「物我対立」真にあるものは、ただ意識ばかりである。夏目漱石
転載元:もっと あの世に聞いた、この世の仕組み
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昨晩、ズボンを履かないまま外出し、渋谷近くの公園でパンツ一丁になっている自分にようやく気づき、あわててそこらの芝生に落ちていたスカートを履いて逃走する
という夢をみました。
なにこの荒唐無稽な展開。
これ、夢占い的には一体なんの暗示なんでございましょうーか?
そんなこんなでこんにちは、黒斎です。
さて、こんな「夢」と「現実」と呼ばれる日常生活、どちらにも共通しているものがあります。
それが「主観」。
自分が誰であれ、その状況を見て、感じている何者かがいる。
この主観によって浮かび上がっている世界が「徼」の世界です。
昔っからいろんな人が「それだけが世界じゃありませんぜ」ってなことを色々な表現で残してくれています。
「ああ、またその話かよ」という方も大勢いらっしゃるとは思いますが、一番大事なところなんで、繰り返させてくださいませ。
先日、『ラブ、安堵、ピース 』の編集をしてくださった橋詰さんが、非常に興味深いことを話してくれたんですね。
「黒斎さん、夏目漱石が『ノンデュアリティーとワンネス』を語ってたって、知ってました?」って。
(;゚ Д゚) …!? ええ? 夏目漱石が!?
ってなもんですよ。びっくりしました。
時は明治40年4月20日。
その日、漱石さんは東京美術学校文学会の開会式にて、学生さんに向けてある講演をしたんだそうです。
その講演内容は後に東京朝日新聞で連載され、また、『文芸の哲学的基礎』というタイトルで書籍化されています。
いや、お恥ずかしながら僕はまったくそんな講演があったことも、本の存在も知らなかったのですが、橋詰さんから「青空文庫にもありますよ。ぜひ読んで見てください!」と教えていただきまして。
で、拝見しましたら、驚愕しました。興奮しました。
うぉーーーーー!ってなもんです。
それで、是非皆様にもご紹介したくなりまして。
橋詰さんがFacebookで要点をまとめてくれてましたので、引用させていただきたいと思います。
*****
私はここに立っております。
そうしてあなた方はそこに坐っておられる。
他の言葉であらわしてみようならば、私は『我』というもの、あなた方は私に対して『私以外』のものという意味であります。
もっとむずかしい表現法を用いると「物我対立」という事実であります。
すなわち世界は『我』と『物』との相待の関係で成立しているという事になる。
あなた方も定めてそう思われるでありましょう、私もそう思うております。
誰しもそう心得ているのである。
ところがよくよく考えて見ると、それがはなはだ怪しい。
よほど怪しい。
通俗には誰もそう考えている。
私も通俗にそう考えている。
しかし退いて不通俗に考えて見るとそれがすこぶるおかしい。
どうもそうでないらしい。
なぜかというと元来この『私』という――この『私』の正体がはなはだ怪しいものであります。
この手、この足、痒いときには掻き、痛いときには撫でるこの身体が私かというと、そうもいかない。
痒い痛いと申す感じはある。
撫でる掻くという心持ちはある。
しかしそれより以外に何にもない。
あるものは手でもない足でもない。
便宜のために手と名づけ足と名づける意識現象と、痛い痒いという意識現象であります。
要するに意識はある。
また意識するという働きはある。
これだけはたしかであります。
して見ると普通に『私』と称しているのは客観的に世の中に実在しているものではなくして、ただ意識の連続して行くものに便宜上『私』という名を与えたのであります。
『私』と、一たび建立するとその裏には、「あなた方」と、私以外のものも建立する訳になりますから、物我の区別がこれでつきます。
そこがいらざる葛藤で、また必要な便宜なのであります。
こういうと、私は自分(普通にいう自分)の存在を否定するのみならず、かねてあなた方の存在をも否定する訳になって、かように大勢傍聴しておられるにもかかわらず、有れども無きがごとくで、はなはだお気の毒の至りであります。
御腹も御立ちになるでしょうが、根本的の議論なのだから、まず議論としてお聴きを願いたい。
根本的にいうと失礼な申条だがあなた方は『私』を離れて客観的に存在してはおられません。
――『私』を離れてと申したが、その『私』さえいわゆる『私』としては存在しないのだから、いわんやあなた方においてをや、であります。
いくら怒られても駄目であります。
あなた方はそこにござる。
ござると思ってござる。
私もまあちょっとそう思っています。
います事は、いますが、ただ仮にそう思って差し上げるまでの事であります。
というものは、いくらそれ以上に思ってあげたくてもそれだけの証拠がないのだから仕方がありません。
普通に物の存在を確かめるにはまず眼で見ますかね。
眼で見た上で手で触れて見る。
手で触れたあとで、嗅いでみる、あるいは舐めてみる。
けれども前にも申した通り眼で見ようが、耳できこうが、根本的にいえば、ただ視覚と聴覚を意識するまでで、この意識が変じて独立した物とも、人ともなりよう訳がない。
見るときに触るるときに、黒い制服を着た、金ボタンの学生の、姿を、私の意識中に現象としてあらわし来きたるというまでに過ぎないのであります。
これをほかにしてあなた方の存在という事実を認めることができようはずがない。
すると煎じ詰めたところが『私』もなければ、あなた方もない。
あるものは、真にあるものは、ただ意識ばかりである。
金ボタンが眼に映ずる、金ボタンを意識する。
すると通俗の考えを離れて物我の世界を見たところでは、物が自分から独立して現存しているという事もいえず、自分が物を離れて生存しているという事も申されない。
換言して見ると己(おのれ)を離れて物はない、また物を離れて己はないはずとなりますから、いわゆる物我なるものは「契合一致」しなければならん訳になります。
物我の二字を用いるのはすでに分りやすいためにするのみで、根本義からいうと、実はこの両面を区別しようがない、区別する事ができぬものに「一致」などという言語も必要ではないのであります。
だからただ明かに存在しているのは意識であります。
そうしてこの意識の連続を称して俗に「命」というのであります。
――夏目漱石『文芸の哲学的基礎』より抜粋
*****
どーですか奥さん!
こう紹介すると、私は自分(普通にいう自分)の存在を否定するのみならず、かねてあなた方の存在をも否定する訳になって、かように大勢閲覧しておられるにもかかわらず、有れども無きがごとくで、はなはだお気の毒の至りであります。
あなた方はそこにござる。
ござると思ってござる。
私もまあちょっとそう思っています。
います事は、いますが、ただ仮にそう思って差し上げるまでの事であります。
というものは、いくらそれ以上に思ってあげたくてもそれだけの証拠がないのだから仕方がありません。
いくら怒られても駄目であります。
(ここまで)
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