「因果」は時間の中だけど、「因縁」は、時空を超えちゃってる。 | 地球の愛と光・本来の姿へ

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「因果」は時間の中だけど、「因縁」は、時空を超えちゃってる。

転載元:もっと あの世に聞いた、この世の仕組み
https://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/5ac6fc38ee7d9268433c928a0be69155

(ここから)

「縁」

突然ですが。

「あなたが、いまこうしてこのブログを読んでいるという、このことも、あなたが生まれる前から決まっていた」なんて言われたら、どう思います?

でもって、「僕がこうしてブログを綴っていることも、決まっていた」だったら、どうします? 動じます?(韻を踏んでみた)

「ああ、また紋切り型のスピのお話ね」って鼻で笑っちゃいます?

僕もね、スピ系の本を初めて読んだときに、そんなようなことが書かれてたんで、それだけで「うっ、いかがわし…」ってなったんですけども、突き詰めれば突き詰めるほど、これは馬鹿にできないお話だと、そうなっていくんです。


仏教では、ありとあらゆる存在に対しての「固定的実体」を認めません。

だから、「わたし」に対しても、「あなた」に対しても、「何か」に対しても、『そのような、固定的実体などない』という姿勢を貫き通します。


この気づきと、「時間(過去・未来)は幻想」という気づきが同時に現れたとき、これまで当たり前に持っていた『因果(原因と結果)』という法則に対する観念が突如揺らぎます。




以前お話したとおり、「STAGE.1」における意識は、「原因と結果」に基づいた生き方です。

「わたし」という主体が原因となり、「世界(わたし以外)」に働きかけ、某かの結果を生む、という、当たり前の感覚です。


が、上記の気づきとともに、その当たり前が、当たり前じゃなくなってしまう。

「勘違い」だったことに気づいてしまうんです。

なにかの「答え」を見つけるわけではなく、「あれあれ?」ってなことになります。


まず第一に、「時間」。

事実、僕たちは「今」以外に存在できたことはありません。

これまでも何度もお話してきたとおり、いつだって「存在(体験)」は、今にしかないのです。

過去に実在することも、未来に実在することもできません。

だって、この文章をご覧になっているあなたも、やっぱり「今」にいますでしょう?

過去を思い出したり、未来を思い描いたりするのも、やっぱり「今」でしょう?

「思考」ではなく、「実在」のレベルには、「今」しかないんです。

こればっかりは、信じるとか、信じられないとか以前に、認めざるを得ない事実です。


こういう話をすると、

「ええ、頭ではわかるんです。でも、実体験として理解できないのです」とお話される方が大勢いらっしゃいます。

ですが、本当は逆です。

だって、「実体験」できるのは「今」しかありませんから、気づきがあろうがなかろうが、僕たちはいつだって「今」しか体験していないのです。

だから、「実体験はあるけども、それが頭(思考)では理解できない」というのが本当です。

「目から鱗が落ちる」とか「腑に落ちる」っていうのは、「思考(頭)」での理解を超えたときのものです。


で、話を戻して。

「今しかない」となると、今までの「原因と結果」という関係がおかしな感じになります。

「原因と結果」というこの解釈自体が「時間」の観念の中に含まれているからです。

原因(過去)と結果(未来)、だからこそ、僕たちは様々な「計画」や「プロセス(時間の経過)」を考え行動しています。

なのに、実際は「今」しかない。いってみれば、「原因(今)と結果(今)」。

「原因(過去)と結果(未来)」と、「原因(今)と結果(今)」は、決定的に何かが違う。

あれれれれ?

じゃ、いままで当たり前にあると思っていた、「原因」とか、「結果」って、いったい何なんだ?

