自我(エゴ)の壁がなくなった時、本当の自分と大いなる存在が一つとなり、本来の姿(全体)となります | 地球の愛と光・本来の姿へ

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自我(エゴ)の壁がなくなった時、本当の自分と、大いなる存在が一つとなり、存在本来の姿(全体)となります。

転載元:もっと あの世に聞いた、この世の仕組み
http://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/21cc344a337a9f1e8e5f4b36f7c49e06

(ここから)

「真我という錯覚」

さて、まずは精神世界や宗教で語られている内容の「前提」をご紹介させていただきました。

拙い説明ではありましたが、ご理解いただけましたでしょうか?

「存在本来の完全性を発揮する為、その完全性を妨げているものを手放しましょう」というのが、精神世界・宗教の「前提」です。

ここで気をつけていただきたのが、この前提を理解出来ていない「にわか精神世界」・「エセ宗教」の類です。

真我の本当の意味を理解・体験できていないため、その語りは、自我(エゴ)観点からの平面的なモノとなってしまいます。

立体的な解釈が出来ていないため、その論法は「アナタには、また、アナタの人生には○○が欠けています。」という観点からの脅しに陥りがちです。

「アナタが幸せになれないのは信心が足りないからです。その欠落を補うために、仏様を、イエス様を、エル・カンターレを拝みなさい。」とか、「アナタが不幸なのは感謝が足りないからです。その穴を埋めるために、ありがとうと唱えなさい。」とか、「アナタに不運がつきまとうのは、先祖供養に問題があるからです。その欠陥を修復するために、お線香は3本立てるようになさい。」とか…。

なにかと、不安や苦しみを補う為の何かを「付け加えよう」とします。

こういったおかしな論法に巻き込まれてしまうのは、巻き込まれた人が悪いのではありません。巻き込んだ人が悪いのでもありません。両者の抱える固定化された思考パターン、つまり自我(エゴ)が「優越感を欲したがる」とか「いつも不足を感じてる」という特性をもっているからなんです。

自我(エゴ)自体が「私には(私の人生には)何かが欠けている」という「不安」が大好きな為、「欠陥・欠落を埋めてあげますよ」という言葉や状況には、ホイホイと飛びついてしまいやすいんです。

特に、人を苦しみから解放することではなく、ビジネスが目的となってしまっている宗教は、真我の発見を手伝うことではなく、このような自我(エゴ)が喜ぶアレコレ(物質や環境だけに限らず、知識や思想、習慣なども含みます)を与えるという手法を用います。

簡単にお金を落としていってくれるのは、真我(智慧)ではなく、自我(無知)の方だからです。

また、お金とは別に、“教祖”や“霊能者”、“チャネラー”などといった「特別な能力・才能を持つ、特別な存在」という優越的な肩書き、名声を抱えたがるのも、自我(エゴ)の力です。(※注:霊能やチャネリング能力そのものを否定しているわけではありません。)

本当に真我を発見できた人は、「自分は何者でもなかった」ことに気付いた人です。
たとえそのような能力や才能があろうとも、それを押しつけたり、ひけらかすようなことはありません。

ですから、「私の霊視によりますと…」とか「私には特殊なリーディング能力があります。今日は時間があるので、特別に観てしんぜよう。」などと“人とは違う特殊能力”をアピールし、なかば強制的に話を進めていく方の話は、「あ、この人のエゴが、満足しようと頑張っているのね」ぐらいにみて聞き流していた方が賢明です。


さて、偽宗教批判はこれぐらいにして、ここから先は、この「自我・真我」のお話をもう少し踏み込んで行きたいと思います。

まずは、前回使用した模式図を再確認してみましょう。




話をわかりやすくお伝えするためにこの図を書き起こしましたが、実は、この図には明らかな間違い(精神世界・宗教の混乱を招く原因のひとつ)が含まれています。

この図を見てから、そこに「ありのままの状態(真我)を発見しましょう。」とか「完全性を妨げるモノ(自我)を手放していくことなんです。」という説明を受けると、どうしても『自我(エゴ)を消すことによって、真我が現れる。』つまり『真我がある』と考えてしまいます。

実は、この『真我がある』という解釈に、混乱の原因(自我の罠・自我のサバイバル作戦)があるんです。


では、話を進めていきましょう。


「自我」は前回ご説明したとおり、「固定化された思考」が作り上げた偽りの個性です。(この「固定化された思考」の事を、僕は以前「思い癖」という言葉で表現していました。)

