ビフォー・アフター2 | 地球の愛と光・本来の姿へ

地球の愛と光・本来の姿へ

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恐怖思考が現実になります。恐怖を捨て愛と楽しい思考に!
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ビフォー・アフター2

「もっと あの世に聞いた、この世の仕組み」から

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先日お話した目覚め前後での意識の変化。

それに伴う心の動きで明らかになるのが「幸せ」の見いだし方の違いです。


ファースト・ステージからセカンド・ステージへの意識のシフトには、因果を超えた気づきが必要です。

その「気づき」とは、これまで何度かお話してきた「情報の保有」と「理解」の違い。

どれほど優れた言葉に出会っても、それを「情報」として保有しているのか、それとも本当の「理解」に繋がっているのかで大きな違いが現れます。


歴代のマスターたちは皆、その気づきの向こうにある理解を語っていますが、ファースト・ステージの意識状態では、その言葉が示している真意を汲み取ることが困難です。

言葉が通じていても、言葉の意味は通じません。

数年前にお話した「通約不可能性」が現れてしまいます。

それが、「精神世界・宗教性の根幹は、言葉では理解できない」と言われる所以です。

また、阿部さんがよく「言葉(スローガン)を持ち歩くな」とお話するのも、これに通じます。

マスターたちは皆、「観念を壊すため」の言葉を紡いでいるにも関わらず、その言葉自体が「新たな観念」として保有されてしまうと、自由や喜びを実現させるはずの言葉が、新たな足枷となってしまうのです。




ファースト・ステージの意識は「時間の中(過去と未来)」を生きています。

セカンド・ステージの意識は「(時間を超えた)いま」を生きています。


この意識の立ち位置によって、同じ言葉の意味がまるで違ってしまいます。

「苦しみ」や「幸せ」、そういった普段当たり前に使っている単語の意味も、「時間の中」にある意味と、「時間を超えたところ」にある意味では、大きな違いがあるんです。


苦しみとは何か、幸せとは何か。

マスターたちは皆、その根本的な意味を様々な創意工夫で伝えようと努力してきました。

その代表的なものとしては、お釈迦さまが残した「苦しみ」についての理解でしょう。

緑の本の中でもご紹介しましたが、お釈迦さまはかつて、この「苦しみ」の質をいくつかに分けて説明してくれました。

「苦しみ」そのものが何であるかを理解せずに、それを超えることができないからです。

人は、何に苦しんでいるのか。何を超えようとしているのか。

彼はそれを「思い通りにならないから人生は苦しいんだよ」という軸で8つにカテゴライズしました。


1.生まれること

2.老いること

3.病むこと

4.死ぬこと

5.愛する人との別れ(愛別離苦)

6.嫌いな人とも顔を合わせなければならないこと(怨憎会苦)

7.求めても思い通りに得られないこと(求不得苦)

8.人としての肉体・精神があるがゆえに生まれる苦しみ(動植物と人間の大きな違い)(五蘊盛苦)


1~4の、どうにも避けられない4つを「四苦」、残りの4つを合わせて「八苦」。

苦悩を示す言葉、「四苦八苦」の語源です。


お釈迦さまが「苦しみ」をいくつかに分けて説明したように、「幸せ」をカテゴライズして説明したマスターがいます。

その一人が、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)です。

没後20年ほどになりますが、つい先日、このOSHOの講話記録が山川紘矢・亜希子夫妻の翻訳によって出版されました。

それはまさに、この「幸せとは何か」を語ったものです。

タイトルはズバリ『JOY』

緑茶成分やオレンジピール成分は含まれておりません。

また、スポンジやまな板の除菌もできませんが、心の油汚れがキレイに落ちる名著です。


少し、ご紹介しましょう。

このお話の中で彼は、幸せを4つにカテゴライズして説明しているのですが、これが本当に明快なのです。

その4つとは、

「快楽」「幸せ」「喜び」「至福」。


【快楽】肉体に根ざした、人生でもっともうわべだけのもの。単なる刺激。(動物的)

【幸せ】精神に根ざした、快楽よりもう少し洗練されたもの。しかし、快楽とあまり違いはない。(人間的)

【喜び】外側の何ものにも依存しない、内面的現象(瞑想的)

【至福】肉体的でも精神的でもスピリチュアルでもない、存在のもっとも深い中心に到達した状態(超越的)



「快楽」と「幸せ」は、ファースト・ステージにあり、「喜び」と「至福」はセカンド・ステージ、サード・ステージ以降で明らかになっていくものです。


ファースト・ステージにおける幸せは「条件」によってもたらされます。

「なにかによって」生まれる幸せ。

それはその条件の有無によって簡単に幸不幸が転じたり、「一時的」という条件を内在した、「依存型の幸福」です。


一方、「喜び」と「至福」には、依存対象(「~だから」という理由)が存在しません。

某かの依存対象を求めているエゴ(自分)が消えることによって見いだされる、存在に内在された幸福の質です。

この幸福は「得る」ものではなく「発露」されるものです。


皮肉な構造ですが、「求める」という意識がある限り、ファースト・ステージを超えることは出来ません。

セカンド・ステージ以降は意識が既に「満たされている」という状態にあるので、「求める」ということ自体が薄らいでいるんです。


これが、『引き寄せの法則』の中で語られる重要部分、「望みを叶えたいのであれば、すでにそれが叶ったかの如く振る舞いなさい」という言葉のもつ意味です。

「それが叶ったかの如く」とは、「依存対象が手に入ったかの如く」ではありません。

「依存対象を必要としていない」「求める必要性を感じない」「満たされている」「こだわりがない」という意識状態を指したものです。


目覚め前後の意識の違い。

そのひとつは、「幸福と条件は、関係しない」という理解の有無でしょう。

そしてまた、「条件を必要とする幸福は、本当の意味での幸福ではない」という理解の有無でしょう。

コメント

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ありがとうございます。

引き寄せの法則、宇宙の法則