エックハルト・トール「第2章 エゴという間違った自己のメカニズム その1」 | 地球の愛と光・本来の姿へ

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本来、人生を楽しむために生まれてきました。
ですが、恐怖、心配する価値観を教えられてきました。
恐怖思考が現実になります。恐怖を捨て愛と楽しい思考に!
年々、気が付く人が増え、本来の地球に変わる時期が来ています。
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第2章 エゴという間違った自己のメカニズム その1
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世界をありのままに見る

言葉は発音されても、あるいは声にならず思考に留まっても、ほとんど催眠術のような力を及ぼす。
言葉の前で人は簡単にわれを失い、何かに言葉を貼りつけたとたんに、まるで催眠術にかかったように、それが何であるかを知ったと思い込む。
ところが実際には、対象が何であるかなどわかっていない。
ただ、謎にラベルを貼っただけだ。小鳥も樹木も、そのへんの石ころでさえ、ましてや人間を究極的に知ることはできない。
計り知れない深さをもっているからだ。
私たちが感知し、経験し、考えることができるのは現実の表層だけで、海に出た氷山の一角よりも小さい。

その表面的な見かけの奥ではすべてが全体とつながりあっているだけでなく、すべてが拠ってきた「生命の源」とつながっている。
石ころでさえ、花や小鳥ならなおさらのこと、「神」へ、「生命の源」へ、あなた自身へと戻る道を示すことができる。
相手に言葉を付与したり、頭のなかでラベルを貼ったりせず、ただ手にとって、ありのままを見つめれば、驚異と畏敬の念が湧き起こるだろう。
対象の本質が無言のうちにあなたに語りかけ、あなたの本質を照らし出す。

偉大な芸術家が感じ取り、作品を通して伝えるのはこの本質だ。
ファン・ゴッホは「あれはただの古椅子だ」とは言わなかった。
彼は見て、見て、見つめた。
その椅子の存在を感じ取った。
それからカンバスの前に座り、絵筆をとった。
椅子そのものは数ドル程度のものだったかもしれない。
だが、その椅子の絵にいまでは二千五百万ドルの値がつく。

言葉やラベルを貼りつけないで世界をありのままに見れば、はるか昔に人類が思考を使うのではなく思考に縛られたときに失った奇跡のような畏敬の念が起る。
人生に深さが戻ってくる。
ものごとは再び初々しさ、新鮮さを取り戻す。
最大の奇跡は自己の本質を経験できることだ。
その本質は言葉や思考や知的なラベルやイメージに先行する。
それを経験するためには、「自分(I)」という意識、「在る(Beingness)」という意識を、自分と混同されているすべて、自分を同一化しているすべてから切り離さなくてはならない。
自分をモノや事物から切り離すこと、それが本書のテーマである。

ものごとや人や状況に、言葉や知的なラベルを急いで貼りつければ貼りつけるほど、あなたの現実は生命力を失って浅薄になり、現実を生き生きと感じ取れなくなって、あなた自身の内側や周囲で展開されている生命の奇跡に対する感覚が鈍くなる。
小賢しさは身についても智恵は失われ、喜びや愛や創造性や生き生きした躍動感もなくなる。
認識と解釈という生気のない状況のなかで消えてしまう。
もちろん私たちは言葉や思考を使う必要がある。
言葉や思考にはそれぞれの美がある――だがそこに囚われてしまう必要があるだろうか――言葉はものごとを頭で把握できる程度に簡略化する。
言語はaeiouの五つの母音と、空気圧の調節によって発音されるsfgその他の子音とでできている。
こんなシンプルな音の組み合わせだけであなたが何者なのか、宇宙の究極の目的とは何なのかを、いや樹木や石ころについてすら、その深みまで余すところなく説明できるなどと信じられるだろうか?


