◆2004年 4 月 30日 ~旅日記より
エル・チャルテンへ向かう大きなバスの乗客は、私の他に女性2人と子ども1人だけ。
ハイシーズンには多くの観光客が乗車するのだろうが、この季節にはこれが現状。
車窓から外を眺めながら、自転車で苦しみながら移動してきた道を、こうしてバスで戻ることに、少し妙な違和感を感じている。
バスのタイヤが石ころを跳ね飛ばし砂埃を上げながらの高速走行。
人力とエンジンの差を、まざまざと感じさせられた。
R40号線からチャルテンまでの道は舗装工事中であり、結局5時間ぐらいかかり到着した。
天気は良くバスを降りると、静かな集落の向こうに名峰フィッツロイがそびえている。
鋭く尖った岩峰はクライマーでなくとも魅力的に映る。
さて、まず宿探しは、情報である程度決めていたのでスムーズに決まる。
チャルテントラベルのバスの発着があるユースホステルが便利で、22ペソと高く感じるもののここにした。
宿にチェックインを済ませ、シーズンオフの静かな村を散策しようと出たところで、アジア人らしき3人組の男性がいて、最初サングラスや風貌から中国人かな?そう思ったものの、一応日本語で話しかけた。
「こんにちは」
するとサングラス男性が「日本語がしゃべれるんだ」と応えてくれ、私も「はい!日本人ですから」と、日本人3人組のようで、「どこに泊まられるのですか?」「自分はそこのユースホステルに泊まりましたが、22ペソでしたよ」などと話すと、どうやら彼らは私をネパールのシェルパと間違えたとのこと。シェルパ族の人はこんな顔をしているとのこと本当かな?
自転車で旅していることや、どこから走り始めたかなど簡単に説明し、彼らとは一旦別れた。
観光客もほとんどいないシーズンオフの小さな村だったが、その後、思わぬ形での再会となった。
村内を散策していると、どこからか「お~い」と聞こえ、周囲を見回すと、小さなレストランの前で先ほどのサングラス男性ともう1人が立っており、手招きをしている。
近づくと「メシ食わしてやるから」と、だみ声ながら優しい感じで食事に誘ってくれた。
久々に美味しいものが食べれると、誘われるままテーブルについた。
お客は、私を含め日本人男性4人で囲むテーブルだけのよう。
1人子どもが他のテーブルで勉強しているようだったが、レストランオーナーの子どもだろうか?
久々にビールを飲みながら、これまでの自転車旅での行程や主な出来事などを彼らに話す。
彼らの話しで驚いたのは、なんと!あのサングラスのだみ声の男性が冒険家植村直己さんがマッキンリーで遭難したときの捜索隊長をされたということ。
あの国民栄誉賞の登山家でもあり冒険家の植村直己さんの明治大学登山部のときの同級生で、非常に仲が良かったことも話からよくわかった。
そうか・・・あの植村さんの・・・。
最初は外見から中国マフィアみたいな印象を持っていたのが、一気に尊敬に近い印象に変わった。
植村さんの「青春を山に賭けて」など、幾つもの書籍を読んでおり、植村さんの姿がこのサングラスの男性に重なったことも大きい。
確かに、目の前のこの方から、山男の雰囲気もしないことはないと感じた。
と、ここまででも、十分感動的な出会いであるのだが、この後にもっと驚くことになった。
ビールやワイン、マスのフライ、肉などをよばれながら、話が出身地のことへ移った。
「ところでどこに住んでるんだ」
「鳥取県です!」
「なにっ、鳥取のどこだ、俺は米子だ」
「えっ、自分も米子市です。三本松です。」
なんと!この植村直己さんの親友で捜索隊長もされた方、廣江さんは、自宅近くの福祉法人の理事長をされている方であった。
自宅から500mぐらいの距離にお住まいの方と、こんな地球の裏側の小さな村で出会うなど、夢にも思わなかった。
本当に奇跡的な出会い。
たまげた!!
もし私がこの日バスでエル・チャルテンに来なければお会いすることはなかった。
もし廣江さんが、GWの旅行でアルゼンチンのパタゴニア地方へ来なければお会いできなかった。
それぞれのタイミングが数分ずれていてもこの出会いはなかったわけで、そう考えると奇跡の出会いにしか思えなかった。
他の2人も山岳会のお仲間だそうで、一人はアルゼンチンに住まれているとのこと。
旧友同士で楽しい旅をされているようで、ひとり旅の私は少し羨ましく感じた。
その後もたくさん食べ飲み、18時発のカラファテ行きのバスへ乗車されるまで酔いでフラフラしながら見送った。
宿の部屋に戻り、廣江さんから頂いた、米子のスーパーで買ったらしいアラレなどのお菓子を見つめながら、不思議なこの出会いが何か大きなもののような気がしてならなかった。
●出費 4月 30日
●宿代22
計 22(合計 2910.77ペソ)
1USドル⇒2.83アルゼンチン・ペソ