かなり昔、統一教会で活動をしていた時代に、
「愛すること」について、書かれた紙を見せられた記憶があります。
教祖もしくは偉人の格言だったのですが、それすら、よく覚えていません。
愛することの具体的な方法が書かれていました。
プレゼントを贈る、という項目もあり、
物を贈るというのは、時によっては、賄賂のようなイメージも少々持っていましたが、
この格言を読んで、
「いいなぁ」と素直に思いました。
プレゼントをする、というのも、確かに“愛の表現”ですよね。
やさしい言葉をかけるとか、そういうような項目もありました。
教会では、「為に生きる」「愛の実践」など良い話をたくさん聞きますが、
では、「愛する」って具体的にどうしたら良いの?と、なることもあります。
それで、この格言を読んで、たいへん良かったと思いましたが、
コピーでも手元に残っていれば良いのですが、
資料がなく残念です。
愛することとは、相手や事象をよく知ろうとすることだと思います。
そういった意味では、
反対派や、
教会を離れて、なおかつ、まだ教会関連の事柄を調べたり、意見をする方たちは、
より、教会や教祖、教祖周辺の方々を愛しているのではないかと、
嫌味ではなく、純粋に、私はそう思います。
例えばですが、
教会嫌いの子どもに対して、親が教会通いを強要します。
親が、子どもに干渉をして、注意や怒ろうとしたりすると、
子どもは、防衛策として、原理講論(経典)を読むふりをします。
親は、「まぁ、熱心ね!」と、干渉することを忘れて、喜びます。
そのとき、子どもはどう感じるのでしょうか。
浅はかな親だ、と思うかもしれませんが、
やはり根底には、
自分が理解されていない、
自分が良い子だったら愛してもらえるという、条件つき愛しか受けられない、
などと、孤独感や寂しさを感じるのではないでしょうか。
教祖家庭の中では自死されていると思われる息子さんがいますが、
信者の中では、その死が、自殺だったという認識をしている人たちは少ないように思います。
でも自殺をせざるを得ないような立場や精神状態だったとすれば、
それは、どれほどのことだったんでしょうか?
そのことを、一番擁護して理解すべき教会員の人たちが、
「天の摂理(仕事)のために、先に霊界に行かれた」
と、だけ認識しているとしたら、
あるいは、「何か天の計らいがあったのだ」と、ただ言われるがままに深く考えもせずにいたとしたら、
ご本人にとって、それが嬉しいことになるのでしょうか?
むしろ、アイドル(=偶像)のように、
「真の子女様」として、崇められないほうが、まだ良いとさえ感じられるのではないでしょうか。
かつては内部にいた者の認識として、間違ってはいないと思いますが、
組織や教祖、教祖家庭、幹部の方たちのことをいろいろ知ろうとすることは、
教会組織として忌み嫌う行為だと思いますが、
私は、それは「愛の形」の一つだと思います。
知ろうとする行為の中では、
日の当たる部分ばかりではなく、日の当たらない「負の部分」も当然見えてくるはずです。
でも負の部分を見られたとしても、
突き詰めていけば、答えは探せなかったとしても、
どうして負の部分が生じているのか、
負の部分が生まれる原因があったのかどうか、
そんな疑問にまでぶち当たることができるのではないでしょうか。
何も知らずに、
しかし知ったかのように結論付けられるよりは、
そんな風に、知りたい対象に思いを馳せる方が、
愛のある行為に思えます。
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