エックハルト・トール「第2章 エゴという間違った自己のメカニズム その2」 | 地球の愛と光・本来の姿へ

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第2章 エゴという間違った自己のメカニズム その2
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第2章 エゴという間違った自己のメカニズム その2

所有という幻

何かを「所有する」、これはほんとうは何を意味しているのだろうか?
何かを「自分のもの(mine)」にするとは、どういうことなのか?
ニューヨークの街頭に立って摩天楼の一つを指差し、「このビルは私のものだ。私が所有している」と叫んだとしたら、あなたはとてつもなく金持ちか、妄想を抱いているか、嘘つきだ。
いずれにしてもあなたは一つの物語を語っているのであり、そのなかでは「私」という思考の形と「建物」という思考の形がひとつに溶け合っている。
所有という概念はそういうことだ。
誰もがあなたの物語に同意するなら、所有を証明する書類が存在するだろう。
あなたは大金持ちだ。
誰も同意してくれないなら、あなたは妄想患者か虚言症かもしれないということで精神科医のもとへ送られるだろう。

大切なのは、人が物語に同意してくれようとくれまいと、物語と物語を形成している思考の形は実はあなた自身とは何の関係もない、と認識することだ。
たとえ人が同意してくれても、結局は物語、フィクションであることに変わりはない。
多くの人は、死の床に就き外部的なものがすべてはげ落ちて初めて、どんなモノも自分とは何の関係もないことに気づく。
死が近づくと、所有という概念そのものがまったく無意味であることが暴露される。
さらに人は人生の最後の瞬間に、生涯を通じて完全な自己意識を求めてきたが、実は探し求めていた「大いなる存在としての自分」はいつも目の前にあったのに見えなかった、それはモノにアイデンティティを求めていたからで、つきつめれば思考つまり心にアイデンティティを求めていたからだ、と気づく。

「心の貧しい者は幸いです」とイエスは言った。
「天の御国はその人のものだからです」と。
「心の貧しい」とはどういうことか?
心に何の持ち物もない、何にも自分を同一化(アイデンティファイ)していない、ということだ。
そういう人はどんなモノにも、また自己意識と関係するどんな概念にも、アイデンティティを求めていない。
それでは「天の御国」とは何か?

それはシンプルな、しかし深い「大いなる存在」の喜びのことだ。
その喜びは、何かに自分を同一化するのをやめて、「心の貧しい者」になったときに感じることができる。

だからこそ、東洋でも西洋でも古くからのスピリチュアルな実践で、あらゆる所有が否定されてきた。
しかし所有を否定しても、それだけでエゴから解放されるわけではない。
エゴは何か別のものに、たとえば自分は物質的所有への関心を乗り越えた優れた人間だ、人よりもスピリチュアルなのだという精神的な自己イメージにアイデンティティを求めて生き延びようと図るだろう。

すべての所有を否定していながら、億万長者よりも大きなエゴをもった人たちがいる。
一つのアイデンティティを取り払うと、エゴはすぐに別のものを見つけ出す。
要するにエゴは何にアイデンティティを求めようとかまわない、自分を同一化(アイデンティファイ)するものが何かあればいいのだ。
消費文明批判や財産の私有制度反対も一つの思考、精神的な所有物で、所有そのものに代わるアイデンティティになり得る。
そのアイデンティティを通じて、自分は正しくて他者は間違っていると考えることができる。
あとで取り上げるが、自分は正しく他者は間違っているという考えはエゴイスティックな心の主たるパターンの一つ、無意識の主たる形の一つだ。
言い換えれば、エゴの中身は変わってもそれを生かしておく構造は変わらない。

これに関係して無意識に想定されているのが、所有というフィクションを通じてモノに自分を同一化すると、物質がもっているかに見える堅実性や恒久性のおかげで自分にも大いなる堅実性や恒久性が付与されるはずだということだ。
建物なんかはとくにそうだし、もっと都合がいいのは破壊することのできない唯一の所有物である土地だろう。
土地の場合は、所有ということの馬鹿馬鹿しさがとりわけあらわになる。
白人入植者が侵入してきたとき、北米先住民は土地所有という考え方を理解できなかった。
だからヨーロッパ人に、これも同じく理解を超えた書類に署名させられて土地を失った。
彼らは土地が自分たちに属しているのではなく自分たちが土地に属しているのだと感じていたのである。

