頭が割れるように痛い、呻きながら美羽は状態を持ち上げた。
豆電球だけに照らされた部屋は薄暗く、時計の秒針のみ音を立てていた。
おぼろげにしか記憶はないが、ここは自分の部屋で、昨夜浴びるほど飲んだお酒のせいでとてつもない頭痛に襲われていることだけは覚えている。
美羽はゆっくり手を伸ばし、チェストの上においてある眼鏡をかけた。視界が幾分かはっきりしてくる。
学生のころから使っている古い眼鏡だ。実は、美羽は平均値より視力がよくない。
だけど自分の持っている眼鏡はデザインが古いしダサいし、たぶんこんな眼鏡をかけている冴えない自分は夏鈴さんとは不釣り合いだし、なにより野暮ったすぎて彼女の前でこの姿を晒すなんてことは決して許されないことだと思っている。
眼鏡を新調したいと思う気持ちはなくもないが、なかなか眼鏡屋にいく時間もとれないし、結局多少視界が悪くても美羽は自宅にいる時以外はコンタクトで生活すること選んだ。
ふらつく足でベッドを降り、床に放り投げてある洋服を拾った。フローリングに手を伸ばすと、腕まくりをしていた袖がだらりと落ちてくる。
長いスウェットのボトムを少々ひきずりながらリビングを通ってキッチンに向かう。冷蔵庫をあけると、ほとんどカラの状態だった。これでは何も作れない
(あ、そういえば)
気がついて、壁にかかっている時計をみる。もうすぐ朝の五時だ。いつもなら、夏鈴さんの家に向かっている時間だ。
(もう、夏鈴さんの家にいく必要ないんだな)
そうだ。
もう終わったんだ。夏鈴さんは、夏鈴さんが浮気をしていると疑っている。
しかも、昨夜美青と鉢合わせして誤解をさせてしまった。
実際、それは本当に誤解なのだけれど、たぶん何か言い訳をしたところでもう夏鈴さんとはうまくやっていくことはできないだろう。
「お腹減った…」
何かを食べないと。
そうだ、牛乳とパンとサラダを作るための野菜を買いにいこう。冷蔵庫がカラのままではよくない。
ぼんやり考えて、美羽はカギと財布とスマホだけをポケットに突っ込んで、玄関にふらふらと移動した。
下駄箱のよこに掛けてある全身鏡に自分の姿がうつる。髪の毛はボサボサで、スッピンだし、だらしないスウェット姿のダサイ眼鏡がそこにははっきりと映っていた。
こんな格好で外を出歩くなんて、いつもならしないのに。
(もうどうでもいい、夏鈴さんに会にいくわけでもないし)
これが本当の自分だ。
玄関で、一番手前に転がっていたサンダルを履くと、美羽は扉をあけて外に出た。
+ + + +
まだ人通りの少ない早朝の商店街。
そこを通り過ぎて二つ目の角を曲がれば、美羽がよく行く二十四時間営業のスーパーがある。
いつも、ここを自転車で通り抜けて夏鈴さんの家に通っていた。空気が澄んで清々しい冬も、少し風が重たくなりはじめた春も、青葉の夏も、空が一番青く見えた秋も。
スーパーにたどりつき、見慣れた自動ドアをくぐり、かいもの籠を手に取る。まだ早朝のため、店内には美羽と数名の店員くらいしか姿がなかった。
頭で考えるのが面倒で、いつもはちゃんと吟味する野菜類を籠のなかに適当に放り込んでいく。ついでにドレッシングと粉チーズも。
いつもの六枚切り食パンと、あとは牛乳だ。乳製品売り場の前で、美羽は立ち尽くす。そういえば、夏鈴さんのときは決まって高い牛乳を買っていた。
美羽が普段は絶対に買わないような値段のものしか。もうその牛乳を買うことなんて、今後一切ないんだろうな。そんなことを考える。
できるなら。たった一度でいいから、ベッドでともに朝を迎えて、彼と朝食を囲んでみたかった。その光景を何度も夢にみた。
野菜たっぷりとサンドウィッチとスクランブルエッグ、あたたかいミルクに彩りのあるフルーツ。
テーブルの向かいには眠たそうな彼女の姿。馬鹿みたいだ。こんな妄想。はやく現実と向き合わなければ。
いつも夏鈴さんのために買っている牛乳の、一段下にある、見慣れたパッケージに手を伸ばす。
後ろにある、賞味期限が長いものからとったほうが得かな、などと思っていると、突然腕をつかまれた。
「…っ!」
そのまま腕を強い力で引かれ、美羽は目を見開く。
「な、んで…」
そこには、夏鈴さんがいた。
一瞬頭が真っ白になって身を固めた美羽だったが、すぐに我にかえる。
今の自分の姿を、夏鈴さんに見られてしまった。こんな冴えない姿を、よりにもよって夏鈴さんに。
(最悪…!)