それは、自分の意思から離れ、無意識のうちに一人歩きし出す思考パターンのことです。

仮に、何分か思考を止めるということにチャレンジしてみてください。

アナタの「思考を止めよう」という意思に逆らい、決して止まろうとしない“思考”があることに気付けることと思います。

言葉として発する事はなくても、頭の中では四六時中なにがしかの独り言が繰り返されています。

アナタ自身が自覚していない、無意識に繰り返される思考ゆえ、アナタは思考が止まらずにいることすら忘れてしまっているのです。

それこそが“自分”という仮面をつけて、本来のアナタの意思から離れ、一人歩きしている自我(エゴ)です。

アナタはいつの間にか、アナタの意思を離れ自動的に繰り返される、この思考パターンのことを、“自分”だと思い込んでしまったのです。

アナタがまだ目覚めを経験してないのであれば、残念ながら、アナタが自分の考えや感情だと思っているそれは、アナタのモノではありません。

状況に応じて展開される自動プログラム(思考パターン)。それが算出した反応が、考えや感情として表れているだけなんです。

ですから、その考えや感情は、本当のアナタの考え(智慧)ではなく、自我の考え(マインド)なんです。

※自我(エゴ)がつくり出す思考。そのことを精神世界では「マインド」と呼んだりします。


とはいえ、この“思考”は、止めようと思っても止めることはできません。どんなに頑張ってもできません。

なぜなら、「思考を止めよう」という思いそのものが、やはり“思考”だからです。

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「真我という錯覚.2」

http://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/7e7942fea546b3eac3cc55447db43c47

アナタという存在の本質は、何者でもありません。

それが真実です。

その真実を認めようとせず、「個」というパーソナリティー・アイデンティティを確立したがるのが「自我(エゴ)」です。

必死に「何者かになろう」と、その方法を模索し「存在全体からの分離」を望むのが自我の最大特性。

ですが、元々が「何者でもない存在」なのですから、どうあがいても「何者か」になることはできません。

この不可能なことにチャレンジし続ける「空回り」こそが、釈迦の言う「ドゥッカ(苦)」や、イエスが説く「原罪(的外れ)」です。

何者かになろうと頑張れば頑張るほど自我(エゴ)が拡大し、自らを、また、周囲を苦しめる結果となります。


自我は、「自分(個性・アイデンティティ)」を存続させておく為なら、どんなことでもします。

どんな手を使ってでも「個」でありつづけようとします。

決して「全体(何者でもない、存在本来の姿)」へ溶け込もうとはしません。

なぜなら、全体へ溶け込み「個」でなくなるということが、「自我の死(消滅)」を意味するからです。

自分が幻想であることに気付いていない幻想が、夢から覚めることを恐れているのです。


『真我がある』という錯覚は、そんな自我が生き残りをかけたサバイバル作戦の一つです。





では、上記を踏まえて先日の文章と模式図を確認してみてください。

「アナタという存在の本質は完全・完璧なものです。アナタはアナタのままでいいのです。ですから、他の何者かになろうなんて、エゴを肥大化させる様な努力は必要ないのです。さぁ、ありのままの状態(真我)を発見しましょう。アナタがこれまで苦しんできたのは、また、なにかしらの不満を抱えていたのは、その人生に何かが欠けていたからではありません。幻想の自分(固定化した思考)に飲み込まれ、本来の完全性を発揮出来ていなかったからなのです。アナタが幻想の自分から離れ、ありのままの状態であるために精神修行が必要となるのです。“必要となる”と言っても、それは物質や新たな知識を得ることではありません。完全性を妨げるモノを手放していくことなんです。」




文章自体は真実を指し示していますが、模式図はこの文章を歪曲して解釈した「自我目線での模式図」です。


「自我が消失すれば、真我を発見できる。」

このことを、自我(思考)は自らの生き残りを賭けて、次のようにアウトプットしました。




「自分の内側奥深くには、わたし本来の光り輝く“真我”という姿がある。」


これなら、自我が消えてもなお「光り輝く個性」、つまり「真我」という名の「何か」を残すことができるからです。

つまり、自我は「個」の消失を避けるため、「真我」に何らかの「定義」を持たせ、そこに「個としての性質(自我)」を継承させました。


この「何か」のことを人は「魂」と呼んでみたり、「霊」と言ってみたり、「心」と名付けてみたり、「意識体」などと解釈したりします。

どんな名称であれ、そこに「定義づけ」を行い「個としての性質」を維持させようとするのです。

「個」である以上、これは「真我」ではなく「真我のふりをした自我」なんです。


このトリックに気付けないある人は、このように嘯(うそぶ)きます。

「この“光り輝く個性”の寄り集まりが“神”である。」


そんなのは大嘘です。神でもなんでもありません。

「光り輝く個性」などと自らを美化し、自分を神だと勘違いしている自己陶酔型エゴの塊です。

いまだ「個」に執着し続けている自我の姿です。


しつこいようですが、存在そのものは、何者でもないのです。


それを図にするとこうなります。





このエゴの中、「自」と「他」を分ける厚い壁の内側にあるのは…






















からっぽ。


「空(から)」、つまり「空(くう)」です。


自我(エゴ)という名の壁がなくなった時、壁の内にあった「空間(本当の自分)」と、壁の外にあった「空間(大いなる存在)」が一つとなり、存在本来の姿(全体)となるのです。

その時、“幻想の自分”の内側深くにあったもの、および“幻想の自分”を包みこんでいたあらゆるものこそが、本当の自分であったことに気付き、自分が“全て”であることを知ります。

“自分”が、自我(幻想・思考)から真我(空間・宇宙)へ逆転する瞬間です。


精神世界で『ワンネス(すべては一つ)』とか『私はアナタ。アナタは私。』と語られるのは、こういう仕組みがあるからです。


(ここまで)

ありがとうございます。
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森林の中の光の撮影です。

引き寄せの法則、宇宙の法則

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