エゴはまた所有と「大いなる存在」を同一視する傾向がある。
われ所有す、ゆえにわれ在り、というわけだ。
そして多くを所有すればするほど、自分の存在も豊かになる、と考える。
エゴは比較のなかに生きている。
私たちは、他人にどう見られているかで、自分をどう見るかを決める。
誰もが豪邸に住んで誰もが豊かなら、豪邸も富も自己意識を高めるのには役立たない。
それなら粗末な小屋に住み、富を放棄して、自分は他人よりスピリチュアルだと思うことで、自分のアイデンティティを取り戻すことができる。
他人にどう見られるかが、自分はどういう人間か、何者なのかを映し出す鏡になるのである。

エゴの自尊心は多くの場合、他者の目に映る自分の価値と結びついている。
自己意識を獲得するには他者が必要なのだ。
そして何をどれくらいもっていると見抜けない限り、自尊心を求め自己意識を充足させようとしてむなしい希望に振り回され、一生、モノを追い求めることになる。

モノに対する執着を手放すにはどうすればいいのか?
そんなことは試みないほうがいい。
モノに自分を見出そうとしなければ、モノへの執着は自然に消える。
それまでは、自分はモノに執着していると気づくだけでいい。
対象を失うか失う危険にさらされなければ、何かに執着している、つまり何かと自分を同一化していることがわからないかもしれない。
失いそうになってあわてたり不安になるなら、それは執着だ。
モノに自分を同一化していると気づけば、モノへの同一化は完全ではなくなる。
「執着に気づいている、その気づきが私である」。
それが意識の変容の第一歩だ。


欲望:もっと欲しい

エゴは所有と自分を同一化するが、所有の満足は比較的薄っぺらで短命だ。
そこに隠れているのは根深い不満、非充足感、「まだ充分じゃない」という思いである。
エゴが「私はまだ充分にもっていない」というのは、「私はまだ充分じゃない」ということなのだ。

これまで見てきたように、何かをもっている――所有――という概念は、エゴが自分に堅実性と恒常性を与え、自分を際立たせ、特別な存在にするために創り出したフィクションである。
だが所有を通じて自分を発見することは不可能だから、その奥にはエゴの構造につきものの「もっと必要だ」というさらに強力な衝動が存在する。
これが「欲望」である。
エゴは、もっと必要だという欲求なしに長いあいだ過ごすことはできない。
だからエゴを存続させているのは所有よりもむしろ欲望だ。
エゴは所有したいという以上に欲したいと願う。
だから所有がもたらす薄っぺらな満足はつねに、もっと欲しいという欲望にとって代わられる。
もっと欲しい、もっと必要だというのは、自分を同一化させるモノがもっと必要だという心理的な要求である。
ほんとうに必要なのではなくて、依存症的な要求なのだ。

エゴの特徴であるもっと欲しいという心理的な要求、まだ充分ではないという思いは、場合によっては肉体的なレベルに移行して飽くなき飢えとなる。
過食症患者は吐いてでも食べ続ける。
飢えているのは心であって、身体ではない。
患者が自分を心に同一化するのをやめて身体感覚を取り戻し、エゴイスティックな心を駆り立てる偽りの要求ではなく身体のほんとうの要求を感じるようになったとき、摂食障害は治癒する。

あるエゴは自分が欲するものを知って、冷酷に断固として目的を達成しようとする。
ジンギスカン、スターリン、ヒトラーなどはその並外れた例である。
だが彼らの欲望の奥にあるエネルギーは同じく強烈な反対方向のエネルギーを生み出し、結局は当人たちの破滅につながる。
そして他の多くの人も不幸にする。
前述の並外れた例で言えば、地上に地獄を生み出す。

