<初めに>
Facebookから来ていただいた方は「****」以降のみ読んでいただければと思います。それまでは同じような事を書いています。「お前書いてた事意味わかんねーよタコ助!」と言う方は初めから読んでください、もう少しちゃんと書いたつもりです。そう思われた方、文章下手くそですみませんでした。
今日は人体実験について思うところを書きます。
昨日、近所のマクドナルドで友人と話をしていたところ、ひょんなことから話が医学の方に向き、そんな中でも精神医学はどうすれば進歩するかということを喋っていた。
人体実験の規制がもっと緩ければ、感情と脳の活性の関係などヒトに特有と思われるような事の観察や研究が積極的に出来るのではないか。人体実験の規制を緩和する事は精神医学の進歩に貢献するのではないか。このような内容の話をしていたところ、その友人の口から「でも倫理的にそれはよくないのでは」というような言葉が出たところから人体実験の規制をする事はどうなのかと考え始めたのだった。
倫理的…?何だろうそれは。
なぜマウスで実験して良くて、なぜ人で実験してはいけないのだろうか。人々を止める「倫理観」とは何だろう。
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確かに小学校や中学校で道徳という授業でよくわかりもしない「道徳的に正しい」ことを教わっている身分として、人体実験をより積極的に行うべきかと問われたとき普段であれば「そうすべきでない」などと「適当」なことを言うだろう。
しかし、本音は「人体実験をする事の何が良くないのか、もっと積極的にすればいいのではなかろうか」である。
「倫理的」や「道徳的」というような難しい言葉を使っているが、自分が属するコミュニティーにおいて自分という人間が悪くみられるのを嫌がってそう言っているのではないのか。少なくとも私はそう考えている。
強盗しないのは罰せられる上、周りから「あいつは悪い奴だ」というレッテルを貼られるからだ。もしそうでなければ、もし何も自分に悪影響が無ければ強盗をする人は増えるのではないだろうか。私が人体実験に賛成だと声を大にして主張する事がないのはそれと同じようなことだと思う。
では医学の進歩には人体実験を積極的する事が必要だと言うことの理由を以下で述べる。
先ず言いたいのは貴方は薬を使ったことがないか、医療機関にお世話になったことはないか、と言うことである。医療機関における技術は基本的には前例があり、その効果が確かめられたものであるはずであるから、その恩恵を受けている者として実験反対を主張する事は些か不自然ではないだろうか。
テクノロジーの進歩には失敗が付き物であり、それを無くして進歩などとは到底あり得ない。失敗や犠牲を出すことを否定するのならばテクノロジーの進歩を否定することになる。新しい感染症が見つかってもそれにかかればもう諦めるしかない、難病にかかっても諦めるしかない、そう言っていることと同値であるように私は思う。
マウスでは失敗しても良く、人では失敗ができないというのもおかしい。同意を取れば人を対象にした実験をしても良いという立場である人に対してはこう問いたい。では、研究者はマウスに同意を取って実験しているのか。
実際に今日では次から次へと新技術のために犠牲を出している。実験対象動物としてのマウスとヒトの違いを誰もが納得するように明確に説明できるのだとすればマウスでの実験とヒトでの実験に区別をつけることはできるかもしれない。そうすることが難しいと感じる私には動物実験による恩恵を受けている以上人体実験の積極的実施に反対できる資格すらない。
医学の進歩を望む立場に立っていること、それは即ち積極的な人体実験の必要性を主張する事であると私は考えている。
今回もごちゃごちゃと書いてみましたが難しいですね。この文章に矛盾を感じなかった人、また私自身にとって、それぞれの最も大切な人が人体実験により命を落としたとき全く同じことを言うことができるでしょうか。論理的な矛盾はきっとないように思えるのに何か引っかかる。その何かを論理的に説明できるのならば、「倫理的」という言葉の本当の意味を理解できるのでしょう。
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