幻の自己

「私(I)」という言葉は、使い方しだいで最も大きな誤りを引き起こすことも最も深い真実を表すこともある。
ふつうの意味では、この言葉は(派生語の「私に(me)」「私の(my)」「私のもの(mine)」「私自身(myself)」などとあわせて)使用額度がいちばん高いだけでなく、最も誤解を生みやすい。
日常的な使い方の「私(I)」には根源的な誤りがあり、あなたが何者であるかを誤解させ、ありもしないアイデンティティを意識させる。
この幻の自己意識は、時空の現実だけでなく人間性についても深い洞察力を有していたアルバート・アインシュタインが「意識の光学的幻」と呼んだものだ。
この幻の自己意識がその後のあらゆる解釈の、というよりも現実に対する誤解のベースになり、すべての思考プロセスへ相互作用、関係性に影響する。
あなたの現実はこの根本にある幻を反映する。

ところで、良い知らせがある。
幻は幻と認識すれば消える、ということだ。
幻の認識はまた幻の終わりでもある。
あなたがそれを現実と誤解しているあいだだけ、幻は存続する。
自分が何者でないかを見きわめるなかから、自ずと自分は何者かという現実が立ち現れる。
私たちがエゴと呼ぶ間違った自己のメカニズムについて説明する本章と次章をゆっくり慎重に読み進んでくだされば、そうなるはずだ。
それでは幻の自己とはどんなものなのか?

あなたがふつうに「私(I)」と言うときに想定しているのは、ほんとうのあなたではない。
とんでもない単純化によって、無限の深さをもったあなたが「私(I)」という音声や頭のなかの「私(I)」という概念及びその中身と混同されるからだ。
それではふつうに言う「私(I)」やこれと関連する「私に(me)」「私の(my)」「私のもの(mine)」とは何を指しているのだろう?

両親が話す言葉を通じて幼児が自分の名前を覚えると、その名前(言葉)は幼児の頭のなかで一つの思考になり、それが自分と同一視される。
この段階では、子どもはよく「ジョニーはおなかがすいた」というように自分を三人称で表現する。
まもなく「私、僕(I)」という魔法の言葉を覚え、すでに自分自身と同一視している名前と同じように使いだす。
次に、他の思考がこの「私、僕(I)」という思考と混ざり合う。
この段階では「私、僕(I)」の一部とみなされるモノを指す「私の、僕の(my)」「私のもの、僕のもの(mine)」という思考がそれだ。
このモノと自分の同一化、つまりモノに(つきつめればモノが表している思考だが)自己意識をかぶせることによって、モノから自分のアイデンティティを引き出す。
「私の、僕の、おもちゃ(my)」玩具が壊れたり取り上げられたりすると、とてもつらい。
つらいのはその玩具自体がもっている価値のゆえではなく――幼児はすぐに興味を失って、他の玩具やモノに関心を移すだろう――「私のもの、僕のもの(mine)」という考えのゆえである。
玩具は幼児が発達させている「自己意識」「私、僕(I)」の一部になっていたのだ。

子どもが育つにつれ、「私、僕(I)」という思考は性別、持ち物、知覚される身体、国籍、人種、宗教、職業など、他の思考を引き寄せる。
他に「私、僕(I)」が同一視するのは――母親、父親、妻などの――役割、積み重ねられた知識や好悪などの意見、それに過去に「私に(me)」起こった出来事である(過去の出来事の記憶が『私と私の物語(me and my story)」として自己意識を規定する)。
これらは人がアイデンティティを引き出すものごとのほんの一部にすぎない。
そしてどれも、自己意識という衣を着せるという事実によって危なっかしくまとめあげられた思考以上のものではない。
ふつう「私、僕(I)」という場合に指しているのは、この精神的な構築物なのだ。
もっとはっきり言えば、あなたが「私、僕(I)」と言ったり考えたりするとき、だいたいはその主体はあなたではなく、この精神的な構築物すなわちエゴイスティックな自己のいずれかの側面である。
そこに気づいたあとでも、あなたはやはり「私、僕(I)」という言葉を使うだろうが、そのときにはこの言葉はもっと深い部分から発することだろう。
ほとんどの人は依然として、絶え間ない思考の流れ(大半が無意味な繰り返しである)や衝動的思考に自分を完全に同一化している。
この思考プロセスとそれに付随する感情から離れて「私、僕(I)」は存在しない。
これはスピリチュアルな無自覚状態を意味する。
頭のなかには片時も止まらずにしゃべり続けている声があると言われると、人は「それはどんな声か?」と聞き返したり、そんなことはないとむきになって否定する。
聞き返したり、むきになったりするのはもちろん、その声、考えている無意識な心だ。
それが人々を乗っ取っていると見ることもできる。

自分の思考と自分自身とを切り離し、一瞬であっても、考えている心からその背景にある気づきに自分自身のアイデンティティが移行したことがある人は、その体験を決して忘れない。
またアイデンティティの移行が非常に微妙だったためにほとんど気づかなかったり、理由はわからないままに喜びや内面的な安らぎだけを感じ取る人もいる。