ほとんどのエゴは矛盾する欲望をもっている。
また時が移れば欲望の対象が変化する。
欲しいのはいまあるものではない、つまりいまの現実ではないということがわかっているだけで、実は何が欲しいのかわからなかったりする。
苛立ち、焦燥感、退屈、不安、不満は、満たされない欲望の結果だ。
欲望は構造的なものだから、精神的な構造が変わらない限り、内容がどうであろうと永続的な満足はあり得ない。
具体的な対象のない強烈な欲望はまだ発達段階にある十代の若者によく見られ、なかにはいつも暗くて不満だらけどいう者もいる。

もっと多く欲しいという飽くことを知らない要求、つまりエゴの食欲さは地球の資源とつりあいが取れない。
このアンバランスさえなければ、地球上の全人口の食物、水、住まい、衣服、基本的快適さなどの物理的な要求は簡単に満たすことができるだろう。
エゴの食欲さは世界の経済構造、たとえばもっと多くを求めて争いあうエゴイスティックな存在である大企業などに集団的に現れている。
企業はひたすら儲けることだけを目的としている。
なりふりかまわず容赦なく営利という目的を追求する。
自然も動物も人々も、自社の社員さえも、企業にとっては貸借対照表の数字、使い捨てのできる生命のないモノにすぎない。

「私に(me)」「私のもの(mine)」「もっと(more than)」「欲しい(I want)」「必要だ(I need)」「どうしても手に入れる(I must have)」「まだ足りない(not enough)」というような思考の形は、エゴの内容ではなくて構造に付随する。
エゴの内容、同一化の対象は変わっていくだろう。
自分自身のなかにあるこの思考の形に気づかない限り、それらが無意識に留まっている限り、あなたはエゴの言葉を信じてしまう。
無意識の思考を行動化し、見つからないものを求め続ける運命から逃れられない。
なぜならこのような思考の形が作用している限り、どんな所有物にも場所にも人にも条件にも満足できるはずがないからだ。
エゴの構造がそのままである限り、あなたはどんな内容にも満足できない。
何をもっていようと、何を手に入れようと幸せにはなれない。
いつももっと満足できそうな他の何かを、不完全な自分を完全だと思わせ内部の欠落感を満たしてくれるはずの何かを、探し求めずにはいられない。


身体との同一化

モノ以外に自分を同一化させる基本的な対象は「私の(my)」身体だ。
身体はまず男か女だから、ほとんどの人の自己意識のなかでは男性であるか女性であるかが大きな部分を占める。
その性別がアイデンティティになる。
自分の性別への同一化は幼いころから促され、役割意識が植えつけられ、性的な面だけでなく生活のすべてに影響する行動パターンを条件づけられる。
多くの人たちは完全にこの役割に囚われているが、性別に関する意識が多少とも薄れかけている西欧より一部の伝統的な社会のほうがその傾向はいっそう強い。
そのような伝統的な社会では、女性にとっては未婚や不妊が、男性にとっては性的能力の欠落と子どもをもうけられないことが最悪の運命となる。
満たされた人生とは性別というアイデンティティを充足することだとみなされる。

西欧では物理的外見的な身体が、つまり他人と比較して強いか弱いか、美しいか醜いかが自意識に大きな影響を及ぼす。
多くの人々の自尊心は肉体的な力や器量、容姿、外見などと強く結びついている。
身体が醜いとか不完全だと思うために自尊心が萎縮して傷ついている人たちは多い。

本人が「自分の身体」にもつイメージや概念がまったく歪んでいて、現実とかけ離れていることもある。
若い女性がほんとうは痩せているのに太りすぎだと思うと、餓死しかねないほどのダイエットを強行する。
そういう女性にはもう自分の身体が見えていない。
彼女たちが「見て」いるのは身体に関する概念だけで、それが「私は太っている」あるいは「太りかけている」と告げる。
このような状態の底には心への自分の同一化がある。
この数十年、人々がますます自分を心に同一化させ、エゴの機能不全が強くなって、拒食症が劇的に増加した。
拒食症患者が心というおせっかいな判定者なしに自分の身体を見られれば、あるいはその判定者の言葉を信じ込む代わりにその正体に気づきさえすれば――自分の身体をきちんと感じ取れればもっといい――拒食症は快方に向かうだろう。

