私が初めてそれを見た時、男は熱心に廊下を掃除していた。脇目もふらずに。これは彼の為にある言葉なのかもしれない。服はところどころ破れ、その垂れ下がった部分は黒ずんでいた。そしてそれは男が進むごとに黒さを増し、ずるずると低い音を立てる。それでも構う様子などなく、それどころか更に集中して汚れと向き合っているようにさえ見えた。
左手にはハケを持ち、右手には小さなミノの様なヘラを持っている。元は銀色に輝いていたであろうヘラは汚れがこびりつき一眼見ただけではそれが何なのか分からなかった。ヘラには黒く沢山のコブが重なり合っている。唯一本来の姿を保っているであろう手元を見ればそれは一目瞭然だった。男はヘラで巧みに汚れを落とし、ハケで払っていく。
腰には布やナイフなど沢山の器具が入ったポシェットをつけていて、そこから長いホースをぶら下げていた。暗すぎてどこから続いているのかよくわからなかったが、とにかくその先は遥か彼方にあるようだった。
男は廊下の汚れ以外には興味がないようで、ひたすら足元から天井までを磨いていく。天井は低く幅も狭い。壁にはぼこぼことした凹凸があり男が体をよじらせてやっと通れる、そんな場所もあった。そのためある場所では上から下まで磨き上げるのにとても苦労しているようだった。ところが、そんなに熱心に掃除しているにも関わらず、男が三歩程進んだ頃には壁にうっすらと汚れが現れていた。まるで壁自らが汚れを生み出しているようだった。
今日は天気が良く体調も良かったから、夫を送り出したら近所を散歩することにした。夫はビルの清掃会社に勤めている。殆どが定期的に掃除されているため、それ程汚れてはいないらしいが、時々忘れ去られていた倉庫のような場所を掃除する時は制服を真っ黒にして帰ってくる。時にはどこかに引っ掛けたのか裾やポケットの辺りを直さなくてはならない時もあった。
「いってらっしゃい。」
今日は笑顔で送り出せそうだ。これから仕事だという時に限っていつも調子が悪くなるのだ。
「おっ、今日は調子が良さそうだね。でもあんまり無理するなよ。行ってきます。」
「ありがとう。いってらっしゃい。」
大丈夫だった。ホッと胸を撫で下ろし出かける準備をした。
そろそろ梅雨が明けたのだろうか。空は明るく、東の方にはもくもくとした真っ白な雲が現れていた。深呼吸をしてみると懐かしい夏の香りがした。暫く外へは出ていなかったせいか、特別気持ちよかった。胸の中を風が通り抜けていく。まるで昨日までのモヤモヤが嘘のようだった。
私はまず近所の行ったことのない道を歩いてみることにした。時間があるのだからのんびり歩くのも悪くない。何かあったら引き返せばいいのだ。
男は初めて後ろを振り返った。それはほんの一瞬だったが確かに後ろを見ていた。そしてまるでそんな事はなかったというように今まで以上に汚れに向かい手を動かし始めた。ヘラはだいぶ汚れていて使いにくそうだったが、ヘラの汚れを落とす時間はない、そう言っているようだった。掃除の手順はヘラで汚れを削ってはハケで払い落とし、ホースで流しては布で拭く、殆どがその繰り返しだった。ただ特別落ちにくい汚れの時は、何度も何度も削っては払い削っては払いを繰り返していた。特に凸凹で幅が狭くなっていると思っていた場所では大概がそうだった。そう言う形の廊下ではなく、よごれで壁が変形していたのだ。男はその汚れを見るたびに焦っているかのようにみえた。まるで何かに追われてでもいるかのように。削っては払い落とし、流しては拭く。削っては払い落とし、流しては拭く。削っては払い落とし、流しては拭く。
突然ポキっと軽い音を立てヘラは折れた。これでは掃除することができない。どうするのだろう。今までずっと見ていたからわかる。男には掃除しなくてはならない理由があるのだろう。しかも重大な。ふとヘラを渡してあげようかとも思ったが、あいにく使えそうな物を私は持っていない。心配になり声を掛けようとした時だった。
今までとは違う、しかし何かを削っているような音が聞こえてきた。
戻ればいいのだ。来た道を来た通りに歩けば家に戻れる。私は必死に来た道を引き返していた。小道の先は行き止まりだったのだ。そしてその行き止まりにあった赤いポストを見て調子が悪くなったのだ。そのポストは赤く円柱型をした昔のポストをだった。ひょっとしたらそのポストを知らない人もいるかもしれないが、私は子供の頃、近所にあって、よくハガキや封筒を入れていたから、ハッキリと覚えていた。と、言っても、回収はされていなかったはずで、今でも、もしかしたら、残っているのかもしれない。そう考えたら急に調子が悪くなったのだ。耳鳴りがする。これが前兆なのだ。私は両手で耳をおさえながら、慌てて元来た道を引き返す。もう少しで家だ。あと少しで。門が見える。建物が見える。庭が見える。犬も花も、見える。
