100%・・・120%と書くべきかもしれませんが、

絶対?信仰と、

100%の不信は、似ているようだと思いました。



世の中には、絶対と言われるものはない、という言葉を聞いたことがあり、

また体感的にも、その言葉に概ね同意をしかけている者ですが、


だから、全てを懸けて信じることも、全てを懸けて信じなくなることも、

同じ穴の狢のような気もします。



玉石混合、

正の要素も負の要素も、物事には同時に混ざっており、

より正の要素を含んだものを、その都度、選択していくのが、

大事なように思います。




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昭和初期に起きた、かなりセンセーショナルな事件に関しての書籍を、先日読みました。

それ以前にも、少年事件を調査した本を何冊か読みましたが、


猟奇的な事件、異常な事件は、

人々の心理として、

犯人をモンスターのような存在として、

自分たちとは全く違う、エイリアンのような存在として、

位置づけたい、という思いになるようだと、

それらの本を読んでいて思いました。


犯人=モンスターという結論をまず取り付けて、本が書かれているようなのです。


勿論、多くの関係者や、あるいは犯人の足跡を追っての、

多大な労力の元に書かれている書籍であることを認識はしていますが、


事実調査が足りなかったり、

もしくは、確固たる結論を持ってからの執筆となると、

どうやら、結論が一人歩きをしているように見受けられるものが多いことに気付きました。



結果的に、どう思う、という道筋をつけて執筆することが、

大方の、本の書き方のようであり、

また読み手も、その方が、読みやすいとは思いますが、


しかし結論を急いでしまうと、

結局、多々なる要素も、全部、筆者の結論へ到達すべきツールになってしまうようです。



例えば、

コーヒーを飲んだことも、

新聞を読んだことも、

本を買ったことも、

笑ったことも、


全部、導く結論への、意味づけとされてしまうようです。



結論を、急げば急ぐほど、

また、何としてもその結論に、導きたいと思えば思うほど、

物事のあるべき姿から、実際の姿から、乖離してしまうことがよくあるように感じられ、



自分の中に存在する、そんな要素に気付ける機会が幾度かあり、

その傾向は、生涯ずっとあるものとして、

自戒しなくてはとも、思っています。














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