『非二元の教え』ってのは、ありとあらゆる存在は分裂していませんよ。一つの同じものですよ。 | 地球の愛と光・本来の姿へ

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『非二元の教え』ってのは、ありとあらゆる存在は分裂していませんよ。一つの同じものですよ。

転載元:もっと あの世に聞いた、この世の仕組み
https://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/aebdc28e028851d38443e0c1552be5a2

(ここから)

精神世界とかスピリチュアルに関連する話ってのは、どうにも聞き慣れない言葉に溢れています。

よく使う言葉で説明されるならまだしも、単語そのものの意味もわからぬまま、展開される話に飲み込まれてしまい、「たくさん聞いたけど、結局よくわからん」というのもよくある話。

「なんか、何度聞いても肝心な所で知らない単語が現れる。だからこそ、なんとなく煙に巻かれているような、いかがわしさが残るんだよね」といった印象が刻まれてしまったり。

「よくわからん」で終わるならいいけれど、意味のわからない単語を、前後の流れから自分のボキャブラリーに置き換えて解釈し、そこから誤解が生まれてしまうことも少なくありません。


でもって、最近よく聞かれるのが、「黒斎さん、『非二元(ノンデュアリティー)』ってなんですの?」です。

もう同時期に知った「ラッスンゴレライ」級に聞き飽きたけど、結局よくわかんない、と。


で、結論から申し上げると、精神世界やスピリチュアルで出てくる、ほかの「わかりそうでわからない単語群」と同じものを指しています。

たとえば、

「Oneness(ワンネス)」 意:単一性・同一性・一致・調和

「Wholeness(ホールネス)」 意:欠けたもののない(分裂していない)完全性、または全体

「Advaita(アドヴァイタ)」 意:不二一元

「真我」

「TAO(タオ)」

とか。


で、これらの言葉が指しているのはすべて「非相対」です。

「非相対」というのは、「相(あい)対するものに非(あら)ず」ということ。


「同一」のものが「相(あい)対する」ことはないし、「分裂していない」ものが「相(あい)対する」こともありません。

なので、『非二元の教え』ってのは、「ありとあらゆる存在は分裂していませんよ。一つの同じものですよ」ってことですから、『ワンネスの教え』となんら変わりはありません。

で、「ありとあらゆる存在は分裂していませんよ」なのですから、「他と分離された、個として存在する『わたし(あなた)』などありえませんよ」ということになり、それが「わたしはいない」という一言で表現されたりするわけです。


ですから、「わたしはいない」というこれは、あくまで「個という分離の否定」であって、「存在の否定」ではありません。


さらに、「ありとあらゆる存在は(いますでに・これまでも・これからも)分裂していませんよ」ということなので、「分裂した私が全体性の中に統合されるよう、努力する学習する修行する、といった作為・行為はすべて、てんで的外れですよ、ということになります。

それはまるで、僕が「男になろう」と、必死に努力を重ねる不毛さと同じようなものです。

「なろうも何も、すでに男じゃん(笑)」と。

「そこには、なんの努力も必要ないでしょ」と。

「男だと『信じる』ってのも、違うでしょ」と。


とにもかくにも、「非二元」においては、分裂していないからこその「対象の無さ」を『それ』とか『これ』として示しているわけです。

なのに、自我は世界を「分裂しているもの」として認識した世界に生きているので、『それ』を認識しうる「対象(座標)」として特定しようとします。

「どれ?」「どこ?」と、探してしまいます。

しかし、ここで示されているのは「対象の無さ(分離しえない存在全体)」ですから、「どれ」とも「どこ」とも答えられません。

対象(座標)がないからこそ、「どこでもない」とも言う人もいれば、「ありとあらゆるところに」という人もいるのです。

(ここまで)

ありがとうございます
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