そんな風に戸惑ってしまいます。


さらに、

仏教が示すように、「固定的実体」がないのもまた事実です。

いまこうして感じられる「わたし」すら、「固定的実体」ではありません。

また、主体でもありません。

仮に「わたし」が主体なら、「自分のことが手に負えない」なんてことはありえませんし、病気になったとしても、その「主体性」でコントロールすりゃいい話です。

先日お話したとおり、僕たちは「呼吸」や「鼓動」といった、生命活動における重要な機構ですら、「主体性」をもってコントロールできていません。

自分の脈をとるのにも、自分の手首なり首筋なりに手を当てて確認しなければ、わからない、というお粗末さです。

「好き嫌い」なんてのも、おかしな話です。

自分がそれを、なぜ好きで、なぜ嫌いなのか。

「主体」として、「よし、これを好きになろう」とか「これは嫌いってことにしよう」なんていう風に選んだ記憶もありません。

なぜか好きで、なぜか嫌いなのです。

もしも「わたし」が「主体」なら、嫌いなものも、好きになっちゃえばいい。

そしたら、「あーいやだいやだ」っていう、日々抱える諸問題からもおさらばです。


でも、そうじゃないもんね。

そういう主体がないんだもの。コントロールできないんだもの。実際。


だとしたらさ、「わたしが原因となって」という時の「主体」ってどこにあるの? ってことですよ。

どの主体が原因を作り出したのさ、ってことですよ。


で、ですよ。

以前投げかけたあの質問です。


あなたがいま、こうしてこのブログを読んでいるこのことを「結果」とした場合。

その「原因」は、なんでしょうか?



これはね、もう答えなんて出せないのよ。本当は。


「ブログが更新されたのを知って来ました」とか「知人の紹介で知りました」とか「スピリチュアルに興味があって」とか、そういう心的要因を挙げる人も多いんですけど、それだって実は「原因」と言うにはちょっと無理があるんです。

だって、「ブログが更新されたのを知って来ない」人もいるし、「知人の紹介で知ったけど興味ない」って人もいるし、「スピリチュアルに興味があって」も、このブログ知らないって人もいるし。

心理的要因以前の、「なぜ、その心理的要因が生まれたのか」、そして、それがなぜ行動にひも付けされたのか、が残されたままですから。


で。

この「結果」が現れているのは、そういった心的要因だけではありません。

たとえば環境。

こうしてこのブログを見ているということは、当然パソコンなりスマホなり、某かのデバイスがあって出来ることです。

そのデバイスを生み出した主体は「わたし」?

いやいやいや。

でもって、そのデバイスに電力を供給しているのは、供給設備を作り出したのは「わたし」?

いやいやいや。

もっと言えば、お父さんとお母さんのあの日の性交渉がなければ、いや、それ以前の出会いがなければ、この「結果」はあり得ない。

だとしたら、ですよ。

本当に不思議なことに、この「結果」は、僕たち一人一人がこの現象界に現れる前から、その流れがあったということになります。

なにそれウケル(笑)


あなたがいま、こうしてこのブログを読んでいるこのことを「結果」とした場合。その「原因」は?


そう聞かれても、「どこまで遡れば?」となってしまいますでしょ?

で、「これが原因です」と限定して言えるようなことは、何一つ見つけ出せないんですね。

何かを答えても、それは断片の一部でしかないし、その答えすらも、「その原因を作り出した原因は?」ってことを、延々繰り返しているだけになってしまう。

いままさに、なにか特定の「出来事」を「結果」として捉えた場合。

その結果を作り出した要因は、あまりにも広大無辺で、仮に「わたし」があったにせよ、そこに介入出来た割合は本当に微々たるもの。


なのでね、「原因」ってなんなんだ?「結果」ってなんなんだ?

「あれ? もしかして、これまで当たり前と思っていた、『原因と結果』って、勘違い?」ってことになるのです。


じゃあ、何がこの結果を生んだんだ?

それが、お釈迦さまが言った「因縁」「縁(えん・えにし)」ってやつで。

僕たちは「時間」という観念の縛りのなかでこの話を解釈しようとしちゃうから、どこか「因果」と結びつけて捉えちゃったりするんだけど、「因果」と「因縁」は全然ちがうんだよね。

「因果」は時間の中だけど、「因縁」は、時空を超えちゃってる。


とにもかくにも、今こうしてある、僕とあなたの縁もまた、時を超えた縁なのですね。

(ここまで)

ありがとうございます
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