主人の愛が届き、主人を本気で愛し出したとき「鋭い直感・シンクロニシティ」を発揮するでしょう。 | 地球の愛と光・本来の姿へ

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ですが、恐怖、心配する価値観を教えられてきました。
恐怖思考が現実になります。恐怖を捨て愛と楽しい思考に!
年々、気が付く人が増え、本来の地球に変わる時期が来ています。
https://dreamgo.sakura.ne.jp/20110311/

主人の愛が届き、バディもまた主人を本気で愛し出したとき「鋭い嗅覚(直感・シンクロニシティ)」を発揮するでしょう。

転載元:もっと あの世に聞いた、この世の仕組み
https://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/abfcea3f82cf759c9d0ef4c683a92c94

(ここから)


まず、今回の例え話においては、これまでお話してきた様々な例え話、特に「悟り系」のお話は一旦忘れてください。

「時間は幻想である」とか「すべてはひとつである」とか「未来はすべて決まっている」とか、そういった類の話と今回の話をごっちゃにすると、わけわかんなくなっちゃいますんで。

できるだけ日常感覚に近い、シンプルなカタチで『心の中を覗いてみよう』というお話したいと思います。


「心の中を覗く」と言っても、人様の心の中ではございません。自分の心の中です。

その心の中に、「現実認識を担当する自分(主人)」と「思考と感情を司る、忠犬バディ」が住んでいます。



ふたりは切っても切れないパートナー。物心ついたときから常に一緒です。



互いに幼いころはルール無用。無邪気にじゃれ合い、楽しく、仲良く暮らしていました。

泣きたいときに泣く。動きたいときに動く。怒りたいときに怒る。笑いたいときに笑う。休みたいときに休む。

どんな感情が起こっても、「わっ」とじゃれ合うことで、感情や思考を後に引きずることなく、しっかり発散しきっていました。

互いの無垢さ、無邪気さゆえの、良好な関係でした。


そしてそのまま時は流れ、二人が成長し、徐々に社会との関係を構築していく頃。

主人とバディの良好だった関係が徐々に崩れだしていきます。

幼少期、二人はとても無邪気に遊んでいましたが、そこはやはり、じゃれ合っていただけ。バディのお世話をしなければならない主人自身も幼かったため、バディを「躾ける」ということが全くできていませんでした。

そう。この心の中、住んでいるのは主人とバディの二人きりのため、自分以外にバディのお世話をしてくれる誰かはいないのです。

社会性が求められる環境に身を置きながらも、バディの躾けが適応できていないため、現実認識を担当している心の中の自分に「あれ?なんか上手くいかない。思い通りにならないぞ?」という感覚が生まれてきます。

その後も徐々にバディ(思考と感情)の行動が、主人の思惑を離れて一人歩きしだしますが、「バディには躾けが必要だ」ということを知らない主人は、訳の分からぬまま、社会システムと自分の間に違和感を感じます。

その違和感を解決しようと、主人の意識はますます、心の中(精神性・スピリチュアリティ)よりも外界に向いていきます。(バディとの付き合いは社会との関わり以前からあったため、成長過程で拡大した違和感は、成長過程で接触が増した外界側にあるのではないかと思ってしまうんです。)

それに輪をかけ、興味や関心をひく魅力が、外界には溢れています。

バディが主人に「あそぼっ!」と近寄ってきても、主人は「ゴメン、いまそれどころじゃないんだ」って感じで取り合ってくれません。



そしてバディはストレスをため、懐かず、やりたい放題の狂犬へと変貌していきます。


人に好かれるように。

人に嫌われないように。

競争に勝てるように。

せめて負けないように。

成功できるように。

失敗しないように。

安全でいられるように。

危機を回避できるように。

社会との関わりが密接になるほど、様々な思考や感情が渦巻きはじめますが、相変わらずその思考と感情を司っているバディの躾ができていないままなので、主人はバディに振り回される人生になっていきます。