唇を噛んで顔を赤くする。美羽は力任せに夏鈴さんの手を振り払い、顔をそむけて逃げようとした。
「待って」
すかさず夏鈴は逃がすまいと、美羽の手首を掴んで止める。
「はなして、くださいっ」
「話をきいて、みう」
「...聞きたくない、っ、」
暴れる私を、夏鈴さんが引き寄せる。負けじと私も身をよじった。
夏鈴さんが掴んだ私の手首に思いっきり力をこめる。
「全部、美青から聞いた」
彼女が言うと、美羽がビクっと体を震わせた。体の中から血の気が引いていくのを感じる。美羽は、暴れるのをやめ、すっと、全身から力が抜けていた
「……あ…そう」
なんだ。そうだったのか。
だったら、夏鈴さんはもう、私のこの浅ましい気持ちや、鬱陶しくて重たい感情も知っているわけだ。
「…幻滅しました?」
薄ら笑いを浮かべて言う。それをみて、夏鈴さんは眉間に皺を寄せた。
本当は、なにもできなくて、夏鈴さんのためにただ一生懸命だっただけだ。おまけに気持ちも重いし、背伸びばかりで、家にひとりでいるときは身なりも気にしない。
つまらないことでグダグダ悩んで、ネガティブで、面倒くさくて。
そのくせ、愛は重たくて。そんな私と付き合って、同棲するなんて、きっと疲れるだろう。
「美羽。私が、どんな気持ちで暮らしたいって言ったかわかる?」
夏鈴さんの問いに、ゆっくり首を振った。
「美羽がいつか誰かに横取りされるのが怖くなって、それならいっそのこと美羽を囲ってしまおうと思った。だから同棲をもちかけた。そしたら、こっぴどくフラれた」
「べ、別にふってなんか…」
「きっぱり断ったでしょ」
「それは…そうですけど」
視線をおどおどさせながら美羽は口ごもった。別に同棲するのに抵抗があっただけで、夏鈴さんと別れるつもりなどこれっぽっちもなかった。
けれど、安易に平静を装って断ってしまったせいで、夏鈴さんには違う意味に受け取られてしまったのかもしれない。
「それに。私は美羽が浮気をしてるかもしれないと思ったとき、」
「浮気なんかしてません!」
「わかってる。それは昨夜美青から説教されちゃった」
「へ?!」
夏鈴さんは罰の悪そうな表情を浮かべると、髪を不器用に掻いた。こんな彼女の表情ははじめてみる。
「いい?美羽」
夏鈴さんは私の両肩を掴んだ。真正面からみた彼女の顔は、本当に真剣で、思わず息を飲んだ。
「私はね。もし、浮気してたら。その浮気相手を半殺しにして、一生社会に出れないくらいにしてあげようとしていた女だよ」
「…え」
思いもよらぬ言葉に、目を丸くした。
「どう?幻滅した?」
「…幻滅はしてないですけど、、ちょっと引いたくらいです」
咄嗟のことに本心が口をついてでた。すかさず口元を押さえて、申し訳なさそうに夏鈴さんを見た。
「ふふっ、みう」
名前を呼ばれ、掴まれた両肩にじんわりと力が籠められる。
無意識に、体を引こうとしたが、それを夏鈴さんは許さなかった。
「知らないでしょ。私がここまで執着心が強くて独占欲まる出しで、度量の狭い女だって」
知るわけがない。そんな片鱗すら、感じたことはなかった。
夏鈴さんの言葉にわずかな疑念を持ちながらも、熱の入った真剣な視線を向けられ、美羽は体を硬直させることしかできなかった。
なぜって、夏鈴さんの瞳がうるさいくらいに訴えてくる。好きだ、好きだと。熱情を孕んだ目を向けられるのが心地よく、それでいて夢のようで信じられない気持ちでいっぱいだった。
「ちなみに私は、美羽のそういう野暮ったい姿もすきだよ」
「…はっ?」
「寝ぐせで跳ねた髪も顔に合わない大きな眼鏡も、誰にもみせない寝起きの服装も」
夏鈴さんの両手が、肩から頭に移動して、美羽のぼさぼさの髪をなでた。突然のことでわけがわからず、思わず手に持っていた買い物籠を落としてしまう。
顔が熱い。もしこれが夢でないなら、これが現実なら、こんなの、幸せすぎる。
夏鈴さんが、本当の自分を受け入れてくれるなんて、そんな幸福なことがあっていいのだろうか。
「美羽、もう1度聞きます」
夏鈴さんは聞いたことがないくらい穏やかな声で言った。
「私と暮らしませんか」
「…………」
「みう?」
「…あ、わたしは…」
