溝口あゆかさんは、非二元(本当はトリニティ)とセラピー(心の癒し)
を融合させておられるヾ(@°▽°@)ノ かたです
「魂のケア」より
自分の中の分離を癒す絶好のチャンスは
批判したり、嫌ったり、さらには憎んでしまったりする相手との
出会いによって訪れる (苦手意識、嫌悪感など)
自我=分離の錯覚ですが、正確にいえば「私=分離」です
他者を嫌っているときは、より深い分離の錯覚にはまっている
その分離幻想がみせてくれているものとは、
本当は手放していいのに、握りしめてしまっているものである
自分が深く信じているものに対して誰かが「まちがっている」と
言えば、それは自分を否定されたことにもなる
それは、自分の信条が置き去りにされ無視されているような気持になる
またそうされる自分を責めたり、罪悪感を持ったりする
それは、自分のイメージ、大切な人、大切なもの、自分が深く信じている思想など
自分が同一化してしまうほど守らなければいけないこと
または、自分はおろかだ、ダメだなどの知ってほしくない部分があり
守り通して絶対みせないでおきたいことがあるからだ
これらの「守りたいもの」を必ずみつけることができる
それが多いほど人間関係において分離感も強くなる
なぜ、信念(信条)があるのか
自我=身体、思い(思考)、感情(感覚)の集積
私の体、思い、感情というように・・・(自分の構成要素、構造)
自我=セルフイメージ、ビリーフ、信念そのもの
なのでそれらを手放すことは、ある意味自分の死でもある(無意識レベルで)
自分がいなくなるのは怖いし、嫌なのでしっかり守ろうとする
自分の考えを攻撃されると自分が攻撃されたと受け取り
身の危険を感じるので、様々な感情が出てくる
カウンセリングやセラピーで、こういったビリーフを緩ませていったり
感情の奥底にある「愛」をたびたび経験していくことで
守りの壁が落ちていき、かな~り楽になっていく
それと同時にもし、真の自分は「気づいている意識」のほうだと認識できれば
必死に握りしめていたものはただの思いだということもみえてくる
しかも、そもそも守らなければいけない自分などなくて、ただそういう思いがあったと、
それがみえてくれば、自分にとって苦しみとなる「守っているもの」は手放してよいもので
愛の思いから守っていたいものとの区別がつくようになるでしょう
自分の癒しを進めていくことで、非二元(ノンデュアリティ)の理解を深めていくことは
お互いにサポートしてくれることも多いと感じる(真反対に向くことも多い)
そのため繊細さがそれなりに必要だ*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