かなり昔、教会で原理講義を聴いていたときに、
講師の方が、
「人類は、蘇生・長成・完成の3段階の、3分の2の時点において堕落をしました。
この長成期完成級において、来るべきメシアと出逢い、
共に歩んでいくことにより、完成ができます」という話をされ、
なおかつ、
「TVドラマでも映画でも、
話の3分の2あたりで、主人公がやられそうになっても、
水戸黄門なんかでもそうですね、
最後の最後で印籠が出てきます。
そこで主人公側が、奮起して、逆転をするんです」
と説明をされました。
当時は、
ほほぉ、確かにそうだ、と深く同意をしたため、
記憶に残っている話です。
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1985年製作の映画「未来世紀ブラジル」を借りてきて、久々に観ました。
私はこの映画がとても好きなのですが、
どうやら「カルト映画」と評されているようです(--)
私は何処に行っても、カルトが好きみたいです。
そしてこの映画は、
ご覧になった方はお分かりだと思いますが、
救いようのない展開となっています。
結末が悲惨なので、変えてほしいという要望があり、
エンディング論争までもあったそうです。
・・・そうすると、
人間の本性は、やはり「HAPPY END」を望んでいることになるじゃないか、
となりますが、
でも私としては、
HAPPY ENDになってしまったら、
この映画の魅力は、かなりなくなってしまうように思います。
結末が、HAPPYだったら良いのに、と思う反面、
しかし、この展開ゆえに、
この映画として成り立っているという感じが強くあります。
話の後半部分で盛り上がって、
メデタシメデタシ、となる作品は多く見られますが、
しかし、そんなものばかりではないということです。
アニメにも結構、悲惨な話はあります。
「ボトムズ」というロボットアニメを以前観たことがありますが、
こんな結末、観たくない、と思いました。
一方で、自分の心の奥底では、
そういう話を望んでいる面があるのも感じています。
多くの視聴者に受け入れられていることを考えれば、
別段、特別な人々だけが持ち得る心理ではないとも考えられます。
そうであれば、
先の講義のように解釈をしていけば、
それは人間が元々そういったもの、~人間的に考えたらば、うまくはいかない状態~も、
根底には望む側面もある、とも導き出せます。
HAPPY ENDの道筋だけで世の中が成り立てば、
どれほど平安で良いでしょう。
その世界観を、個人としてもつのならばともかく、
人類全てを救うための、経典という位置づけとして存在する、というのであれば、
今の私には、どうも薄っぺらく感じられて、
立体性を感じることができません。
昔は、
「そうであってほしい」という願望を、
原理講義を通して伝えられていたので、
喜んでいましたが、
願望と事実は、一致するものではありません。
もしかすると、
願望と事実は一致しやすいのかもしれませんが、
ただ私たちの根底までの思いを分析したら、
正義がやってきて、悪を打ち負かす、
その構図自体の存在を認めて、
なおかつ、その状態の成就を望んでいるとは、
本当に言えるのでしょうか。
更に言ってしまえば、
自分と対峙する存在を、簡単に「悪」として、
果たして決め付けられるのでしょうか。
マイナス志向をしているわけではないのですし、
結末が、○と出るのか、×と出るのか、△と出るのか、
そもそもそんな採点らしきものが存在するのか、
不明ではありますが、
しかし、それでも、
原理講義における、復帰の道筋の話は、
現実、あるがままの状態を見ておらず、
ハッピーエンドに何とか結論付けたい、
ある種の強引さがあるように感じると、
教会を離れて、一息ついている立場からはそう思います。