「いいも悪いもない。」「悪いことが起きたは無い」
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津留晃一さん講演会「空間認識」 その8
それでは質問を受けたいと思います。どうぞ、質問のあるかたは手を上げてください。
―すみません。Oと申します。
創世会レポートを読ませて戴きました。「いいも悪いもない。」っていうことから・・・。さっきもお話ししたように、昨日、主人の友達の家が全焼しまして、その家だけなら良かったんですけれども、両隣も(合わせて)3件、火災に遭いまして、今日その友達に電話しましたところ、「もう生きる力もない。」っていう感じで、慰める言葉もなくて・・・「慰めよう」とは思ってないんですけど・・・、これも「いいも悪いもなくて、その人が選んだ人生だから」って、私は思おうとするんですけれど、それを相手に押し付ける訳にもいかず・・・。「あんたが決めた人生やから、こうなったんや」という訳にもいかず、なんかこう、暖かい言葉をどう掛けたら元気が出るのかなあ・・・と思いまして・・・。
はい。とても面白い質問、ありがとうございます。Oさんは、その出来事によって、沢山の自我を発見できます。よろしいですか。その出来事によってです。ところが、今の質問の趣旨は、みなさん聞いてて分かったと思うんですけれども、「暖かい言葉でも掛けてあげられたらいいんだけど、どうしてあげたらいいでしょうか?」という質問ですね。
それを気の毒と見る自分がいるわけですね。それを悪いことが起きてると判断してる自分がいるわけでしょ? その証拠が最初に言った「自分の家だけならよかったけれど、隣まで類焼してしまった」(という言葉があります)。 「類焼してしまった。」―それは「隣まで類焼してしまうのはよくない」という信念がありますよね。それは、Oさんの信念でしょ?
そのOさんの信念から「お気の毒だ」という気持ちが湧き上がって来るんです。お気の毒だ、と言ってるのは、自分の中にある一部分の、ミニ自我さんなんです。自分の家だけならともかく、近所まで類焼させてしまった。「人に迷惑かけちゃいかん。」と思っているミニ自我さんが、Oさんの中にいるわけです。そうすると、そこに否定が生まれるわけです。そうでしょ。「悪いことが起きてる」と。
すなわち、自分の価値観、物差しを使って、その人に起きた現象、周りまで類焼させてしまった、「悪いことが起きた」というジャッジをすでに下してますよね。もう否定が終わってますよね。そこから考えてることですよね。感じてないでしょ。さあ、「考える自分から、感じる自分になりましょう」。その話を聞いた瞬間を、思い出してみてください。その話を聞いた瞬間、そのときハートは暖かかったですか、冷たくなりましたか?
―冷たくなりました。
冷たくなったでしょ。もうそこで充分でしょ。感じてあげるんです。「わぁ、お気の毒に」って思いませんでしたか?
―思いました。
そうですね。「お気の毒に」って思ってる自分が、もうここにやって来てるわけです。いつも居るんだけども、その人は見えない世界に居て、どこに居るかわからないんですね。ある周波数として、自分の内的空間のどっかに居るんです。だから、引っ張れない、アクセスできないんです。
その出来事を聞いた瞬間に、自分の出す想念波動でピシャッと引き寄せることができるんです。「お気の毒に。」―その自我と周波数が合うわけです。ここ(ハート)に来ているわけですね。「あっ、自分は今落ち込んでる人をどうやって励ませばいいんだろうか。」と考えている自分が今ここに居るんです。
それに気付いたら、それは大発見ですよ。「あっ、自分の中にこういう自分がいるな」、と気づく。そして、ちょっと意地悪い角度で見るとですね、本当はですね、そういう話、聞きたくないでしょ? 「そんなこと起きなきゃいいのに」と思ってる。
いつもいつも、災いを否定する自分が居るわけです。それが出てきて暴れるんです。そして、その人が暴れてるときに、自我さん、やさしい自分は、「どうやって思いやりのある言葉を掛けてあげたらいいだろうか。」と思ってるんです。その思いが上がる基があるんです。
神は無なんです。思い出してください。すべてが入ったら消えてしまうんです。「あっ、こういう話を聞きたくない自分がいるな。」―これをジーッと、意識をここ(ハート)に合わせて感じてあげるんです。
最低5分くらいはやってください。ジーッと感じるんです。すると、今はフォトンエネルギーが強くなってますから、何も考えないでジーッと意識を向けてると、ビックリするくらいに、その心配ちゃんがキューッと消えていくんです。
で、その一件に関しても
いろんな自我ちゃんが居ます。
「なんて声かけてあげたらいいんだろう」
というのは、今度は「気の毒だ」
と思ってる自分がいるわけです。
「どうやって声を掛けてあげればいいんだろう」
という人がいるでしょ。
ここ(ハート)に来てるんだから。
その子を見てあげるんです。
「一体、どうやって声を掛けてあげればいいんだろうか」
…これ感情ですよね。その自分を
ジックリ感じてください。考えないで。
そうすると、近所に不幸が起きたとき、
その人に「同情心」という体験ができますね。
そういう話を聞く人と聞かない人がいるでしょ?