何の音だろう。そう思い私は暗闇の中を覗き込み、目を凝らした。カリカリカリカリ。何かをけずっているのは間違いない。よく見ると、男は自分の手で壁や床を削っていたのだ。これでは間違いなく手を痛めてしまう。それほどまでにして掃除しなくてはならない理由があるのだろうか。私は再び身の回りにある使えそうな物を探した。だがやっぱり彼に使えそうな物は何もなかった。何もかもが彼にとっては大きすぎたのだ。代わりに削ってあげようとも考えたが、その通路には私の指すら入らない。彼も彼の掃除している廊下も虫眼鏡で見るほどにとても小さかったのだ。ついに彼の指からは血が滲んだ。それでも彼は必死に掃除をし、止める気配など全くなかった。カリカリカリカリ。カリカリカリカリ。カリカリカリカリ。それどころか、今まで以上に必死になっている。なぜなら彼が掃除して来た廊下が今まで以上に汚れ始めているからだった。
私はいつの間にか意識を失っていた。目を覚ましてみると、目からは涙が流れ、自分が自分ではない、そんな気分だった。頭には小人達が走りまわっているかのような違和感が続き、耳鳴りもいつも以上に大きく聞こえていた。辺りを見回すと、そこは病院だった。白い壁に白いベッド。周りには何もなく、ただ腕には細い管が刺さっていた。こんな事は初めてだった。今までも調子が悪くなる事は少なくなかったが、意識を失うなんて事は一度もなかったのだ。今日は調子が良かったはずなのに。気がつけば私は再び目を閉じていた。
カリカリカリカリ。カリカリカリカリ。カリカリカリカリ。ついに爪が剥がれ落ち右手は血で真っ赤に染まった。もう長くは削れないだろう。そう思うと涙が出た。彼はこんなにも頑張っているのに。涙は彼の上に巨大な水滴となり落ちた。頑張ってもどうにもならないこともある。それはきっと彼も分かっているはずだった。それでも諦めない姿に私は心を打たれていた。出来ることなら代わりたい。
カリカリカリカリ。カリカリカリカリ。カリカリカリカリ。
その音で私は目を覚ました。
カリカリカリカリ。カリカリカリカリ。カリカリカリカリ。
何の音だろう。私は辺りを見回してみたが、音の出るような物は見当たらなかった。
カリカリカリカリ。カリカリカリカリ。カリカリカリカリ。
音はどんどん早くなっていく。
カリカリカリカリ。カリカリカリカリ。カリカリカリカリ。
何だか自分の頭から聞こえてくる、そんな感覚だった。私は急に怖くなりナースコールを押した。こんな事は今までなかった。やっぱり私はおかしいのだろうか。暫く待ってみたが誰もくる気配はなかった。とりあえず眠ってしまおうと思い目を閉じた。大抵の場合、調子の悪い時は眠ってしまえは良くなった。
カリカリカリカリ。カリカリカリカリ。カリカリカリカリ。
私はその音に誘われるようにして眠りについた。
どれ位眠っていただろうか。目を覚ました時には辺りは真っ暗だった。いや、真っ暗と言うよりあたり全てが黒かった。視野的な明かりがないだけでなく、周りに漂った空気も香りも全てが真っ黒なのだ。私は目を凝らして目の前をみた。そこには真っ黒な道が続いていた。長い長い道が。もうそこは真っ白な壁に囲まれた病院ではなかった。手探りで前へ進んでいく。カリカリカリカリ。カリカリカリカリ。カリカリカリカリ。ベッドの上で聞いた音が近くなってきた。恐る恐る近づいてみる。すると目の前に人が現れた。男だった。その男は必死に何かを削っている。壁だ。何かに取り憑かれたかのように、壁をヘラで削ってはハケで払い、ホースで流しては布でふいていた。暫く見ていると手に持っていたはずのヘラは折れていた。それでも男はヘラを自分の手に変えて必死に壁を削っている。手が血だらけになってもやめようとはしない。ここはいったいどこなのか。
「何故あなたはそれほどまでして掃除をするの?」質問せずにはいられなかった。
「君を守るためだよ。」男はこちらも見ずにそれだけ答えると、より一層激しく手を動かし始めた。
「ここはどこなの?」
「目を閉じてみればわかるさ。」
私は言われた通り目を閉じてみた。
「ーさん。清水さん。聞こえますか。清水さん。」誰かが私を呼んでいる。行かなくちゃ。
「あぁ良かった。清水さん、大丈夫ですか?」看護士さんだった。
「はい、もう大丈夫です。ありがとうございます。」
「ちょっと疲れが出ちゃったみたいね。点滴して少し休んだら帰って大丈夫よ。」
そう言って看護士さんは部屋を出て行った。
カリカリカリカリ。カリカリカリカリ。カリカリカリカリ。
相変わらず頭からは変な音が聞こえる。けれど、もう怖くはなかった。私は生かされているのだ。