「やっぱむりだなんて言わせないからね」
この先輩は、どうしてこんなに自分のような人間に対して必死になっているのだろう。まったく理解できないのに、その気持ちの熱量だけは嫌というほど伝わってきて。
「わかった?」
あの時、同棲しようと言われた時はあんなに苦しかったのに、どうして今はこんなに嬉しいのだろう。
あの日、夏鈴さんの部屋でそれを聞いたときは絶望にも似た感情だけが心に重くのしかかった。
それなのに、今は。たまらないくらいに嬉しい
美羽は湯気がでそうなくらいに赤くなった顔を見られたくなくて、隠れるようにうつむいた。
そして声も出さずに、控えめに、頷いた。
はずかしい。死ぬほどはずかしい。でも、死ぬほどうれしい。心臓が壊れてしまうのではないかと思うくらいに大きく脈を打っている。
「頷いたね??」
「……はい」
「ふふっ」
いつもより夏鈴さんが楽しそうだ。夏鈴さんも嬉しいのだろうか。もし、そうだったらいいなと思った。
「じゃあ今から同棲に必要なもの買いに行こ」
幸福感に打ちひしがれているところ、彼女の発した言葉に、弾かれたように顔をあげた。
「えっ…今から?」
「え、うん?」
「別にそんなに急がなくても」
「あとから気が変わったと言わせないために」
そんなこと、言わないのに。
せっかちだなと思いながらも、何も言い返すことができなかった。
彼女は、私が落とした買い物籠を拾いあげると、私の手を強引にひいてスーパーの中にある生活用品コーナーまで連れてきた。
「何買うんですか」
「ハブラシ。」
目についた棚からハブラシをとり、籠に放り込む。毛先のとがった、私の好きな色の青の柄のはぶらしだ。
そういえば、彼女の部屋の洗面台にあったハブラシは紫柄だった。青と紫のそれが並んでコップにたてかけてある様を想像して、口元をゆるませた。
「あとは?同棲にはなにが必要?」
「んー、、、」
「なに」
「...お揃いのマグカップ、とか、?」
あの時は夏鈴さんがいつでも自分の部屋に招けるように、自分で買ったお揃いのマグカップ。そのマグカップが使われることは無かったけれど
一緒に選んだマグカップでゆっくり二人でココアでも飲みながら朝を過ごしたい
「いいね、買いに行こう」
マグカップがたくさんあるところに向かった
「この猫、夏鈴さんみたい」
白い猫で目つきは少し鋭い。
「え〜似てる〜?」
「はい。だいぶ」
「あ、ならこっちの黒猫は美羽に似てる」
「えー、似てないですよ」
そんなことをいいながらお互いに似てる猫柄のお揃いのマグカップを無事に買うことができた
「あと必要なものは?」
夏鈴さんは私の顔を覗き込んだ。
「あ…」
夏鈴さんの顔をみて、美羽は思い出した。
「ベッドを…」
「ベッド?」
「あのベッド。新しくしません?一緒に寝るならセミダブルだと狭いし……」
恥を忍んで言ってみる。
「却下」
すぐさまピシャリと言い切った。
「な、なんで!」
「.....だって、できるだけ美羽の近くで寝てたいし」
「…っ!!」
「引いた?」
「...いえ、とても嬉しいです」
その言葉を聞いて
夏鈴さんはせかすように手を引いた。
買い物カゴの中にある商品の会計を手早く済ますと、まだ人通りのすくない早朝の歩道を突き進む。
夏鈴さんに握られている手が、じんわりと熱い。美羽はかすかに、その手を握り返す。
すると、その動作に気がついた夏鈴さんはチラリと私の顔を振り返り、またすぐ進行方向に視線を戻す。
「美羽」
「……?」
「今日からよろしくね」
ふと、空を見上げた。二羽の鳥が遊ぶように舞いながら、飛び去って行く。
どこかにある巣に帰るのだろうか。その鳥たちが見えなくなるまで視線で追った。
夏鈴さんと一緒に歩く通い慣れた道は、どこか違う風景に思えた。この道の先に、帰る家がある。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
思わず嬉しさがこみ上げる。
春の空気を、思いきり吸い込む。晴天。今日は洗濯物がよく乾きそうだ。
END
お久しぶりです。ここまで読んで頂きありがとうございます、楽しんで頂けたら光栄です^^