季節は梅雨に入り、紫陽花の色が映えています。暑い日や雨降りでなんとなく肌寒い日があり、体が季節についていくのがしんどい時期です。

 

喪った人のことを思い、しんどい日々を送っていると、季節が感じにくくなったり、ニュースが現実感を失ったりすることがあります。

 

これらは心を守るために、防衛機制として心が働いていて起こることです。大丈夫、一人ではありません。皆様のうしろにはたくさんの当事者の自助の力があります。

 

人には非常に理性的なところと非常に直観的で感情的なところとがあります。心がしんどいと、理性的な部分が大活躍をして、直感的で感情的な部分が静かになったり、逆に理性的な部分がなりを潜め、感情的で直感的な部分だけが出てきたりすることがあるのです。

 

どちらが出てきても、本来、両方が出てきてあなたなので、自分としてどうなったのかと不安になることも多いのです。

 

まだひろの会がスタートしてすぐのころ、東北で大きな震災があり、連日そのニュースで新聞もテレビも持ち切りでした。

 

そんなとき一人の参加者の方が「突然地震がきて津波に飲み込まれ、あんなにも多くの人が亡くなっているのに、一人の人のことを悲しんで涙にくれるなんておかしいのかもしれない」とおっしゃいました。

 

たしかに、一人の人にはその人を思う人が何人もいて、それがあんなにたくさんの人が亡くなったのだから、はっきりと看取った死や、そうでなくても死がわかる形で目の前にあることの幸福を言われると、つらいものがあります。

 

でも、喪失感というのはそんなものではなく、その方との関係が深ければ深いほど、悲しみや悲嘆は深く、季節も時間も未来を考えることも見失ってしまうことがあるのだと思います。

 

ひろの会がスタートしてすぐの時、「夫を失った人と子どもを失った人というようにグループを分けてもらえないと、自分の悲しみをわかってもらえない」と言われた方がいらっしゃいました。

 

それでもあえて、ひろの会は対象を絞らず、年齢を絞らず、死別や失踪を分けずにやってきました。自助グループなので当事者だけが原則ですが、あえてオープングループの形をとり、スタッフや支援者が参加してきました。

 

これらがいいことか悪いことかは誰にもわからないことでしょうが、一つだけ変わらないのは、同じ時刻、同じ曜日に同じ場所でふと来る気になって来られても、扉を閉じず、飽かず弛まず続けていこうとする姿勢です。

 

多くの方でにぎわい、多くの方に知られる自助グループもあるでしょうが、これがひろの会のやり方だと思っています。

 

今は母の介護で参加できませんが、戻ってくることができる場所であることを信じて、日々をすごしています。いつもの場所でお待ちしております。