死後の世界は存在するのか。
死と言うものは誰もが迎える決して逃れることはできないものと言うとなんだか暗い気持ちにもなる。一方で死と言うものをもって人生のゴールと言えばなんだかこれは幸せのようにも思える。人によって死の捉え方は様々であるが実際に死と言うものはどういうものなのか。死を迎えたらその後人はどうなるのか。そんなことを今回は前回に続けて考えてみることにした。
これを読む前に前回の記事を読んでいただけるとありがたい。前回は環境と体内の状態の変化量の和が微小時間Δtでは任意の正の数ε以下になるとき自分を認識することができるとした。これより変化が多い三歳までの期間を物心つく前と呼んだり、思春期では自己について考え悩むことについて書いた。今回はその考えをそのまま使って死後の世界を考えるとどうなるか。ということを書く。
死ぬまでは自己認識はできているとすると、微小時間Δt動いたときの状態と環境からなる関数の差分は十分小さい数εより小さくなる。こう考えると死ぬときまでは与えられた関数は連続していると考えられる。
死を迎えると体は大きく変化して行く。環境は大きく変わらなくとも体が酸化されていく。そうすると自己判定プログラムはfalseを返す。つまりこれは自分自身ではないと判断する。一般的には死後意識を保つことはできないと考えることができそうだ。
しかし特定の環境におかれ、ミイラのように身体の変化が死ぬ直前と死んだ直後でそれほど変わらず、さらにその後も穏やかに身体が壊れていく反応が進むとすれば、直前と今の差異が小さくなりその「死体」は自分なのだと分かるのかもしれない。
しかしプログラムが脳の中にのみあったとすれば(同じような自己認識をする構造が脳以外の場所になければ)脳が動かなくなってしまえばプログラムがtrueを返すこともなくなってしまう。
では、全身に同じようなプログラム(自己認識をするプログラム)があったとしたらどうか。死後も変化や破壊、腐敗の少ない部位だけが自分自身を認識しさまようことも考えられそうだ。生首や、腕の切れ端が宙を彷徨っているのは自身が生前とは変わらない状態でそこにあると判断され、しかし周りからは生前とは異なる形相でそこにありつづけるのかもしれない。
最後はなんとなく考えもまとまらないまま書いてしまいましたが、とにかく考えてみたかったのは幽霊の類のものが実際にあるとしたらその存在を証明するためにどんなことを考えれば良いのかというところへ、結びつけてみたかったのです。また考えがまとまればもう少し綺麗な文書にして書いてみたいと思います。
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