の話、信者時代の出来事ですが、
先祖解怨のための願い事を書く札を1枚、5千円や1万円で購入するように、という
連絡が入りました。
私は、何回か拒否をしました。
端的な表現になりますが、札を買って、願い事を書いて、効果がないと思ったからです。
それは今までの体験からそう感じていたからで、
お金を無駄にしたくなかったからです。
すると、連絡をしてくれた女性が、
「パープルさんのお宅には、○○という問題もあるし、
○○という事情も、後で問題が起きるかもしれないので、
ぜひ、授かるべきです」と、
個人の事情に触れることを言ってきました。
そのときは、かなり不快になりながらも、確か5千円の札を1枚?2枚?買いました。
信者でしたから、
根底には献金をしなくてはならない、という思いがあり、
そこら辺、「足元を見られた」のでしょう。
今は、
教祖をメシアとは考えられないし、教理が真理だとも思えないので、
教会には通えません、と伝えてあるため、
教会に戻ってほしい、という主旨のイベントで声をかけられることはありますが、
経済活動の要請は、記憶ですと、4年前が最後です。
そのお金が、どこに行き、何に使われているのか、と考えれば、
やはり「死に金」には絶対、協力をしたくありません。
(なぜ「死に金」と書くのかは、この記事の本題ではないので省略します)
「死に金」を出せば、運勢がなくなると、本気で思っているので、例え100円でも出さないようにしています。
お金も運勢もなくなれば、ないないづくしになりそうです(><)
冒頭の話に戻りますが、
教育費をしっかり確保しようとしている家庭の方たちにとったら、
教会への献金で、膨大な借金まで抱えてしまう人々のことは、ものすごい驚愕の事実なんではないかと思いました。
一方、教会への膨大な献金を捧げる方たちからしたら、
何百万、何千万まで子どもへの教育費を貯蓄している人々のことを信じられないかもしれません。
でも貯蓄からにせよ、借金からにせよ、それだけのお金を個々人が動かせているわけです。
目的をもって、そのためにエネルギーを注ぐと、
それだけ動かすことができるんですね。
すごいことだと思います。
そして、この事例だけでは当然ありませんが、
それぞれが、
「教育費は絶対これだけなくてはならない」
「教会には絶対これだけ献金しなくてはならない」と、
信じている世界が、事象として現れているのだなぁと、
もし、これらの世界が重要に思えず、また関心も薄い人々からしたら、
それらの投資が無駄に見えるかも知れず、
荒唐無稽に思えるかも知れず、
つくづく、各々の信じる世界、求める世界へ、
人々は、自らが縁をもっていこうとするのだなぁと思うのです。
追記として、
この記事は、私の見えている世界からしか、当然ですが、書くことができなかったので、
いろいろな立場やケースにいらっしゃる方たちに対しては、
少々断定しすぎた書き方をしているかもしれませんm(_ _ )m