“気づき”とは何か(その5)
「もっと あの世に聞いた、この世の仕組み」から
http://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/c0e1c506571d945b96064a92729640cb
お話の続きの前に、ちょっとだけコメント欄にいただいたご質問にお答えしておきたいと思います。
先日、こんな書き込みをいただきました。
「どうして気付いている、気付いていないって、第三者の黒斎さんが判断できるの?その人の断片しか見てないし、聞いていないんでしょ?」
こんな質問も、時々聞かれることがあります。
なので、この場を借りてお話しておきたいな、と思ったわけですが、なんといいますか、「気づき」のことを、難しく考えすぎていたり、特別なものと思いすぎていることはないですかね。
といいますのも、相手と意志や理解の共有がはかれているかどうかの確認は、誰もが日常的にできていることだと思うんです。
少し話をすればわかることもあるし、言葉はなくとも、相手の表情やちょっとした仕草などでも確認することができるはずです。
例えばです。
一昔前にとんねるずの石橋貴明さんがちょくちょく口にしていた「オナラじゃないのよ!オナラじゃないのよ!」というフレーズがあります。
これを、その響きの面白さだけに食いついて、テレビの前で「オナラじゃないのよ!オナラじゃないのよ!」とケラケラ笑いながら真似をしている小学生。
その子を見ながら、「いや、これはそういうことじゃないんだけどなぁ…」と苦い顔をしたお父さんとお母さん。
その後お父さんとお母さんは、「困ったもんだね」なんていう気持ちを込めて互いに目を合わせました。
そこには、言葉はなくとも、同じ理解、また、認識の疎通が図れていますよね。
……たとえが微妙に古いですか、そうですか。
別な話し方にしましょう。
「相手が気づいているか否か」は、先日のクイズを例にとっても確認できますよね。
先日のクイズ、Q1について話をしていた3人の友達がいて、互いに「あの答えは“S”だよね」と話していたとします。
A君はB君に尋ねました。
「B君は何をきっかけに気づいたの?」
B君は答えます。
「あぁ、ドーナツを食べながら、レモンティーを飲んでいたのさ」
そしてB君は続けて、テーブルを鍵盤に見立ててトトトンと弾きました。
A君はB君のその返答にクスリと笑いました。
彼が、その言葉の中に「ドレミの歌(ドはドーナツのド、レはレモンのレ)」を臭わせたことを察知できたからです。
たしかに、答えそのものからは少しずれた、断片的な返答ではありますが、彼が「ドレミ」の法則性に気づき、答えが“S”だとわかっていると確認できました。
しかし、C君はB君のその言葉と仕草に「きょとん」となっている様子。
そこで、B君はC君に尋ねてみました。
「C君は本当に法則に気づいてる?」
C君は答えます。
「もちろん!こないだD君に聞いたもん。キーワードは“いまここ”でしょ!」
A君とB君は、C君の返答に首をかしげてしまいました。「い、いまここ?」
C君の答えに、A君とB君は、「C君は、何か勘違いしているな(同じ理解を共有できていないな)(C君はD君に嵌められたな)」ということがわかりました。
A君「そういうことじゃ、ないよねぇ」
B君「ねぇ」
C君「ええ!?違うの?」
この時、A君とB君は、さほど会話を交わすこともなく、自分たちの理解が共有できていること、また、C君が気づきに至っていないことがわかります。
そんなわけで、相手が同じ気づきを経験しているかどうかは、そんな、ちょっとした会話や雰囲気などでもわかることは、ご理解いただけるかと思います。
と、いうことで。
脱線はこれぐらいにして、前回の続きに入っていきたいと思います。
ロープ(執着)から手を放し、「ヒャー!」となった僕は、その直後に想定していなかった感覚を味わいました。
「プライドが崩壊してしまったら、あとは地獄の苦しみ(抱えきれない惨めさ)が待っている」とずっと思い続けて生きていたのですが、実際には違っていたんです。
待っていたのは、「地獄の苦しみ」ではなく、なんとも表現しがたい「開放感」でした。
それまで抱え続けていた常識が「ぐるん!」と、反転してしまったのです。
気がつけば、「あれ?」という間に世界は逆さまになってしまいました。
それに伴い、感覚は「下降」ではなく「上昇」に切り替わりました。
その時初めて、自分の意識が「水の中(現象界の波動の中)」にいたことを知ったのです。
僕がずっと恐れ、抵抗していた、僕を引きづり下ろそうとしていた力は、「引力」ではなく、「浮力」だったことに気づきました。
(その後、これが般若心経で綴られている『遠離一切顛倒夢想(逆さまに解釈された幻想世界から遠く離れなさい)』のことだと思いました。それまで僕は、上を下、下を上と誤認した世界に生きていたのです。)
その後、その力(流れ)に抵抗せずにいると、そのまま未知の次元に出てしまったんです。
お風呂の中にピンポン球を沈めて、その手を放したら、その浮力で「ポン!」と空中へ出ていきますよね。
そのような感じで、意識が「水(苦しみ)」に覆われていた世界から、「空(何の抵抗もない世界)」に投げ出されたんです。
もう、その時の爽快感・開放感たるや、ふなっしーの「ヒャッハー!」どころではありません。
「目覚め」や「気づき」の記録の多くに、その経験で大笑いしたり、妙にハイテンションになっちゃったり、ということがあると、どこかで聞いたことがあると思います。
僕も実際に大きな歓喜を味わいました。
当時、その様子を目の当たりにしていた妻は、「この人の頭は壊れ、とうとう行くとこまで行ってしまった…」と嘆いておりました(笑)
しかし、その「ヒャッハー!」は、ずっと続くわけではありません。
ピンポン球は一度大きくジャンプしても、ピークを過ぎるとそのまま「スッ…」と、水面へと下降するのです。
そこにはもう、「ヒャッハー!」(高揚感)はありません。
クイズの答えがわかった時の喜びが、時間とともに薄れ消えていくのと同じです。
その後はただプカプカと、ユラユラと、水面に浮かぶ「くつろぎ」の状態です。
以前経験していた苦しみ(水圧)を、まったく感じさせない「空」に漂うだけです。
そして気づくんです。
頑張れば頑張るほど、上を目指せば目指すほど苦しんでいたその原因が、わざわざ自分から「水圧の高い場所」へ向かっていたからなのだと。
僕にとって、この「ヒャッハー!」の経験は、とても大きく、それまで抱え続けていた苦しみから一気に解放される出来事でした。
大きな衝撃を与え、人生を大きく変えた『気づき』そのものでした。
しかし、この『気づき』はまだ、世に言う『悟り』ではありません。俗に、『小悟』と呼ばれる小さな気づきです。
と、言うのも、水(現象界意識)から空の意識へ出たとしても、まだ、「空の中に漂う自分」という『分離意識(自我)』が、まだしっかり残っているからです。
と、いうことで。
コメント
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ありがとうございます。
引き寄せの法則、宇宙の法則