美しい容貌や肉体的な力、能力などと自分を同一化している人は、そういう資質が(当然のことながら)衰えて消えていくと苦しみを味わう。
それらの資質に上るアイデンティティそのものが崩壊の危機にさらされるからだ。
醜くても美しくても、つまりマイナスでもプラスでも、人はアイデンティティのかなりの部分を身体から引き出している。
もつと正確に言えば、自分の身体に関する精神的なイメージや概念を間違って自分だと思い込み、その思考に自分を同一化しているが、実は身体も他の物理的な形態と同じで、すべての形がもつ一時的なもので結局は滅びるしかない――運命を分かち合っている。

知覚に感知される物理的な身体はいずれは老いて衰え、死ぬ運命にあるのに、その身体を自分と同一視すれば、遅かれ早かれきっと苦しむ。
身体にアイデンティティを求めないということは、身体を無視したり嫌悪したり、かまわずに放置することではない。
身体が強くて美しく、精力的ならば、その資質を――それが存続するあいだは――感謝して楽しめばいい。
さらに正しい食生活や運動で身体のコンディションを改善することもできる。
身体を自分と同一視していなければ、美貌が色あせ、精力が衰え、身体の一部や能力が損なわれても、自尊心やアイデンティティは影響されないだろう。
それどころか身体が衰えれば、衰えた身体を通して形のない次元が、意識の光がやすやすと輝き出るようになる。

完壁に近い優れた身体をもつ人々だけが身体と自分を同一視するわけではない。
人は「問題のある」身体にも簡単に自分を同一化し、身体の欠損や病気や障害をアイデンティティに取り込む。
そうなると自分は損傷や慢性的な病気や障害に「苦しんでいる者」だと考え、人にもそう語る。
そして障害に苦しむ者、患者という概念的なアイデンティティをつねに確認してくれる医師その他から多大の関心を獲得する。
するとみ意識のうちに疾病にしがみつく。
それが自分の考える「自分自身」、アイデンティティの最も重要な部分になるからだ。
それもエゴが自分を同一化する思考の形の一つである。
エゴは一度発見したアイデンティティは手放そうとしない。
驚くべきことだが、より強力なアイデンティティを求めて、エゴが疾病を創り出すことだって珍しくはない。


内なる身体を感じる

身体への同一化はエゴの最も基本的な形の一つだが、ありがたいことにこれは最も簡単に乗り越えられるアイデンティティでもある。
ただしそのためには、自分は身体ではないと自分に言い聞かせるのではなく、関心を外形的な身体や自分の身体に関する思考――美しい、醜い、強い、弱い、太りすぎ、痩せすぎ――から引き推して、内側から感じられる生命感に移す必要がある。
外形的な身体がどんなレベルにあろうとも、形を乗り越えたところでは身体は生き生きとしたエネルギーの場なのである。

内なる身体への気づきに慣れていないなら、しばらく目をつぶって自分の両手のなかに生命感を感じられるかどうか試してみるといい。
そのときは、心に聞いてはいけない。
心は「何も感じない」と答えるだろう。
さらには「もっとおもしろいことを考えたらどうだい」と言うかもしれない。
だから心に尋ねる代わりに、じかに両手を感じる。
つまり両手のなかのかすかな生命感を感じるのである。
生命感はそこにある。
それに気づくには、関心を向けさえすればいい。
最初はかすかなちりちりした感触かもしれないが、やがてエネルギーあるいは生命感を感じることができる。
しばらく両手に関心を集中していると、その生命感は強くなっていくだろう。
人によっては目を閉じる必要もないかもしれない。
この文章を読みながら、「内なる手」を感じられる人もいるだろう。
次に両足に関心を移動させてしばらくそこに留め、それから両手と両足を同時に感じてみる。
そのあとは身体の他の部分――腿(もも)、腕、腹、胸など――を付け加えていって、最後には内なる身体全体の生命感を感じ取る。

