69回目の原爆忌が終わり、お盆になります。いかがお過ごしでしょうか。

私は友人の死(脳腫瘍でした)、妹のがん再発と、否応なく死について考える時間を持ったひと月でした。

友人は私より若く、明るく可愛い人で、ストレッチのインストラクターをしていました。うつ病を10年まえから患い、とてもしんどそうでした。表で頑張って、家で動けなくなる人でした。

昨年の7月に頭痛と眩暈で受診、すぐに脳腫瘍とのことで手術。小脳のほうは取れましたが、脳幹のほうは取れず、抗がん剤も効かず、家でこの春から闘病生活をしていました。亡くなる前まで心を慰めたであろうオカメインコが主のないまま、かわいい声を上げていました。

彼女のご両親の気落ちは見るに堪えなく、逆縁のつらさは親にとってどんなにしんどいかを改めて認識しました。もちろん私も、彼女が頭痛や眩暈を訴えたときに、脳外科に行くことを勧めていたらと思うと、ご主人や子どもたち、お父さんお母さんに申し訳ない気持ちでいっぱいです。

妹の再発は覚悟をしていたけど、やはりどう考えればいいか悩みます。更年期だとか、忙しいから検診に行く暇がないとか言っているときに、もっとしっかりと勧めておけばよかった。また、癌になりやすい血筋だってと、情報を伝えればよかったと思います。

彼女も苦しむ姿を見せたくないのです。でも、見えないところで見えないまま苦しんでいるのはとてもつらいです。会いたくないと本人が言っても、家族が無理やりにでも会わせてくれればよかったのにと、周囲を恨む気持ちになるのだなと思いました。

それが極端な形になると、「あなたのせいで死んだ」とか「あなたが殺した」とかになるのかもしれません。

自分が死ぬときは「生穢(いぎたな)く」(こんな言葉はありませんが)、じたばたしながら納得して死にたいなと思います。残った人に罪障感や、こうしていれば、ああしていればという後悔や自責の念を持ってほしくないからです。

離れていても何もできなくても、生きていて当たり前だと思っている人が亡くなると、どうしても自分が何とかできたのではと思ってしまうものだと思うのです。人の生き死には手が届かないところにあるものかもしれません。

でも、せめて初めて行くところに一人ぼっちで行かせたくない。往く瞬間は手を握ってあげたいとか思うものです。

だから、そんなことを思ってあげるのが馬鹿らしくなるほどじたばたして、試したいことを自分で全部試して、死にたいと思うのです。死の過程は納得の過程です。見えないところ手の届かないところで死なれるのはつらいのです。

その過程をやり直すことはできず、思うようにコントロールできないので、今グリーフ状態(悲嘆の状態)になっているのだと思います。出口の見えない、先の分からない過程を歩んでいるのです。

それを共に歩みたいと考えているのがひろの会です。ひろの会でお待ちしています。