頭のなかの声

私が初めてアイデンティティの移行を体験したのは、ロンドン大学の学生のときだった。
週に二度、通常はラツシュが終わった午前九時ごろに地下鉄で大学の図書館に行くのが習慣になっていた。
あるとき地下鉄で、三十代はじめとおぼしき女性が向かいに座った。
それまでも数回、見かけたことがある女性だった。
誰もがその女性には気づいたはずだ。
地下鉄は満員だったのに彼女の両隣には誰も座らない。
理由は、彼女がどうも正気には見えなかったからだ。
何やらいきりたって不機嫌な声を張り上げ、休みなく独り言を言っている。
自分の頭のなかの考えに夢中で、まわりの人々にも状況にもまったく気づいていないらしい。
左斜め下に目をやって、空っぽの隣席の誰かに話しかけているかに見えた。
こんな調子だった。
「そうしたら彼女が私に言ったの・・・だから、嘘つき、よく私が悪いなんて言えるわねって言い返したわよ・・・いつだって私を利用するのはあなたじゃないの、私は信用していたのに、あなたはその信用を裏切ったんじゃない・・・」。
不当に扱われて、なんとか反論しなくてはいけない、さもないと自分がつぶされるという怒りがその声から伝わってきた。

地下鉄がトツテナム・コート・ロード駅に近づくと、女性は立ち上がってドアのほうへ行ったが、あいかわらず独り言を続けている。
私が降りる駅も同じだったから、彼女のあとに続いた。
駅を出ると彼女はベッドフォード・スクエアに向かって歩き出したが、なおも想像上の対話を続け、怒った調子で誰かを非難し反論していた。
私は好奇心に駆られ、方向が同じあいだはあとをつけてみようと思った。
想像上の対話に没頭しながらも、彼女にはちゃんと行く先がわかっているらしく、まもなく大学本部と図書館がある一九三〇年代に建てられたセネート・ハウスの堂々たる姿が見えてきた。
私は驚いた。
もしや、彼女は私と同じところを目指しているのか?
そう、確かに彼女はセネート・ハウスに向かっていた。
教員か学生か、あるいは事務員か司書なのか?
それとも心理学者の調査プロジェクトの被験者?
答えはわからなかった。
二十歩ほど後ろを歩いていた私が、建物(皮肉なことに、ここはジョージ・オーウェルの一九八四年」が映画化されたときに「思想警察」本部のロケ地となった)の入り口に達したとき、もう彼女はエレベーターの一つに乗り込んだあとだった。

私はいま目撃したことに衝撃を受けていた。
二十五歳でそれなりに成熟した大学生だったから、自分は知的な人間だと思っていたし、人間存在のジレンマに対する答えはすべて知性を通じて、つまり思考によって見出すことができると信じて疑わなかったのだ。
気づきのない思考こそが人間存在の主たるジレンマであることをまだ悟っていなかった。
教授陣はすべての答えを知っている賢者で、大学は知識の殿堂だと振り仰いでいた。
あの女性のような正気とは思えない人がその大学の一部だなんてことがあるだろうか?

図書館に行く前にトイレに入ったときも考え込んでいた。
手を洗いながら、あんなふうになったらおしまいだよな、と思った。
すると隣にいた男性がちらっとこちらを見た。
私は思っただけでなく口に出していたことに気づいて愕然とした。
なんてことだ、もうすでに同じだ。
自分も彼女と同じように絶え間なく心のなかでしゃべり続けていたのだろうか?
私と彼女にはわずかな違いしかなかった。
彼女の思考に圧倒的な優位を占めているのは怒りらしいが、私の場合は不安、それだけだ。
彼女は考えを口に出し、私は――たいていは――頭のなかで考えている。
もし彼女が異常なら、私を含めて誰でも正気を逸している。
程度の違いでしかない。

