目覚め。「私はマリオだ」と思い込んでゲームをしていた人が、「あ、俺、マリオじゃない!プレイヤーじゃん!」と我に返る。
転載元:もっと あの世に聞いた、この世の仕組み
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(ここから)
精神世界を学んでいく中で、「自我を捨てる」だとか「自我を手放す」なんていう表現に出会うことがあります。
僕も、お話の流れ上、そういった言い方をすることがあります。
ですが、厳密にいうと、自我は捨てることも、手放すこともできません。
なぜなら、捨てたり手放したりする何かが実在しない「まぼろし」だからです。
「自我」は、存在しますが、実在していないのです。
このこと、上記の言葉だけだと、ちょっとわかりづらいと思いますので、あるものに例えてお話したいと思います。
「自我」は、テレビゲーム『SUPER MARIO BROS.(スーパーマリオブラザーズ)』に出てくる主人公、「マリオ」のようなものです。
「マリオ」と、その名前を聞くだけで、多くの方がパッとあの髭のおじさんを思い出せるように、マリオは皆さんの記憶の中に、確実に存在しています。
なんせ、「ゲーム史上、世界で最も知られているゲームキャラクター」として、ギネスブックにその名が記されるほどですからね。
でも、その「存在」はゲーム上に限っての話。あくまで架空の存在です。
マリオのコスプレをしたおじさんに会うことができるとしても、それはマリオと会ったことにはなりませんよね。
マリオがマリオとして、実在しているわけではないのです。
「マリオ」は、存在しますが、実在していません。
「自我は、存在するけど、実在しない」というのは、そういうニュアンスの意味です。
あのゲーム上でマリオが死んだとしても、マリオは実在しませんから、実際は何が死んだことにもなりません。
あのゲーム上でどれだけコインを得ようとも、実際は何も得たことにはなりません。
それと同じように、
自我を捨てたとしても、自我は実在しませんから、何を捨てたことにもなりません。
自我が死んだとしても、自我は実在しませんから、何が死んだことにもなりません。
自我が何かを得ようとも、実際は何も得たことにはなりません。
いま現在「自分」と思っている《自分》は架空の存在であり、本当は実在していないんです。
いわゆる「目覚め」と呼ばれる体験は、その《自分》というものが実在しないことを見抜く、そのことです。
それはまるで、「私はマリオだ」と思い込んでゲームをしていた人が、「あ、俺、マリオじゃない!プレイヤーじゃん!」と我に返るのと、同じようなものです。
想像してみてください。
もし自分が「プレイヤー」としての自覚を失い、「私はマリオである」とキャラクターとすっかり自己同一化した状態で『SUPER MARIO BROS.』をプレイしていたとしたら……。
多分、様々な障害を目の当たりにして戦々恐々。「Bダッシュ」すらできないと思います。
いや、マジで。
だって、ちょっとカメにぶつかったぐらいで死んじゃうぐらい貧弱なおじさんなんだもの(笑)。
あれほど驚異的なジャンプ力で、さらには素手や尻餅でレンガを崩せるぐらいなのにね。
……あ、すいません。横道にそれました。
キャラクター(自我)と自己同一化していると、ゲーム(架空の世界)が現実のように感じられ、それ故に目の前にある状況は緊迫したものになってしまいます。
しかし、プレイヤーとしての意識にシフトすることができたら……。
目の前にあるゲーム画面に何の変化がないとしても、きっと大きな安堵が訪れることでしょう。
そしてまた、プレイヤーとしての自覚をもって、それまでより軽快にゲームを楽しむ事ができます。
つまり、「自我を捨てよう」というメッセージは、自ら築き上げてきた「キャラクター(自分像)」との自己同一化をやめよう、というニュアンスのものです。
そこで捨てるのは「自分像(もしくは世界観)」という『イメージ』でしかありませんから、実質的には、何を失ったことにもなりません。
なので、本当は何も恐れることではないんです。
(ここまで)
ありがとうございます。
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