もう、心の中は、すっかり言うことを聞いてくれなくなったバディのやりたい放題。しっちゃかめっちゃか。



この心の中にすむ主人は、このしっちゃかめっちゃかの状況を「現実」として捉えます。

そしてその部屋を荒れ放題にした主犯は、主人ではなくバディ。

こうして「思考(バディ)が現実(受け入れたくない荒れた部屋)をつくりだした」わけです。


主人はその状況をみて、このままではいけないと思い、部屋を片付けます。

しかし、片付けても片付けても、またバディが荒らしてしまうのです。


「バディ!どうして僕の言うことをきいてくれないんだ!」

躾を怠った自分を棚に上げてバディを叱りつける主人。

それに腹を立てたバディは、主人に噛みつきます。



ジクジクといつまでも止まない痛みが心の中に…。


それだけにとどまらず、バディの暴走はいたるところで現れます。

外を歩けば他者に吠えまくり、



主人がモチベーションを発揮したい時に動かなくなり、



夜の遠吠えがうるさくて眠れもしない。




バディのやりたい放題に、すっかり主人も疲労困憊。

やりたいことをやろうとか、人生を謳歌しようとか、夢と希望を胸に抱いてとか、そんなことに意識を向けられるほどのエネルギーは、もうなくなってしまいました。

部屋の掃除で精一杯。それすらも徐々にどうでもよくなってしまうほどに疲れてしまいました。

「思考は現実化する」と言われても、その思考が自分の言うことを聞いてくれないのですからお手上げです。




さてこの後、主人の運命やいかに。

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心の中を覗いてみよう(後編)

https://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/dece02350371fb366eed5dd63fab4893

自分を苦しめるとわかっていても、感情が抑えられない。

頭を休めてたくても、思考が止まらず眠れもしない。

こうした心の葛藤は、狂犬と化してしまったパートナー、バディの暴走です。

主人とバディのパートナーシップが崩れ、主従関係が逆転したまま、あちこちで解決策を模索してもあまり上手くいきません。

「引き寄せの法則」や「成功哲学」などで紹介されている様々なメソッドは、このパートナーシップが健全な状態で初めて有効になるものがほとんどだからです。


では、このパートナーシップを取り戻すにはどうしたらいいのでしょうか。

それにはもちろん、このバディを躾けなければならないのですが、いきなり躾を始めようと思っても、これもなかなか上手くいきません。

バディがどこまで機嫌を損ねてしまっているか、その度合いが、その後の躾けやすさと比例します。

しかし、どんなにバディが機嫌を損ねていても、躾ができないわけではありません。

なぜなら、バディも主人との健全な関係を、どこかで望んでいるからです。


バディの悪戯がエスカレートしてきた原因はただ一つ。

主人にかまってもらいたかったから。

自分に関心を向けてもらいたいがゆえに悪さをし、必死に気を引こうとしてきたのです。


「怒らないように」や「悲しまないように」という様な『感情の抑制』は、大声で吠えまくっているバディを無理矢理押さえつけ、「吠えるな!」と叱りつけているのと同じ状態。

それで素直におとなしい良い子になるはずはありません。むしろ余計にストレスを溜めてしまいます。

また、「心に静寂を」と、目を閉じ深呼吸を繰り返すのは、バディを怒らせないよう刺激しないよう、物音を立てず静かにコソコソ暮らすことに似ています。

その時は良くても、また主人が活動を始めようとすれば、その気配に気づいたバディが暴れ出してしまいます。

「毎日瞑想していても、気持ちが落ち着いているのはその時だけで、日常生活に戻ると、結局思考も感情もコントロールできなんです」という経験をされている方も多いのではないでしょうか。