一憐、私は自分の心から離れて、いわばもっと深い視点から自分を見ていた。
思考から気づきへの瞬間的な移行だった。
私はまだトイレにいたが、他にはもう誰もいなかったので、鏡に映る自分の顔を見つめた。
そして自分の心から離れたその一瞬に、声を上げて笑ったのだ。
狂気じみた笑いに聞こえたかもしれないが、それは正気の笑い、恰幅のいいブツダの笑いだった。
「人生なんて、お前の心が思い込みたがるほど深刻なものじゃないよ」。
その笑いはそう言っているようだった。
だがそれもほんの一瞬のことで、たちまち忘れ去られた。
それから三年間を私は不安な鬱々とした気分で、思考する心に自分を完全に同一化して過ごした。
気づきが戻ってきたのは自殺の瀬戸際まで行ったあとのことだったが、今度の気づきはつかの間で消えはしなかった。
私は衝動的な思考と心が創り出した間違った自己意識から解放された。

前述の出来事で私は初めて気づきを垣間見ただけでなく、人間の知性の絶対的な有効性に対する疑念を初めて植えつけられた。

それから数か月して、この疑念をますます強める悲劇的な事件が起こった。
月曜日の朝、深く敬愛していた教授の講義に出たところ、教授は週末に銃で自殺したと知らされたのだ。
私は仰天した。
大変尊敬されている、そしてすべての答えを知っているかに見えた教授だった。
だが私はまだ、思考を培う以外の選択肢を見つけることができなかった。
思考は意識のほんの小さな側面でしかないことに気づかず、エゴについて何も知らなかったし、ましてやそれを自分のなかに見抜くことなどできはしなかったからだ。


エゴの中身と構造

エゴイスティックな心は完全に過去によって条件づけられている。
その条件づけは二つの面から行われる。
中身と構造である。

玩具を奪われて泣く子どもの場合、この玩具はエゴイスティックな心の中身にあたる。
これは他のどんな内容でも、どんな玩具やモノでも代替可能だ。
あなたのアイデンティティの中身は環境や育ち、文化によって条件づけられる。
子どもが豊かでも貧しくても、動物に似た木切れの玩具でも精密な電子玩具でも、なくしたときの苦しみという点では同じだ。
どうしてそんな苦しみが生じるか、その理由は「私の、僕の(my)」という言葉に隠されている。
これが構造である。
モノとの結びつきによって自分のアイデンティティを強化したいという無意識の衝動は、エゴイスティックな心の構造にしっかりと組み込まれている。

エゴが生まれる最も基本的な精神構造の一つがアイデンティティである。
「アイデンティフィケ-ション(同一化)」という言葉の語源は、「同じ」という意味のラテン語idemと、「作る、為す」という意味のfacereだ。
何かにアイデンティティを求める、同一化するというのは、「それを同じだとする」という意味なのだ。
何と同じだとするのか?
「私(I)」である。
私はそれに自己意識を付与し、それが私の「アイデンティティ」の一部になる。
最も基本的なレベルでのアイデンティティの対象はモノだ。
私の、僕の玩具はいずれ私の車、私の家、私の衣服などになる。
私はモノに自分自身を見出そうとするが、しかし完全に同一化しきってそこに投入することはできない。
それがエゴの運命なのだ。


アイデンティティとしてのモノ

広告業界の人間は、ほんとうは必要ないモノを売りつけるためには、それをもっていると自己イメージが、あるいは他者から見たイメージが変化すると消費者に思わせなければならないと知っている。
言い換えれば、自己意識に何かを付け加えられます、ということだ。
たとえばこの製品を使っているとひときわ目立ちます、だからもっとあなたらしくなれますよ、と言う。
あるいは製品から有名人を、それとも若くて魅力的で幸せそうな人間を連想するように仕向ける。
昔の人や故人となった有名人の最盛期の姿でもかまわない。
このとき無言のうちに想定されているのは、この製品を買えば不思議な作用が働いてあなたは彼らのようになれる、もしくは彼らのイメージとそっくりになれる、ということだ。

だから多くの場合、人は製品を買うのではなくて「アイデンティティの強化」を買う。
デザイナーズブランドは集団的アイデンティティの最たるものである。
デザイナーズブランドの製品は高価だから「排他的」だ。
誰でももっていたのでは心理的な価値はなくなり、残るのは物質的価値だけになる。
それは値段のほんの一部でしかないだろう。

何にアイデンティティを感じるかは、人によって、年齢や性別や所得、社会階層、流行、文化などによって大きく異なる。
そして何にアイデンティティを感じるかは、エゴの中身と関係する。
それに対して何かにアイデンティティを求めたいという無意識な衝動は、エゴの構造のほうと関係している。
エゴイスティックな心の最も基本的な作用の一つだ。

