瓦礫
「もっと あの世に聞いた、この世の仕組み」から
http://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/36e9b9b67a0648e4d922c5a821637409
先日お話した「自分(わたし、という感覚)」が生まれる構造について、もう一度おさらいです。
本来ひと続きの空間の一部を、「架空の境界」によって分離したものが<わたし>という感覚を生み出します。
その「架空の境界」を作りだす5つのエレメントが「五蘊(ごうん)」です。
五蘊の中心となるのが、「色蘊(身体)」。
実際はこの身体も、「実体があるようでいて、ない」のですが、この話はどうにも受け入れがたいでしょうから、とりあえず「実体である」という感覚をベースにお話を続けます。
この「五蘊」が互いに連携しあい、空間の閉鎖が完了すると、<わたし>という分離感が完成されます。
五蘊の中心であった「色蘊(身体)」は、<わたし>の土台・基礎となり、その基礎の上に「受蘊・想蘊・行蘊・識蘊」の4つが「上物(うわもの/その土地の上に建っている建造物)」となります。
身体という基礎にのった、上物(受・想・行・識)。
これらを総じて「心(マインド)」や「精神」と呼びます。
いわゆる「死」は、この五蘊から「色」を司る身体が抜け落ちることですから、基礎を失った上物だけの「マインドの塊」が残ることになります。
この「基礎を失った建物」のことを、僕たちは「霊」と呼んでいます。
しかし、この「マインド」には、もはや「所有者」が存在しません。
本来は「身体」があることで「パーソナリティ(分離空間)」を保てていましたが、底が抜けてしまったため、そこにはもはや「誰それ」という分離空間が存在できないのです。
所有者を失った「マインド」そのものが、空間に漂うことになります。
基礎のない家は、一時的にカタチは保っていても、ちょっとしたことで簡単に倒壊します。
49日も建てば、建物は崩れ、瓦礫に姿を変えます。
「ひとりの個性・記憶」としてカタチをなしていたマインドがバラバラになり、廃材となって空間にばらまかれます。
まるで、秋川雅史さんが歌った、あの歌詞のように……
そこに<わたし>はいません。
千の瓦礫に、千の瓦礫になって、
この無限の空間に吹き渡っています。
そしてその廃材は、流れ流れて、いつかどこかで再利用され、また新たな家屋の一部として機能します。
この廃材は「マインド」のことですから、そこには様々な「記憶」や「感情」や「気質」などの断片が含まれています。
それが新たな身体と結びつくことで、ときに「前世(いまの<わたし>が出来上がる前の記憶)」として知覚されることがあるのです。
しかし、これは単に瓦礫の記憶でしかないので、現世においての<わたし>の「前世」とはいえません。
廃材の再利用にすぎないのです。
生きているのは、「建物(自我)」ではありません。「空間(命)」です。
「建物(自我)」に覆われたことによって生まれた閉鎖空間という、小さな命。
この閉鎖空間が「居間」であり、それを英語にすると「リビング(Living)」になります。
「Living」は、文字通り「生きている」を意味します。
どれほど建物のスクラップ&ビルドが繰り返されても、空間は空間でありつづけます。
「自我(建物)の終わり」はあっても、「生(空間)の終わり」はないのです。
--------------------------------
「どれほど建物のスクラップ&ビルドが繰り返されても、空間は空間でありつづけます。
「自我(建物)の終わり」はあっても、「生(空間)の終わり」はないのです。」
ありがとうございます。