存在の本質。それぞれの部分が依存し合った関係性の元に成立する慣用的な名称、概念。実体がないのです | 地球の愛と光・本来の姿へ

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存在の本質。それぞれの部分が依存し合った関係性の元に成立する慣用的な名称、概念。実体がないのです。


転載元:もっと あの世に聞いた、この世の仕組み
https://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/7653d32a643a3f9cea0939bf96fa8dba

(ここから)

「弥蘭陀王問経.1」

上座部仏教に伝わる、パーリ語で書かれた仏典のひとつに、『弥蘭陀王問経(ミリンダ王の問い)』というお話があります。

これは、紀元前2世紀後半、アフガニスタンとインド北部(インド・グリーク朝)を治めていたギリシア人の国王、メナンドロス1世(ミリンダ王)と比丘ナーガセーナのやり取りを記録したもの。(ちなみに、作者不明)


そのやり取りを通じて、後にミリンダ王は出家し、阿羅漢果を得たと伝えられています。

一国の王を「社会」という枠から出し、悟らせてしまった、その問答とは…。

まるで落語を聞いているかのような軽妙なやり取りの中で、「存在の本質」「無常」「輪廻転生と業(カルマ)」について教えてくれています。

今日はまず、そのやり取りの一つ目、「存在の本質」についての問答をご紹介したいと思います。


*****

ある時ミリンダ王は、「すっげー人がいるぜ!」的な噂を聞いた。

それは誰かと尋ねると、ナーガセーナ、という答えだった。

よくよく話を聞くと、このナーガセーナ、比丘である。

比丘というのは、出家者として全く生産に従事しない修行者のことで、他者から布施されるものによって、生活を維持している。衣は糞掃衣(汚物を拭ったようなボロボロの衣)を着し、食は「托鉢」によって得たものを食し、住は森林や園林に生活した。

ミリンダ王から見れば、完全に乞食、社会性の欠落したニート同然。とても徳の高い高僧としては捉える事ができなかった。

そのような乞食が、なぜ人々から崇められているのか。

ミリンダは、世を治める一国の王として、そこに興味があった。

百聞は一見にしかず。ミリンダは自らナーガセーナの元を尋ね、その疑問を晴らそうとした。


「たのもう、たのもーう! ここにナーガセーナはおるか?」

「なんのご用ですか?」

森の中からひょうひょうとした小汚い男が現れた。出会い頭からがっかりである。

「お前がナーガセーナか?」

ミリンダの問い掛けにナーガセーナは答えた。

「はぁ、たしかに世間からはそう呼ばれてはおりますが、それはあくまで慣用的な名称や記号、概念であって、それに対応する『ナーガセーナ』という実体、人格は存在しませぬ」

「お前は何を言うとるのじゃ?」

「『ナーガセーナ』という名はあれど、『ナーガセーナ』という実体はありませぬ」

目の前に本人がいるのに、「ナーガセーナは存在しない」とはどういうことか。

訝しがって眉間に皺を寄せながら、ミランダは言った。

「なぁ、ナーガセーナ。それは私をからかっておるのか? それとも本気で言うておるのか?」

「なぜゆえ嘘をつく必要がありましょう。事実、存在せぬのです」

「ならば、まず先に、これまでお前に様々な布施を施してきた世の人々に詫びよ!
お前の生活全般、衣食住を支える様々なものを受け取っておきながら、『その当事者がいない』とは、恩を仇で返すような物言いではないか!
ましてお前は『修行僧』として托鉢をしている身。修行僧に実体がないのなら、誰が修行を実践しているというのか。
衆生の苦しみに対し、一体誰が、法を説くというのか。
実体のないものが修行僧を気取って布施を受け取っているのであれば、詐欺も同然。まさに、鬼畜の諸行、下衆の極み!」

「え? ハマカーン? ハマカーンの浜田?」

「なんだそれは!? とにかく、お前に実体がないのであれば、ここでお前を殺しても構わぬな!? いや、実体がないものを切るのだから、お前を殺しても、それは殺生ではないということでよいな?」

「そういうことではないのですよ、ハマカーン王」

「ミリンダだよ! だいたい、お前自身が『私はナーガセーナと呼ばれています』と言うのなら、そのナーガセーナとは一体なんだ。その身体が、ナーガセーナではないのか!」

ナーガセーナは首を横に振った。

「いいえ。この髪も、爪も、歯も、皮膚も、肉も、骨も、内臓も、糞便も、血液も、汗も涙も、ナーガセーナではありませぬ」

「では、そのような物のありかた、行為のありさま、五感や知覚、認識作用、そこにナーガセーナがあるのだな?」

「いいえ。違います」

「ぬぬぬ…。では、その意識こそが、ナーガセーナだ!」

「いいえ、それも違います」

その後もミリンダ王は、「それらの総体」「それら以外」など問うも、ことごとく「違う」と否定され続けた。

「ならば、もうどこにもナーガセーナを発見できないではないか!」

「ですから、最初からそう申しておるではないですか」

「もういい!お前はやはり、嘘をついて衆生をからかっておるのだな!
そのような出口の見いだせない嘘を用いて衆生を惑わし、ペテンにかけておるのだな!
ふんっ、いいだろう。私は、ここでお前を殺しはせぬ。
その代わり、金輪際そのような下劣なことが出来ないよう、国中に、ナーガセーナらの教えはペテンであると、広く知らしめてくれようぞ。
そうすれば、お前ら比丘がいままで通り布施を受け取ることなどできなくなろう。
乞食のようにも暮らせては行けぬ。
死にたくなければ社会に戻り、真っ当に働くことだな。覚悟しておけっ!」

ミリンダ王がその場を立ち去ろうとしたとき、ナーガセーナが口を開いた。

「ところでミリンダ王、今日はここまで、どうやっておいでなさった。歩きですか、牛車ですか?」

「こんなところまで、私が徒歩で来るわけがあるまい。牛車で来た」

「なるほど。ではミリンダ王、今度はこちらが問いますが、『牛車』とはなんですか?」

「なんだと?」

「牛が、牛車なのですか?」

「いや、違う。牛は牛だ」

「では、轅(ながえ:前方に長く突き出ている2本の棒)が牛車なのですか?」

「いや、違う」

「では、車輪が牛車なのですか? 車室が牛車なのですか? 鞭が牛車なのですか?」

「いや、いずれも違う」

「では、それら以外が牛車なのですか?」

「そんなワケがあるまい!」

ナーガセーナは次々と、一体どれが「牛車」なのかと問い続けたが、ミリンダ王は、「それらはすべて牛車ではない」と否定し、そして、ハッとした。


「ミリンダ王、おわかりになりましたか。『牛車』には実体がありませぬ。
牛車は、それぞれの部分が依存し合った関係性の元に成立する、慣用的な名称や記号、概念でございます。
ナーガセーナも同様。すなわち、ミリンダ王、あなたもまた、同様に実体がないのです。
実体のないものが、国を治めるとはいかがなものか。
あなたのしていることは、私同様、詐欺ということでよろしいですか?」


「……。ナーガセーナ、先ほどの罵詈雑言、すまなかった。よかったら、もう少し話を聞かせてはくれまいか」


こうして、王が乞食に教えを請うという、奇妙な関係が始まった。

(ここまで)

ありがとうございます
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