逆に、いわゆる消費社会が成り立つのは、人がモノに自分自身を見出そうとする努力がどうしてもうまくいかないからである。
エゴの満足は長続きしないから、さらに多くを求めて買い続け、消費し続けなければならない。

もちろん私たちの表面的な自己が生きている物理的な次元ではモノは必要だし、暮らしに不可欠である。
住まいも衣服も家具も道具も乗り物も必要だ。
それに美や固有の質のゆえに高く評価されるものもあるだろう。
私たちはモノの世界を毛嫌いするのではなく、尊重しなければならない。
モノはそれぞれ、すべてのものや身体や形の根源である、形のない「生命」に起源をもつ一時的な存在としてあるのだから。

古代の人々は無生物も含めたすべてに霊が宿ると信じていた。
この点では彼らのほうが現代人より真実に近い。
概念化や抽象化で生気を失った世界に暮らしていると、もはや生き生きした宇宙を感じられなくなる。
いまほとんどの人は現実に生きているのではなく、概念化された現実を生きている。

だがモノを自己意識強化の手段に使う、つまりモノを通じて自分自身を発見しようとするのは、ほんとうにモノを尊重することではない。
エゴがモノに同一化しようとするとモノへの執着や強迫観念が生まれ、そこから進歩の唯一のものさしがつねに「より多く」である消費社会と消費構造が生まれる。
これは自己を増殖させることだけが目的であって、実は自分がその一部である組織体を破壊し自分も破壊する結果になると気づかないガン細胞と同じ機能不全である。
エコノミストの中には成功という考え方に執着するあまり、どうしてもこの言葉を使わずにはいられない人たちがいて、不景気を「マイナス成長」と称したりする。

多くの人々はモノに対する強迫的な先入観に生活の大部分を支配されている。
だからモノの増殖が現代の病弊の一つになる。
自分を生き生きした生命体として感じられなくなると、人はモノで人生を満たそうとする。
スピリチュアルな実践として自分を振り返り、モノの世界との関係、とくに「私の(my)」という言葉を付されるモノとの関係を見直してみることをお勧めする。

たとえば自尊心が所有物と結びついているかどうかを判断するには、注意深くて正直でなければならない。
あるモノをもっているというだけで、なんとなく自分が重要人物だとか優れた人間だと感じないか?
何かが欠けていると、たくさん所有している人に劣等感を感じないか?
他人の目や他人の目を通じて自分自身に映る自分の価値を引き上げるために、さりげなく自分の所有物をほのめかしたり、見せびらかしたりはしないか?
誰かがあなたより多くをもっているとき、あるいは大事なものをなくしたとき、恨みや怒りを感じ、自分が小さくなったように感じることはないか?


なくなった指輪

スピリチュアルな問題について指導するカウンセラーとして、ある女性ガン患者のもとへ週に二度ずつ通っていたことがある。
その女性は四十代の教員で、医師から余命数か月と宣告されていた。
訪ねていって数語交わすこともあれば、黙ってただ一緒に座っていることもあった。
そのとき彼女は初めて自分のなかにある、忙しい教師時代には存在すら知らなかった静謐(せいひつ)さを垣間見たのだった。

ところがある日訪ねてみると、彼女はひどくがっかりし、怒っていた。
「何があったのですか?」と尋ねたところ、ダイヤの指輪がなくなったという。
金銭的な価値もさることながら、とても思い出深い品だった。
きっと毎日数時間、世話をしにくる女性が盗んだに違いない。
病人に対してよくもそんな無神経なひどいことができるものだ、と彼女は言った。
そしてその女性を問いただすべきか、それともすぐに警察に通報したほうがいいか、と私の意見を求めた。
どうすべきか指図はできないと答えたが、しかし指輪であれどんな品物であれ、いまのあなたにとってどれほど重要なのかを考えてみてはどうか、と私は助言した。
「あなたにはおわかりにならない」と彼女は言い返した。
「あれは祖母からもらった指輪でした。毎日はめていたのだけれど、病気になって手がむくんではめられなくなったんです。
あれはただの指輪じゃない。騒ぎ立てるのも当然じゃないですか、そうでしょう?」。