この「内なる身体」は、ほんとうは身体ではなくて生命エネルギーで、形と形のないものとの架け橋だ。
できるだけしょっちゅう、内なる身体を感じる習慣をつけるといい。
そのうち目を閉じなくても感じられるようになる。

ところでへ誰かの話を聞きながら内なる身体を感じることはできるだろうか。
逆説的ながら、内なる身体を感じているときには、実は自分を身体と同一化していない。
また心とも同一化していない。
要するにもう自分を「形」と同一化せず、形への同一化から形のないものへの同一化に移行している。
その形のないもの、それは「大いなる存在」と言ってもいい。
それがあなたのアイデンティティの核心である。
身体への気づきはいまこの瞬間にあなたをつなぎとめるだけでなく、エゴという牢獄からの出口でもある。
さらに免疫システムも、身体の自然治癒力も強化される。


忘れられる「大いなる存在」

エゴはいつも自分を形と同一化し、何らかの形に自分自身を求め、それゆえに自分自身を失う。
この形とは物質や肉体だけではない。
外部の形――モノや身体――よりもっと基本的なのが、意識の場につねに生起する思考の形だ。
これは形になったエネルギーで、物質よりももっと微妙で密度が薄いが、やはり形である。
気づいてみれば、片時もやまない頭のなかの声があるはずだ。
絶え間ない衝動的な思考の流れである。
その考えに関心をすべて吸い取られ、頭のなかの声やそれに付随する感情に自分を同一化してしまって、その思考や感情のなかで自分自身を失ったとき、そのときあなたは自分を形に完全に同一化してしまい、エゴの手中に落ちる。

エゴとは「自己」という意識、エゴという意識をまとって繰り返し生起する思考の形と条件づけられた精神・感情パターンの塊なのだ。
形のない意識である「大いなる存在(Being)」「私は在る(I am)」という感覚が形とごっちゃになったときに、エゴが生じる。
これが自分と個々の形との同一化(アイデンティフィケーション)ということだ。
つまり「大いなる存在」を忘れるという第一義的な誤りであり、存在が個々の形に分裂するというとんでもない幻想が、現実を悪夢に変える。


デカルトの誤りからサルトルの洞察へ

近代哲学の祖とみなされている十七世紀の哲学者デカルトは、この第一義的な誤りを(第一義的な真実と考えて)「われ思う、ゆえにわれ在り」という有名な言葉で表現した。
これは「自分が絶対的な確実性をもって知り得ることがあるだろうか?」という問いにデカルトが出した答えだった。
彼は自分がつねに考えているという事実は疑いようがないと考え、思考と存在を同一視した。
つまりアイデンティティ――私は在る――を思考と同一化したのである。
彼は究極の真実を発見する代わりにエゴの根源を発見したのだが、自分ではそれに気づいていなかった。

別の著名な哲学者が先の言葉にはデカルトが――同時に他の誰もが――見すごしていた部分があると気づくまでに、それから三百年近くを要した。
その哲学者はジャン―ポール・サルトルである。
彼はデカルトの「われ思う、ゆえにわれ在り」という言葉を吟味しているうちに、ふいに、彼自身の言葉によれば「『われ在り』と言っている意識は、考えている意識とは別だ」ということに気づいた。
これはいったいどういう意味か?
自分が考えていることに気づいたとき、気づいている意識はその思考の一部ではない。
別の次元の意識だ。
その別の次元の意識が「われ在り」と言う。
あなたのなかに思考しかなければ、思考しているなんてことはわからないだろう。
自分が夢を見ているのに気づかない夢中歩行者のようなものだ。
夢を見ている人が夢の中のすべてのイメージに自分を同一化するように、すべての思考に自分を同一化する。
多くの人々はいまもそんな夢中歩行者のように生き、古い機能不全の心の癖に囚われ、同じ悪夢のような現実をいつまでも再創造し続けている。
しかし自分が夢を見ていると気づけば、夢のなかで目覚める。
別の次元の意識が入り込む。