宗教や精神世界、成功哲学や処世術などに答えを求め、情報集めをしている人は、『はじめてでもよくわかる!正しい犬のしつけ方』という教本を探し回っているのと同じです。

バディのしつけは、「子犬のうちからではなく、すっかり成犬に成長しきっている狂犬を躾ける難しさ」に似ています。

教本どおりにやってみても、なかなかその通りになんてなってくれません。

「ああ、この本に書かれていた方法でもうまくいかなかった。よし、もっといい教本を探しにいこう…」

それを繰り返すうちに、部屋には無数の「しつけ本」が山積みになってしまいます。

「ああ、どこをどんなに探しても真理も法則も見つかりゃしない…」

でも、問題はそこではありません。

バディが必死に「僕を見て!」と吠えまくっているのに、主人はそれを無視して読書に夢中。

そう。本当に目を向けなければならないのは、「教本」ではなく「バディ」の方です。


昨今目にすることの多くなった「ありのままを受け入れる」という言葉の意味は、「僕を見て!もっとかまって!」と叫んでいるバディを受け入れることです。

「こんな心の中が乱雑になったわたしは、本当の私じゃない。もっと健全な心の状態になったわたしが、ありのままのわたしのはずなのよ!」と、現状否定しているうちは、「ありのまま」にかすりもしていません。


以前からお話している「現状を否定しないこと」「感情を味わい尽くすこと」の大切さは、「おかんむりのバディと真摯に向き合い、彼の怒りや哀しみをしっかり受け止めること」を指しています。

自分を振り回している思考や感情を否定したり、目を背けたりしても、なにも解決しません。むしろバディはますます主人に刃向かう様になってしまいます。


躾に入るその前に、まずはちゃんとバディと向かい合うことが大切です。

「僕を見て!もっとかまって!」と叫んでいるのですから、もっと見て、もっとかまってあげれば、徐々にバディは納得してくれます。

「ああ、よかった。ようやくバディが少しおとなしくなってくれた…」と思っても、躾に入るのはまだ早いです。

なんせ、もう何年、何十年分もの鬱積を、バディは抱えてきたのですから。

ここでまた「ご主人風」を吹かせて「よし、じゃ、僕の言う通りにしてごらん」なんて言われたら、バディもまた「なんだとこの野郎!」とへそを曲げてしまいます。

じゃ、どうすればいいのか。

それは、『バディに土下座』です。

これまでの人生で、どれだけバディに振り回されて嫌な思いをしてきたとしても、ここは誠心誠意、バディに謝りきるしかありません。




ごめんなさい。

許してください。

愛しています。

ありがとう。



Σ( ̄Д ̄;) 「あ、これどっかの教本に書いてあったヤツだ! なのに、全然見当違いのとこに、この言葉向けてた! …ってか、ただ闇雲に唱えてた! そりゃ、バディの怒りも哀しみも薄らぐわきゃねーよなぁ!」

それに気づいたら、あとは本気でバディに「ごめんなさい・許してください・愛しています・ありがとう」を伝えなければなりません。

同じ心の中で育ったバディには、主人のウソも演技も一切通用しません。大和田常務の様な「イヤイヤな土下座」では、ちっとも納得してくれないんです。

バディが本当に許してくれるまで、真摯に、真剣に、「ごめんなさい・許してください・愛しています・ありがとう」。

主人の誠意が伝われば、徐々にバディにも「もういいよ。わかったよ」という気持ちが生まれるハズです。

それでもまだ、長年裏切り続けられてきたバディは、時々「その気持ち、本当?」と、主人を試すように悪戯をしたりします。

そんなバディの悪戯にも、「僕の事、試してるんだよね。だいじょうぶだよ、バディ」と、ドッグランで思いっきり走らせてあげて、たまったモノを発散させてあげましょう。




こうして少しずつ、二人のパートナーシップは健全さを取り戻していきます。

ここまできて、ようやく躾の時です。

いきなり、あの憧れのドッグトレーナーのように高度な技(奇跡)を望んでも、上手くはいきません。

「お手」「伏せ」。まずは「動いて欲しい時に動く、止まって欲しい時に止まる」といった基本的なところから。



そしてまた、態度も「主人とペット(主従関係)」ではなく、「かけがえのない、対等なパートナー」として。


その絆が深まるごとに、自己矛盾のない、健全な流れが人生に現れていきます。




そして、主人の愛が届き、バディもまた主人を本気で愛し出したとき。

バディが持つその「鋭い嗅覚(直感・シンクロニシティ)」を主人のために発揮するでしょう。




「ここ掘れ ワンワン!」



Special Thanks /Keisuke Oda(イラスト提供)

(ここまで)

ありがとうございます。
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森林の中の光の撮影です。

 

 

引き寄せの法則、宇宙の法則

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