その返事の勢いや声にこもる怒りと自己防衛の響きは、彼女がまだ充分に「いまに在る」心境になれず、起こった出来事と自分の反応を切り離して別々に観察するに至っていないことを示していた。
怒りと自己防衛は、まだ彼女を通じてエゴが発言しているしるしだった。
私は言った。
「それじゃ、いくつか質問をします。
すぐに答えなくていいですから自分の中に答えが見つかるかどうか探してみてください。
質問ごとに、少し間をあけますからね。
答えが浮かんでも、必ずしも言葉にしなくてもいいんですよ」。
どうぞ、聞いてください、と彼女は言った。
「あなたはいずれ、それもたぶん近いうちに指輪を手放さなくてはならないことに気づいていますか?
それを手放す用意ができるまで、あとどれほどの時間が必要でしょう?
手放したら、自分が小さくなりますか?
それがなくなったら、あなたは損なわれますか?」。
最後の質問のあと、しばらく沈黙があった。

再び話し始めたとき、彼女の顔には安らかな笑みが浮かんでいた。
「最後の質問で、とても大切なことに気づきました。
自分の心に答えを聞いてみたら、こういう答えが返ってきたんです。
そりゃ、もちろん損なわれるわ。
それからもう一度、問い返してみました。
私は損なわれるだろうか?」。
今度は考えて答えを出すのではなく、感じてみようとしました。
そうしたらふいに、「私は在る、と感じることができたのです。こんなふうに感じたのは初めてだわ。
こんなに強く自分を感じられるなら、私はまったく損なわれてはいないはず。
いまでもそれを感じられる。穏やかだけれど、とても生き生きとした自分を感じられます」。

「それが『大いなる存在』の喜びですよ」と私は言った。
「頭から抜け出したときに、初めてそれを感じられるんです。
それは感じるしかない。
考えたってわかりません。
エゴはそれを知らない。
だってエゴは思考でできていますからね。
その指輪は実は思考としてあなたの頭のなかにあり、それをあなたは自分と混同していたんですよ。
あなたは自分あるいはその一部が指輪のなかにあると考えていた。
エゴが求め執着するのは、エゴが感じることができない『大いなる存在」の代用品です。
モノを評価して大切にするのはいいが、それに執着を感じたら、それはエゴだと気づかなくてはいけません。
それにほんとうはモノにではなく、モノにこめられた『私(I)』『私の(my)』『私のもの(mine)』という思考に執着しているのです。
喪失を完全に受け入れたとき、あなたはエゴを乗り越え、あなたという存在が、『私は在る』ということが、つまり意識そのものが現れるのです」。

彼女は言った。「いまようやく、これまでどうしてもわからなかった「下着を取ろうとする者がいたら、上着も与えなさい」というイエスの言葉の意味が理解できました」。
「その通りです」。私は答えた。
「その言葉は、決してドアに鍵をかけるな、という意味じゃありません。
ときにはモノを手放すほうが、守ったりしがみついたりするよりもはるかに力強い行いだ、という意味なんですよ」。

身体がますます衰弱していった最後の数週間、彼女はまるで光が内側から輝き出しているように明るかった。
いろいろな人にたくさんのモノを分け与えたが、そのなかには指輪を盗んだと疑った女性も入っていた。
そして与えるたびに、彼女の喜びはますます深くなった。
彼女の死を知らせてきた母親は、亡くなったあとで例の指輪がバスルームの薬品戸棚で見つかったと言った。
手伝いの女性が指輪を返したのか、それともずっとそこに置き忘れられていたのか?

それは誰にもわからない。
だがわかっていることが一つある。
人生は意識の進化に最も役立つ経験を与える、ということだ。
いまの経験が自分に必要だとどうしてわかるのか?
それは現にこの瞬間に体験しているからだ。

自分の所有物に誇りをもったり、自分より豊かな人をうらやんだりするのは間違っているのか?
そんなことはない。
誇りや目立ちたいという思いや、「もっと多く」によって自己意識が強化され、「より少なく」によって自分が小さくなると感じるのは、善でも悪でもない。
エゴだというだけである。
エゴは悪ではない。
ただの無意識だ。
自分のなかのエゴを観察するとき、エゴの克服が始まる。
エゴをあまり深刻に受け取らないほうがいい。
自分のなかにエゴの行動を発見したら、微笑もう。
ときには声を出して笑ってもいい。
人間はどうしてこんなものに、これほど長くだまされ、囚われていたのか?
何よりも、エゴは個人ではないことに気づくべきだ。
エゴはあなたではない。
エゴを自分個人の問題だと考えるならば、それもまたエゴなのだ。
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ありがとうございます。

引き寄せの法則、宇宙の法則