「気づき」というのは、「新たな知識の吸収」ではありません。大切なのは、知識の引き算、「固定観念の崩落」です。
転載元:もっと あの世に聞いた、この世の仕組み
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(ここから)
「わたしはいない」とは、どういうことか
昨日の更新で、「わたしがいない」ということを、象徴的に
と表したわけですが、実際は少し違います。
このように、身体だけが残る、ということではないんです。
だから、そこには人形のように転がる身体があるだけじゃなく、「<わたし>はいない」と話し、動いている状況が見える。
誰かがその状況を見て、「じゃ、その『わたしはいない』と語るお前は誰なんだ? そこにいるだろ?」となる。
「あなたがいないのなら、私はいま、誰と話をしているというんだ?」と。
実際、古くから「目覚めても、なにも変わらない」と伝えられているとおり、<わたし>が消えてもなお、思考もあり、感情もあり、痛みもあり、好みもあり、五感もあります。
実は、五蘊の「色」も「受」も「想」も「行」も「識」も、全部あるんです。
この5つはあるけど、<わたし>という「幽閉された空間(命)」は、ないんです。
それはね、こういうことなんです。
一つは、先日『ハイブリッド』のエントリで紹介した、「マインドに穴が開く」というパターン。
これは、言うなれば「目からウロコが落ちる」という『気づき』のことです。
穴が開いても、まだ建物がしっかりありますから、「空間(命)のつながりに気づいた<わたし>」が残ります。
穴は開いても、まだ「器」としての機能が残っていますから、そこになにかを「満たしたい(満たさねば)」という欲求も残ります。
でも、以前ほどの強い衝動ではなくなっています。
依然として<わたし>はありますが、それでも、ドアや窓を開けることができた分、窒息しそうな焦りや息苦しさは一気になくなり、人生は格段に楽になります。
以前からお話しているとおり、「目からウロコが落ちる」というのは、「新たな知識の吸収」ではありません。「固定観念の崩落」です。
このブログでも、「大切なのは、知識の足し算ではなく、引き算ですよ」と、何度もお話しているのは、このことを指しています。
もう一つは、それとはちょっと違っていて、完全に<わたし>がなくなってしまうパターン。
「気づいた<わたし>」すらいなくなるんですが、それでもなお、「色」も「受」も「想」も「行」も「識」も、全部あるんです。
で、場合によっては「目からウロコが落ちる」ことすらありません。
ね、言葉にすると、ワケがわからないでしょ?
でもね、図にすると、ちょっとわかりやすくなるんです。
どうなるか、と言いますと…
…………
………
……
…
こうなっちゃう。
ね、五蘊のエレメントはそのままでも、「わたし(幽閉された空間)」はなくなったでしょ?
でもって、「明け渡しちゃってる」でしょ?(笑)
これが『サレンダー(明け渡し)』です。
身体も、感覚も、意思も、概念も、認識も、全部、以前どおりあるのだけれど、それが「連携」しないのです。
身体は身体、感覚は感覚、意思は意思、概念は概念、認識は認識。
それぞれが独立して存在するんです。
それぞれのエレメントがリンクしないから、「わたし(幽閉された空間)」がない。
「わたし(幽閉された空間)」がないから、「わたしの○○」と言えなくなってしまうのです。
だから、ある出来事があっても、それを「<わたし>の出来事」とは捉えられなくなるんですね。
これが、ある時突然、
パァッ!
と、こうなちゃう。
「空間的引きこもり状態」と、
「大いなる空間との融合」
「黒斎」と、
「雲」
そのギャップの行き来が、「(開放と閉鎖の)(ワンネスと分離意識の)対話」として見えるのです。
で、これは僕(黒斎)には、コントロールできないのです。
エレメントが解体され、「僕」が「僕」ではなくなったときが、「雲」なので。
「僕」が頑張っている限り、「パァッ!」はないのです。
「僕」がすべてを手放して、明け渡したときが「パァッ!」なのです。
(ここまで)
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