Oさん、それを聞いたということは、
そいう体験をしてみたかった、っていうことなんですね。
自分が人生のシナリオを書くんです。
「人に迷惑かけちゃいかん」
という教育を受けて、
…「自分の家だけならいいけど、
増して類焼までさせて大変なことだ」
という教育を受けて…
その教育を受け入れた人が
実際に友達で、そういう体験をしてしまう。
そのときに「なんてお気の毒なんだろう」。
それがどんな気持ちなのか、
体で味わいたかったんです。
だから、全身でそれを味わってみてください。
そしたら、こういう体験、
5分味わってあげれば消えていくんです。終わります。
そうすると、「お気の毒に」
という自我ちゃん居なくなるでしょ。
すると、静かになって声かけてないのに、
突然また電話かかってきて、
「でもね、お陰でこんないいことあってね、
今、元気にしてるよ。心配かけてごめんね」
という(新しい)現象を引っ張ってくるようになる。
―今日の夜、お見舞いに行くんです。
そこでですね。
そこに行って「何を話そうか」
と考えるのをやめて、
今言ったことを後で一人でやってください。
そして、また「どう言ってあげようか」
って考えがまた出てきたら、
また、その「どう言ってあげたらいいだろうか」
という自分を感じてあげてください。
―はい。
「どう伝えよう」というのは、
行動ですよね。その行動をどうしようか、
と考えてる自分を感じて、
感じて、感じてあげれば、どんどん居なくなります。
―はい。
で、そこに行くでしょ。
そしたら、考えなくたって…
いま、「はい」って言いましたね。
今日、ここに来るまでに、
「はい」って言おうと決めてないのに、
「はい」って言ってますよね。
それから、さっき私に質問しようって決めたでしょ?
―はい。
そう決めただけであって、
どう言おうか(あらかじめ)考えてなくても、
言葉が出てきたでしょ。質問の言葉が。
―はい。
その場に行ったら自然に言葉が出てきます。誰でも。
今までそうだった筈です。
計画なんかしなくたって、友達と合うとき、
「今日友達とどんな話しようか」
と考えることもあるけども、
考えたからといって
その通り話しできることないでしょ?
考えたことの1/10でしょ。伝えられること。
勝手に口から(言葉が)出てるわけです。
私こんなこと言うつもりなかったのに、
と思いながら(自分が出してる言葉を)聞いてるでしょ。
要するに、出来事が起きてくるんです。
計画なんかしなくても。
で、こういう体験、
いくつか積み重ねて行きますね。
すると、「あっ、いつも準備して行ったけど、
準備しなくても、なんかうまくいったわ」と。
こういう体験、3度続いたら、
準備しなくなるんです。
そうすると、
「あっ、準備しなくてもうまく行くんだ」
と分かるんです。
そうすると、今度は「準備してみようかな」と。
準備してもいい、準備しなくてもいい、
ニュートラルな感覚になって行くんです。
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現実の創造者(津留晃一のメッセージ集から)
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