サルトルの洞察は深かったが、しかし彼は依然として自分を思考と同一化していたために、自分の発見の真の意味に、つまり新しい次元の意識が生まれたことに気づかなかった。


すべての理解にまさる安らぎ

人生のどこかで悲劇的な喪失に出合い、その結果として新しい次元の意識を経験した人は多い。
持ち物のすべてを失った人もいれば、子どもや配偶者を、社会的地位を、名声を、肉体的能力を失った人もいる。
場合によっては災害や戦争によってあらゆるものを同時に失い、「何も」残されていないことに気づいた人もいる。
それは「限界的な状況」と呼んでもいいだろう。

何に自分を同一化していたにせよ、何が自分自身という意識を与えていたにせよ、それが奪い去られた。
そこでなぜかわからないが、当初感じた苦悶や激しい恐怖に代わって、ふいに「いまに在る」という聖なる意識、深い安らぎと静謐と、恐怖からの完壁な自由が訪れる。
この現象は「人のすべての考えにまさる神の平安」という言葉を残した聖パウロにはなじみのものだったに違いない。
確かにこの安らぎは筋が通らず、人は自分に問いかける。
こんなことになったのに、どうしてこのような安らぎを感じられるのだろう、と。

エゴとは何でどのように作用するかがわかれば、答えは簡単だ。
あなたが自分を同一化していた形、自己意識を与えてくれた形が崩壊したり奪い去られたりすると、エゴも崩壊する。
エゴとは形との同一化だからだ。
もはや同一化する対象が何もなくなったとき、あなたはどうなるか?
まわりの形が死に絶えた、あるいは死にかけたとき、あなたの「大いなる存在」の感覚「私は在る(I am)」という意識は形の束縛から解放される。
物質に囚われていたスピリットが自由になる。
あなたは形のないあまねく存在、あらゆる形や同一化に先立つ「大いなる存在」という真のアイデンティティの核心に気づく。
自分を何らかの対象に同一化する意識ではなく、意識そのものとしての自分というアイデンティティに気づく。
これが神の平安である。

あなたという存在の究極の真実とは、私はこれであるとかあれであるとかではなくて、「私は在る」なのだ。

大きな喪失を経験した人のすべてがこの気づきを経験して、形との同一化から切り離されるわけではない。
一部の人はすぐに、状況や他人や不当な運命や神の行為の被害者という強力な精神的イメージや思考を創り出す。
この思考の形とそれが生み出す怒りや恨み、自己憐憫などの感情に自分を強く同一化するから、これが喪失によって崩壊した他のすべての同一化にたちまちとって代わる。
言い換えれば、エゴはすぐに新しい形を見出す。
この新しい形がひどく不幸なものだということは、エゴにとっては大した問題ではない。
良くも悪くも同一化できればいいのだ。
それどころか、この新しいエゴは前よりももっと凝縮されて強固で難攻不落である。

悲劇的な喪失にぶつかったとき、人は抵抗するか屈するかしかない。
深い恨みを抱いて苦々しい人生を送る人もあれば、優しく賢く愛情探くなる人もいる。
屈するとは、あるがままを受け入れることだ。
人生に向かって自分を開くのである。
抵抗すると心が縮こまって、エゴの殻が固くなる。
あなたは閉ざされる。
抵抗しているときに(否定的な状態のときに、と言ってもいい)どんな行動を取っても、さらに外部の抵抗にあう。
宇宙はあなたの味方にはならない。
人生は助けてはくれない。
シャッターが閉まっていたら、日光は入ってこられない。
抵抗せずにあるがままを受け入れると、意識の新しい次元が開ける。
そのとき行動が可能か必要であれば、あなたの行動は全体と調和したものとなり、創造的な知性と開かれた心、つまり条件づけられていない意識によって支えられるだろう。
状況や人々が有利に、協力的に展開する。
不思議な偶然が起こる。
どんな行動も不可能ならば、あなたは抵抗の放棄とともに訪れる平安と静謐のうちに安らぐだろう。
それは神のもとでの安らぎである。
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ありがとうございます。

引き寄せの法則、宇宙の法則