前回のブログで、交流級のクラスメイトにてんかんという病気や発作について周知しないで欲しい、と伝えたと書きました。その理由について少し書きたいと思います。



安全を守るため、という理由は今の息子の病状には当てはまりません。



その事を伝えるために、

「過剰な心配は息子のためにならない。むしろマイナスになる。」

と話しました。



息子は甘え上手になってきています。


いつも誰かがそばに着いていてくれる環境に慣れてしまっていて、出来ることでも人に頼もうとして甘えます。


この話をした時は、先生方ではなく交流級の子どもたちに対して、


・心配してくれる人が増える事で息子の甘えを助長させたくない

・心配だから、という理由で遠慮されたり特別扱いをされたくない


と考えていました。



そして、先日ある方のブログで、これらの「過剰な心配」は「配慮」ではなく「差別」であるという事を知りました。(許可をとっていないので「ある方」とさせていただきました。いつも勉強になるブログをありがとうございます。)



改めて考えると、私がお話しした望まぬ特別扱いは「差別」そのもので、私は気づかないうちに「差別はしないで欲しい」ことを訴えていたのでした。


そして、支援学級の担任の先生も、意図せず「差別」しようとしていました。



「差別」という言葉はとても強くて、マイナスなイメージがあります。


相手を攻撃する言葉にもなり得ると感じるので、私は必要以上に使わないようにしています。だけれど、強く非難する必要がある時には使わざるを得ないとも思っています。


今回、支援級の先生は真っ直ぐに私の話を聞いてくださり、私の意図をある程度汲み取ってくれたように感じました。


ですが、

これはきっとクラスが変わる度に、担任の先生が変わる度に、話題に上がるかもしれないと思っています。


もしかしたら、

「過剰な心配は配慮ではなく差別です。」


と声を大にして訴えたい時が来るかもしれません。



今回の事から、

私ももっとアンテナを張りめぐらせて日々過ごす必要があるなと思いました。


教育現場での福祉教育の現状、てんかん患者や障がい児者が社会で暮らしやすくするためにどんな動きがあるのか、

今まさに多方面で議論されている「多様性への理解や多様性を高める」とはどういう事なのか。


できるだけ今の社会の動きをよく知りながら向かい合っていきたいと思います。