失敗をたくさんしてきた。

だから、失敗の「本質」みたいなことも、自分なりに解ってきた。


失敗は、いつ発生するか? ということ。

つまり、どの時点から「失敗」は「失敗」になるのか? ということ。

意外に認識不足だったのは、このこと、だった。


たとえば、道を歩いていたとしよう。

そして、なにかに躓いて転んだとしよう。

ここでは、実はまだ、失敗は生まれていない。

「あれ、こんなところに穴凹が。さては、こいつに足を取られたな」

「よく見ると、他にも草陰に、穴凹が。これは少し気をつけよう」

転んだ私は、「学習」して、「勉強になったわい」と思ったとします。

こうなると、ついに、失敗は生まれずじまい。


ところが、転んだ後で、通ってきた道を責め、

その道を教えてくれた人を罵り、

転んでしまった自分を大いに嘆き悲しみ悔いたとしましょう。

不幸な時間がだらだらと流れ、悪態をついているワタシに関わらないように、

周りの人は遠巻きに追い越していきます。

どれだけ嘆き悲しんでも、一向に救われないし、

通る誰ひとり、私のことを助けたい気持ちになりません。

あとは、不幸とワタシの根競べ、不幸せ競争が続くだけです。

いかにワタシが不幸なのか...

これこそ、「失敗」が生まれ、さらに大きく育っていく姿です。


転んだときには、まだ「失敗」じゃない。


「失敗」が生まれるかどうかは、その後のアクションに因るのです。



転ばないことばかり考えると仕舞に歩けなくなる。

それよりも、上手な転び方を身につけよう。

受身を覚えることで怪我も減り大きな技を試す自信も生まれるのだ。