人間一人ひとりが保有している「思い込み」や「固定観念」こそが、目の中にある鱗の正体。
転載元:もっと あの世に聞いた、この世の仕組み
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幻想見聞録
Die Schlange, welche sich nicht hauten kann, geht zu Grunde. Ebenso die Geister, welche man verhindert, ihre Meinungen zu wechseln; sie horen auf, Geist zu sein.
The snake that cannot shed its skin perishes. So do the spirits who are prevented from changing their opinions; they cease to be a spirit.
Friedrich Wilhelm Nietzsche
脱皮できない蛇は滅びる。
貴意を脱ぎ捨てることを妨げられた精神もまた、同様である。
フリードリヒ・W・ニーチェ
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『目から鱗が落ちる』とは、「何かがきっかけとなって、急に物事の本質・実体などがよく見え、理解出来るようになる」ということです。
その背景にあるのは、それまで自分の抱えていた固定観念の喪失や崩壊。
「新たな知識を得る」ことによってではなく、「保有していた思い込みが喪失」されることによって経験されるのが、ウロコポーロです。
つまり、人間一人ひとりが保有している「思い込み」や「固定観念」こそが、目の中にある鱗の正体。
それは「ネガティブ」と言われる要素だけではなく、ありとあらゆる概念が含まれ、僕たちが当たり前に活用している「常識」や「通説」、「信念」や「信仰」なども含まれます。
この鱗のことを、精神世界では「マインド」などといった名称で呼んでいます。
人間が経験するあらゆる苦しみは、この鱗の量に比例します。
鱗を重ねていくごとに、どんどん世界が歪んで見えていきます。
その歪みが、そのまま苦しみや痛みとなって感じられます。
しかし、その人にとって、どんなに世界が歪んで見えていても、世界そのものが歪んでいるのではありません。
歪んで見せている「鱗」があるだけなんです。
いや、もう少し正確にお話するなら、『そもそも「世界」というものが実在していないのに、鱗があることによって、それが実在しているかのように錯覚してしまっている』という方がいいのかもしれません。
僕たちが感じているこの「世界」は、存在はすれど実在はしないマトリックス(超バーチャルリアリティ)です。
もし、このことを認められないのであれば、是非実在する「世界」というものを探してみてください。
突き詰めていけばいくほど、「世界」どころか「社会」や「国家」、あなたの勤める「会社」や、通っている「学校」も実在しないことがわかっていくでしょう。
「これはこれである」「あれはあれである」
「私は○○である」「彼は○○でなければならない」「彼女は○○をしてはならない」
「この事態は○○である」「この状態に私は○○な対応をすべきである」
などといった鱗の束が、その人独自のマトリックス(仮想現実)を生み出します。
このことを逆に捉えると、そういった観念から解放されるごとに、世界の見え方が変わっていく、マトリックスから脱していく、ということになります。
そして、あるレベルまで鱗が落ちると、世界の見え方が急激に転換します。
でもそれは、「ネガティブ(不幸)(負)が、ポジティブ(幸福)(正)になる」という質のものではありません。
「ネガティブ」も「ポジティブ」も、どちらも「鱗」であったことに気づく地点です。
「自分」も「他人」も「世界」も「時間」も、すべてが「鱗」を通して見えた幻影であったことに気づく地点です。
そしてその気づきは、一瞬の出来事です。
「じわじわとゆっくり目から鱗が落ちた」という経験をした人はいないと思います。
ウロコポーロは、「あっ!!」というインパクトがあってこそのウロコポーロです。
「あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」と、時間をかけて目から鱗が落ちた経験はありませんし、そういう人を、見たこともありません。
そしてまた、「わたしの目から鱗は落ちたでしょうか?」と、尋ねるのも何だか変な話です。
ウロコポーロは、「あっ!!」という明確な自覚があってこそのウロコポーロですから。
でも、人によって「一度に何枚の鱗が落ちたか」という差はあり得ます。
一枚ずつ落ちていけば小さな気づきの連続で、徐々に世界が変わっていくでしょうし、一気に何枚もの鱗が落ちれば、それに比例しただけのインパクトを感じることと思います。
で、その中に、日常の気づきとはちょっと次元の異なるウロコポーロ・ポイントが存在します。
そのポイントの特徴は、意識ステージの移行を伴うことです。
このステージの移行によって、理解できる法則や運用するツールが異なってきます。
このことは、また改めてご説明していきたいと思います。
さて。
ウロコポーロは、目の中に鱗があってこそ、はじめて経験できる喜びです。
もともと鱗の無い人が、ウロコポーロを経験することはできません。
さらに。
ウロコポーロは、目の中の鱗が、どんな鱗なのかがわからないからこそ、面白さがあります。
「うわっ!」とか「えええっ!!」という驚きは、それを想像もできなかったからこそ得られるものです。
既知の中に、驚きはありません。
だからこそ人は、自分が当たり前に実現できることを叶えても、そこに喜びは見出しづらく、なかなか叶いそうもないことが実現することの中に、確かな手応えや喜びを感じます。
鱗の量が増えることは、間違いなく苦しみを増やすことに繋がります。
しかしながら、鱗の量が多ければ多いほど、それが落ちたときの喜びは大きなものとなります。
視力のいい人が、わざわざ度の強いレンズの眼鏡をかけていると思ってください。
度数が合わなければ合わないほど、その眼鏡を外した時に開ける視界の良好さに感動することでしょう。
それは、「視力が矯正されたことによる喜び」ではなく、「もともと視力に問題がなかったことを知る喜び」です。
ウロコポーロの感動が小さくなるけど、その分苦しみを少なくするか、それとも、苦しみを沢山抱えて、その分ウロコポーロの感動も大きくするか、その選択・楽しみ方は、自由です。
とにもかくにも、自覚の有無にかかわらず、この世はこの「ウロコポーロ」を楽しむための仮想現実世界です。
いうなれば、神が創り出したゲーム、超リアル・オンラインRPG『幻想見聞録~ウロコポーロの冒険~』の世界。
このゲームは、人智を超えた、神の創造性によって生まれたクオリティを誇ります。
そのクオリティの高さゆえ、あなたはゲームの世界にのめり込みすぎ、ゲームの「キャラクター」になりきってしまいました。
ゲームの世界の外の次元にいる「プレイヤー」であることを、すっかり忘れてしまいました。
なんせ、誰もが納得の、とんでもない「このリアルさ」なのですから。
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このゲームをプレイする際の「意識」が、「キャラクター」の次元にあるとき、それは「自我」や「顕在意識」といった呼ばれ方をします。
そして、「プレイヤー」としての次元にあるとき、それは「ハイヤーセルフ」や「高次の自分」といった呼ばれ方をします。
さらに、意識が「ゲーム開発者」としての次元にあるとき、それは「真我」や「潜在意識」といった呼ばれ方をします。
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もしアナタがプレイヤーであることを忘れ、キャラクターと同一化してしまっていても、大丈夫。
そのことを嘆かないでください。
実は、その「忘却」すら、ゲームの一要素(ファーストステージ)として用意されたものだからです。
(ここまで)
ありがとうございます。
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森林の中の光の撮影です。
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