機会があり、上記タイトルの動画を見ましたが、
まず大勢の方たちが参加されているので、びっくりしました。
人間は都合が良いもので、
自分が関わりになくなってしまったので、
その団体自体、私の意識においては、相当、小さい存在になってしまったのですが、
それは私の脳内での出来事であり、
現実は、そうはいっても、まだまだ多くの会員を集める力もあり、
ちょっと独りよがりな考えだったと分かり、苦笑いしました。
そして全く相容れなくなってしまったことも感じました。
1分さえ動画を見る気持ちが起きなかった、ということです。
私の周囲では、それほど熱心な信者さんはいらっしゃらないみたいですが、
でもたまに、ものすごく熱心に活動をしていたり、
教会のことを常に考えている方に会う場合がありますが、
話が完全に合わなくなっていることを、
時間が経てば経つほど、感じます。
聖書片手に伝道活動をしているエ○バの証人さんたちや、
選挙活動のときによくお見かけする幸福の○学さんたちのような、
新興宗教の一団体としか認識できなくなってしまいました。
隠し絵を、隠れた物体を認識した後は、
その絵がガラリと変わって見えるような、
そんな感覚に近いのかもしれません。
私は、私の立ち位置を正常と思いますが、
信仰をもっている信者さんからしたら、
私のような立場の人は、脱落者として認識するのかと思うと、
とても不思議に感じます。
立場を異にする者たちが、
それぞれを違和感を持って見つめるのは仕方がないことですが、
でも、
かわいそうなどと、憐れまれるのは、
正直、良い気持ちではありません。
もし、そう見られていたら、の話ですが。
自分が、信者時代には、
平和実現の理想に向けて、それを使命と感じた者たちが、
率先して活動をしていくのだ、と思っており、
教理を受け入れない人々への思いは、特になかったように思います。
教理を受け入れない人たちは、その人たちで、
他に天命があるのだろう、と考えていたからです。
全ての人が、同じものを見て同じに感じることはなく、
信仰の分野だけに全ての人が行くことが、
天の願いとは考えられませんでした。
![にほんブログ村 哲学・思想ブログ 統一教会へ](https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fphilosophy.blogmura.com%2Fuc%2Fimg%2Fuc88_31.gif)
にほんブログ村