2つの現実
元記事
http://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/b2e408cc9636267eb7d6b415220eeca7
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以前にも何度かお話させていただきましたが、このブログの趣旨は、何かの答えを提示することではなく、あなた自身が事象の本質を見抜き、自分の意思において世界と関わり合う事ができるようにお手伝いする事です。
ですから、これまでも、そしてこれからも、僕が皆さんにお伝えするのは「情報」ではなく、「ものの本質を見抜く能力」です。
その「ものの本質を見抜く能力」の事を仏教で「観自在」と言います。
読んで字の如く「観ること自在」という能力のことです。
そうそう、観自在菩薩の、その「観自在」です。
「見る」は現象を捉える能力ですが、この「観る」は本質を捉える能力です。
この2つは、似て非なるものです。
その違いを知らずにいると、間違っていること、勘違いしていることを本当のことと錯覚したまま生きることになりますのでご注意ください。
先日の講演会でも、その話をさせていただきました。
折角ですので、今日はこのブログ上でもそのお話をご紹介したいと思います。
事物を捉え、それを認識したことを、私たちは「現実(いま目の前に事実として現れている事柄や状態)」と呼んでいます。
私たち人間が何かを認識するための道筋は大きく分けて2つあります。
その認識経路をAとBということにしましょう。
一つ目の認識経路(A)に当てはまる言葉は「思考」。
事物を「データ」を通して認識とする流れです。
何かを見たとき、それが何であるかを自分の中にあるデータベースから検索・比較・検討し認識にする経路。
この経路で何かを認識した際の特徴は、その事物に必ず「定義」や「価値」、「意味」が付随していることです。
そして捉えた「何か」はそこに「名前」を得て、「何か」から「○○(名称)」というアイデンティティを持ちます。
先ほど「何かを認識するための道筋は大きく分けて2つある」と書きましたが、実のところほとんどの人間はこの(A)の認識方法しか知りません。
では、(B)はどのような経路かといいますと、そこには何もありません。
事物がそのまま認識となる経路です。
捉えた「何か」は定義も価値も意味も名前も付随することなく「何か」のまま認識されます。
この認識経路が、「悟り」と呼ばれるものです。
どちらの経路を通っても、その認識は「本当のこと(現実)」です。
ただし、この2つの「本当のこと(現実)」には大きな違いがあります。
Aの認識は思考を通した認識であるため、「私はこう思う」という域を出ることはありません。
「主観」を通した現実であるため、条件付きの「本当のこと」なんです。
ですから、事物を捉えた人物の思考が違えば、認識された「現実」は別物となってしまいます。
100人いれば、100通りの現実が出来上がってしまうわけですから、その現実を「本当のこと」とまとめてしまうには無理があります。
「私はこう思う、故に正しい」や「私は現にこうに感じている、だから本当」というロジックは、本当に「正しい」とは言えません。
なので、この「本当のこと」は、いくら自分が「本当」と思っていても、本当は「本当のこと」ではありません。(ああ、ややこしい)
この現実が「マトリックス」と呼ばれる思考(データベース)の世界です。
一方Bの認識は、条件を伴わない現実です。
誰にとっても、どこにおいても変わることのない「本当のこと」です。
性別・国籍が違っても、時代が変わっても、文化が変わっても、人間だけではなく、動物にとっても、植物にとっても共通する「本当のこと」。
それが「真実を超えた真理」「リアル・ワールド」です。
ですから、ね、あの先祖供養だとか、あの呪文だとか、ああいうのは全部「マトリックスの中においての現実」(幻想)に過ぎないんです。
(ここまで)
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ありがとうございます。
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